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シャルルマーニュ伝説 4 馬・怪物・剣

騎士達が乗る馬には、驚くべき能力を持ったものがある。人のように賢いもの。空を飛べるもの。肌が鉄のように堅く、どのような剣でも突き抜くことが出来ないもの。 騎士が闘う怪物もそうである。肌が非常に堅くできており、剣でも突き抜くことができないものが多く登場する。しかし、そのような怪物達にもたいがい弱点があり、ある部分だけが柔らかくできていたりする。 剣にしても同様で、どのような堅いものでも貫くことが出来るものが出てくる。しかし、先出の怪物のほうが堅く、貫くことは出来なかった。 荒唐無稽な話ではあるが、中世という時代を後世から振り返り、想像をたくましくして描いたものであろう。ドン・キホーテの物語において、ドン・キホーテが夢みている騎士の姿がどのようなものであったかを想像するとき、この物語が助けてくれる。 「シャルルマーニュ伝説」  講談社学術文庫  トマス・ブルフィンチ著 市場泰男訳

シャルルマーニュ伝説 3 女性騎士

ブラダマンテという女性騎士も現れる。剣術の腕は強く、乗馬にも優れ、正義感に溢れ、誠に素晴らしい女性像が描かれている。 ブラダマンテは、勇者として優れているが、愛らしさも覗かせる。ロジェロという異教徒の勇者と恋に落ち、ロジェロがキリスト教に改宗した上で二人は結ばれる。 根拠はないが、手塚治虫の「リボンの騎士」はこの物語をヒントにしているのかなと感じた。 「シャルルマーニュ伝説」  講談社学術文庫  トマス・ブルフィンチ著 市場泰男訳

シャルルマーニュ伝説 2 若き騎士達

物語には幾人もの勇者が出てくる。中世の騎士である。オルランド、リナルドという騎士達であるが、彼らは貴族の出で、シャルルマーニュとも血縁関係にあるという設定になっている。 適役となる勇者には、アグリカン、グラダッソ、マンドリカルドなど、シャルルマーニュから見て異教徒の人々が登場してくる。イスラム教徒であったり、タタール人や中国人であったりする。(名前は、それらしくないが。) 若い騎士達は、お互いの中で腕比べをしたり、イスラム教徒や東方の民族と闘ったりする。イスラム教徒が出てくるのは、シャルルマーニュの時代に、北アフリカからイベリア半島へと侵略を続けたイスラム教徒と、フランス進入を阻止して闘った歴史的な背景があるのだろう。 中世ヨーロッパだけに話が留まらず、イスラム、中国と国際的な視野で物語が展開するのは興味深い。 「シャルルマーニュ伝説」  講談社学術文庫  トマス・ブルフィンチ著 市場泰男訳

シャルルマーニュ伝説 1 シャルルマーニュ

中世ヨーロッパのフランク王国の国王シャルルマーニューー日本ではカール大帝と呼ばれることが多いようだーーにまつわる伝説を集めた物で、中世騎士物語のスタイルを取っている。フランク王国は、古代ローマ帝国が滅亡した後、今のフランス・ドイツ・イタリアの大半に位置するところに興った国で、西ヨーロッパ諸国の源の一つのような国である。シャルルマーニュは、フランク王国の最盛期に現れ、国威も文化も高めた国王であった。 この本の中で取り上げられている中世騎士物語は、そのような実在するシャルルマーニュとは直接には関係なさそうな破天荒で愛嬌のある物語である。フランク王国を隆盛に導いた武勲と文化振興からイメージされる知的で厳しく威厳のある人物とはかけ離れたシャルルマーニュが物語には登場する。 シャルルマーニュを取りまく、その他の登場人物達も、生真面目で信仰深いが、どこか間の抜けたような性格の者ばかりである。確かに、英雄が揃い、腕に自信のある強者ばかりが集まっているが、物語はどこか間が抜けていて愛嬌のある筋が展開される。 「シャルルマーニュ伝説」  講談社学術文庫  トマス・ブルフィンチ著 市場泰男訳 

ジェイムズ・ジョイス 「フィネガンズ・ウェイク」 30 えんえん

長く不思議な物語も終わりの言葉へと導かれていく。 やってくる、とおくからおとうさんが!ここで終わり。ではわたしたちを。フィン成ーれ、また!取って。あなたのやさしいくちづけを、わたしのわたしの思い出に!幾千の果てまでも。くちび。の鍵を。わたしたの与!ずーっとひとすじにおわりのいとしいえんえん(3・4巻p466) 英語の原文では、最後の言葉が物語の最初とつながっていて、円環のように終わりなく延々と続くことが表現されている。だから柳瀬訳は最後が「えんえん」。ふたたび最初から始まって延々と物語は続いていくのである。 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

ジェイムズ・ジョイス 「フィネガンズ・ウェイク」 29 ありしごとくあれかし

ありしごとくに。一度何かちがうものに変わってしまった自分が再びありしごとくに戻るとき。 だが以然にありしいかなる体もここに現存せず。ただ秩序のみ他化され。無の無 化されて。ありしごとくあれかし!(3・4巻p433) 正岡子規の短歌にある「われならなくに」という言葉を思い浮かべた。ちょうど「ありしごとくに」という表現と対をなすような言葉だから。 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

ジェイムズ・ジョイス 「フィネガンズ・ウェイク」 28 われらは過ぎゆく

おびただしい亜地亜の灰墟から起き立ちてもう猛もく墨、纏てん炭たんくすぶるとき、不寝寝眼の目覚めるごとく。 過ぎゆく。一。われらは過ぎゆく。二。眠りからわれらは過ぎゆく。三。覚醒の紆廻戦の世へ眠りからわれらは過ぎゆく。四。きたれ、刻よ、われらが自刻!(3・4巻p424) 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

ジェイムズ・ジョイス 「フィネガンズ・ウェイク」 27 雲のなかに消え去るみたいに

あの人がわたしたちを雲のなかに消え去るみたいに見ていたのを思いだします。あの人が汗どこ脇で目覚めたとき許してあげるのでした。金欣髪らつ、わたしは天に地かってです。(3・4巻p438) イエスが天に向かって雲の中に消え去ったように、あの人はいなくなった。 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

ジェイムズ・ジョイス 「フィネガンズ・ウェイク」 26 見よ、彼が戻ってくる。

IV巻では、女性の語りになる。 子供が、実の子が、いろんな記憶名で既知られていたのが(ちゅんちゅん)、たぶん最近の、ひょっとして遠くの年に攫われちゃったらしかった。それとも呪文の早業で消えちゃった。うまいものだよレモンの乙よ。(3・4巻p400) 見よ、彼が戻ってくる。再生祖生。フィンぐり返った化身。(3・4巻p400) 子供が攫われて消えてしまう、と語り始めるのは母親、聖母マリアを暗示しているのだろうか。 そして、その子は蘇って帰ってくるのである。 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

ジェイムズ・ジョイス 「フィネガンズ・ウェイク」 25 青息の世へ

聖寂!聖寂!聖寂! 黎明の丘陵へあまねく呼ばわる。今日の昇る黎明の丘陵へあまねく呼ばわる。美光よ!蘇りよ!アイルのアイアウィーカーが青息の世へ。(3・4巻p395) あの鳥の生きうつしの徴なりうるものへ。あまたなる事の葉を探せ。東方のえいちしいいいにオシアニアへと霞む。(3・4巻p395) 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

ジェイムズ・ジョイス 「フィネガンズ・ウェイク」 24 解放者

解放者が起き立つこと、それは死からの復活。 きれいな宿木二本、立木にリボンでゆわえられ、解放者が起き立ち、そしてなんと、彼らの三は自由になった!(3・4巻p389) 解放者にして救い主イエス・キリストは二本の木で出来た十字架にかけらて、死に至り、そこから復活した。そして三位一体の神は成就した。繰り返し復活のことが示唆され、その度にイエス・キリストのことを思い起こさせる。いろいろな人物やごちゃごちゃした物が無秩序に現れては消え、物語は混乱を極めて、読者としては収集がつかない状態にあるにもかかわらず、いつも根底にはイエス・キリストの復活が主題として流れていることは伝わってくるし、そのことを意識せずには言葉を拾えないのである。話の筋が全然見えないのに、話の主題が明瞭になってくるのだから、全く不思議な物語である。 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

ジェイムズ・ジョイス 「フィネガンズ・ウェイク」 23 聖油そそがれた白髪まじりの

眠っていた男が起きあがり、その傍には小さい体の女が坐っている。 止まれ!動いたか?いや、じっとしとる。寝かせとけ!寝とる。(3・4巻p365) しかし、一体神体、この見捕ラえがたい男は誰あろうか、どこかのイースト菌ぐ、聖油をそそがれた白髪まじりのブロンズ色の鬘をつけ、口から泡雪、カスピれ声の喘息ぎみで、ずいぶん造りのかさばったこの男は?(3・4巻p366) ところであいつのそばにいる編み棒みたいな小っ体のは誰ですかいな?那珂なか渋い御裳濯女では?(3・4巻p366) 眠っていた男は、本当に眠っていたのか、それとも息を引き取っていたのか。不明瞭な書き方のうちに物語は進んでいく。 男は、聖油を注がれた、つまり神によって祝された者のようである。 それは、イエス・キリストの復活を示唆している。この物語は、主の復活を一人の男の通夜の場面にかけて描いているよう。 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

ジェイムズ・ジョイス 「フィネガンズ・ウェイク」 22  われの闇より出で現れ

だれの声だろうか。心に響き渡る声が現れる。 わが心、わが母!わが心われの闇より出で現れ!(3・4巻p194) 「わが心われの闇より出で現れ」。心に留まって反響し続ける言葉。われの闇とは、何だろうか。自分の意識も気づかない意識下の部分、自分の中の邪悪な部分、それとも、生命の奥底に刻まれている本能の部分だろうか。いずれにしろ生命力に満ちた強い勢いを感じさせる部分だ。そんな奥底から心が現れるというのは、自分の醜い部分、本能的な部分、それともそんな部分から昇華した自分が現れるというのだろうか。 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

ジェイムズ・ジョイス 「フィネガンズ・ウェイク」 21 わが終末裔らよ

物語はクライマックスに向かって進んでいく。ショーンの語りの後には、四賢人たちによる対話が続いた。四人の賢人は、聖書の福音の著者を指し、そこに復活が重ねられている。ショーンは誰を示しているのだろうか。復活する父の子だろうか。 では、終末裔とは。復活する人のこと?血筋の最後の人、もうそれ以上は血筋が下らない人。 低く、長く、嘆き声がひろがった。あくび然たるヨーンが低く横たわっていた。(略)印画にも彼の夢独白は終わったが、いん果にもその劇的多弁論過はまだ先のことだった。(3・4巻p152) くだんの四粘人はともに登り、彼に対して誓いも固き星法院式詮索を開始した。なにしろ彼がつねづね彼らのいさかいのもと、いかなる女も観念をもつのに加えていかなる虫も肉体をもつことからして、彼ら自身がどう見るか、彼らの深夜会議は彼の一席二朝に値したのだった。(3・4巻p154) いまや、この教義の到達するに、われわれは結果を誘起する誘発的原因と後他つき結果をときおり誘因的に再起させる感化とを有しておるわけだ。(3・4巻p170) わが終末裔らよ、第一動因に対照して、ぼくの始祖末なるその父は知っているのだ、ぼくの思うに、そこからぼくは起因され、自己なるしるしとしてあり、空、浜、瀬を住まいつつあるものとなったのもぼくは聖職志贋を親託されたことに関してで将来の立場を所有しながら三度時自我のほうへと落ち込みながらもなお幼皮のままでいたころに習慣がついて(3・4巻p171) そして、話さにゃなりません、日供堂に如何様しくもよみがえる!!!(3・4巻p190) 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

ジェイムズ・ジョイス 「フィネガンズ・ウェイク」 20 最愛の妹よ

ジョーンからの妹への言葉。断片的なところを拾っていくと少し話の筋が見えてくるような気がする。 最愛の妹よ、とジョーンは即達する誠意をこめて郵弁に口をひらき、語法と婉曲留の不明瞭は消印し、スコラスティカな物言いとはただちにおさらばして深い愛情をもってして時をかせぎ、ぼくらが退場したとたんにおまえは痛くさびしがるだろうとぼくらは正直なところ思っているけれど、ぼくらはすべての務めの教会線を廃することに殉じるものとして感じるに、そろそろもう頃合いだから、大ハリーきりに乗って、長い最後の旅へさまよい去って、おまえのお荷物にはならないことにしよう。(3・4巻p67) われは起きるなり、おお、麗しの群がりよ!且つ始言すなり。さてはて、この序の入祭文ののち、わが銀河乙女らよ、こけけっこうな(3・4巻p67) しぐイアウ一家がわが血統だからして、われらは虻ら食むいさご虫のごとく永豪這に増足せんことを!(3・4巻p94) なあ妹よ、とジョーンはいいそえ、いくちっとばかかり陰気な雑声、それでもなお結高ふぁリューっトして、彼女に背をむけてそれの機嫌をとり、(3・4巻p100) もっと言いたいことがある。惜別の一言を述べて心の調べを静めるとしよう。契りだ。封印したっていい!それでおさらば、(3・4巻p112) さあて、おまえたちを見つめよう!(3・4巻p117) さればカモメの水平去らん、不憫だが、(3・4巻p128) 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

フィネガンズ・ウェイク 19 ドンキー

なんという原初の光景! もしわしがグレゴリー氏やライオンズ氏、ならびにドクター・ターピーの、それにそうそう、ミスター・マクドガル尊師の一致せる賢頭をもっておれば、ところがわしは、お驢下者だからして、彼らの四部飄飄踉老の鈍キーにすぎん。(3・4巻p12) すると見よ(目せよ、おお黙せよ!)私見わたる私流なして、翠旒の赤冷へ青流したるごとく、吹き流され、死ん淵のあん黒を抜けて緑いんとsてい深くわしは声音を聞いた、ショーンのしょう音を愛蘭民の國音を、遠いかなたからのぎょう音を(3・4巻p16) 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

フィネガンズ・ウェイク 18 創生

宜熱ス創生時の無関心時でないかもしれずあるかもしれずしかし。(2巻p216) 種族吃りにおける彼の光の恐怖は聾者の障害の宿命のうちに隠れ退くけれども彼の生の高みは花嫁の鳥瞰する茎点からすれば遠方をふさぐ山を意味する男が気ままに怠女勝ちを演ずる清水を徒渉するときであるとはいえ一行を沼沈せしめる誇りは通夜の栄光を請う一方で概要はルンバ踊りのカールする庭めぐりのごときであって、これら異神崇拝的題目は、(2巻p216) 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

フィネガンズ・ウェイク 17 壮大な連続体のなかで

話の筋はさっぱりと見えないが、そこに記されている文字や文章には、はっとさせられるいものが並んでいる。むしろ気にならない文章を探す方が難しいくらいである。木を見て森を見ずという警句がまさにぴったりで、そこに在る文章がいずれも非常に個性的で意味深いものになっていて、その稠密さ故に、私のような者には底辺に流れる文脈にまでたどり着けず、結果として物語の筋が把握できない。 数多くの者が、否、仰山の人間がまだ死の天使に召されずして今日このわれらの国にあり、この壮大な連続体のなかで慎ましき不可分個々として、宿命に神圧され偶膳に焜弄されつつ、時刻と日々のあるあいだ、彼らのこの地からおのれらがけっして去らないことを天上の霊に熱烈に祈るであろう、(3・4巻p150) 壮大な連続体。生命が親から子へと脈々と続く流れを指しているのであろうか。それとも個々の生命を超えて生態系全体を指しているのであろうか。一つの文章を読むのにさえ考えさせられてしまう。 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

フィネガンズ・ウェイク 16 雷鳴

物語のあちこちの箇所で、凄まじい大音声をたてて雷鳴が轟き渡る。そららの雷鳴は、言葉がいくつも並べられ重ねられて出来上がっているようだ。最初の雷鳴は、フィネガンが転落したときの音。それ以外も合わせて10の雷鳴が轟く。 ババババベラガガラババボンプティドッヒャンプティゴゴロゴロゲギカミナロンコンサンダダンダダウォールルガガイッテヘヘヘトールトルルトロンブロンビピッカズゼゾンンドドーッフダフラフクオオヤジジグシャーッン!(1巻p20) ガゴロゴミカズチガッシャナリイーンピッシャハンドレッドダンラガラコンジョインフィワンイナズマライウネガンエイチヴィアンスタンプランイゾルデトリクイーンヘイテンデスオジカンデスロカニャシーイーアナリンコ!(1巻p55) ガラガラガッシャンチャリーンハンプティダンプティカンパーイパトリックパースドッシャーンフィネガンガッツーンクロムウェルイアウィッカーフルートチェロリュートピゴオトパーネルアーサーギネスイノチミズオオ!(1巻p92) コンスシオリマクチクチョウバイタメイュンクソッタレアイコハルランドイナヅマピッカリゴスケベエオンナヤンパンバイショウフバイシンオマンマグリキンチャヌレボボタニマクリトリリパフキデルタオケケロゴロスケク(1巻p178) コトノクネクネヒネクレマガリニソトウチノスベテノマキバニロクジュウラシキカレノカノジョユルシヲグルグルリメグリニシャベリマクリノキンキンカンカンオドリノションボリココロニモンノナカノゾイテミタンダナヨ(1巻p218) ルサカバハヘミナリオヤジガトヲシメイテロゴロピカカシャッピトザドアートジマヨウチヘオリゲンジュウガッシャワレエドモルグランガスガビンガコンヤラガラゴハオシマイノンベカエリンコタカオカズヒコションベンカ(2巻p79) ミンナナカグルリトマワサンドボリヲタイコタタキノユメミガンプティヘイカラテンラクドヨクツドッテッダンプティヒャンチニハドップリザブシッコザブオシタヨクボキョウコータールウォーンデフルカワタクンノゲホン(2巻p225) パッパカパッパカヒンヒンハイハイドウドウヌカサンダブリンスカロクヤドロクワッセギッタンバッコノノノジノノヌフモンガンマックマックマックハッチャキオッコチボボエンヤトットノダブラントウチャンドゥードゥル(2巻p261) エッヘンガホゴホゴッガホイイシイエッチセキバ

フィネガンズ・ウェイク 15 えいえるぴい

えいえるぴぃという頭文字が、えちしいいいと同様に多くの箇所で現れる。もう一人の重要人物アナ・リヴィアのこと。主人公HCEの妻の名前である。 話しておくれよ アナ・リヴィアのことを!(1巻p364) 会意得ル泌彙(えいえいるぴい)(3・4巻p171) えい隈るぴい(3・4巻p191) 榮日い重流(3・4巻p192) 隈家る鄙居(3・4巻p194) あな多の婀娜(あな)リフィー(3・4巻p200) 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

フィネガンズ・ウェイク 14 四賢人

4人の賢人が現れる。すなわち 老マタ・グレゴリー 老マル・ライオンズ 老カ・ターピィ 老ハネ・マクドガル である。これらは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、新約聖書の4つの福音書の著者である。 四大四、愛蘭を書き寄せる四主濤、みんな聞いていた、四囲んと。老マタ・グレゴリーがいて、それから老マタに加えて 老マル・ライオンズの四主濤、しばしば昔はともに祈りを唱えたものだ、たっぷりと、イノチのシを、奇跡ヶ広場にて、さあこれでわれらは四人。老マタ・グレ ゴリーに老マルに老カ・タービィ。われら四人、これでやれやれ、確かにわれらは全員そろった。さてさて、おいおい、忘れちゃ困るよもうひとり、加えて老ハ ネ・マクドガル、われら四人、これで全員、さあさてそれではキリストのために魚をまわしたまえ、アーメン。(2巻p364) 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

フィネガンズ・ウェイク 13 死と生と

死と生との入り交じり。この物語の主題。生が終わって新しい生が生まれる。 きみ、きみは何名(なにな)をつける?(そして真に、哀れなる者の生き抜いた死がその者の死に入ろうとする生となる以前にその者は移転と移転との間にあるゆえに、彼もしくは彼はほぼんどーー彼は理性に対して骨軟化症であったが、精神の均衡はとれていたーー彼自身あるいは何一かのスキピオの夢かどっちゃこっちゃが捕らえた彼自身を失った彼あるいは彼は眺め、、、)(2巻p171) 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

フィネガンズ・ウェイク 12 一一三二

1132という数字が繰り返し出てくる。どういう意味であろうか。 洪歴1132SOS(2巻P370) PPO1132年頃じゃった、上陸を指揮していたのは蛾張りの将軍ボナパルドイチェ(2巻p372) ブライアン通りだったかブライド通りだったかの一一三二、一世紀遅れの歩哨が入り口近くにおった。(2巻p372) 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

フィネガンズ・ウェイク 11 地名

柳瀬訳にはたくさんの駄洒落や日本語の遊びが入っている。地名もたくさん出てくる。東急のこともでていたりする。 いったいなに尾しでかしたんだい、川内(せんだい)の聖獣鎮魂日にさあ?(p365 1巻) そのサビニの可愛(えの)こちゃんを(p367 1巻) 鹿児島県薩摩川内市の地名まで出てきている、訳者の知識には驚かされる。 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

フィネガンズ・ウェイク 10 蘇ること

H.C.イアウィッカに何かが働いている。HCEの物語上での重要性がほのめかされている部分がたくさんある。 なにゆえに汝は大地より弥有為(いやうい)っくに目覚めさせんと欲するのか、おお、どこぞの召還人よ、彼は歳重ねた塵に風化されおるではないか?(2巻 p74) イアウィッカと同じようにアナという名前が随所に挟まれている。重要な役割を担っているようだ。 というのもアナは始めにそうだったようにいまも生きており、大いなる深海の睡眠から再醒しつつ戻ってくるであろうし、白夜は高くこん然たる夢家みやたらなることはウェストウィックローに雲覆う雨期のあるごとくに驟雨確かであり、あるいは小さな薔薇が棘樹に生える怠け者であるごとくだ。(2巻p129) 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

フィネガンズ・ウェイク 9 えいちしいいい

たくさんの「えいちしいいい」がでてくる。 栄地四囲委蛇 1巻p19 栄恥しい違々 p21 嬰稚示威違々 p22 永地四位い移 p25 営地ニテ椎ヅカニ遺ータイトナレリ p26 えい地四囲夷為 p32 嬰乳枝為怡々 p33 これ以外にもたくさん出てくる。なんだろうと思っていると次の文章が飛び込んでくる。 大 いなる事実が露出する。すなわり、その歴史的時点後、これまで発掘されたハロンフリーの頭文字による自筆文書のすべてにHCEの署名があり、そして彼は、 ルカリゾッドの飢えがりーな痩せこけ宿無したちにはたんに長くつねづね人好しアンフリー公、同輩たちにはチンバーズで通っていたが、同等に確かに、民達の 快い気質がそれらの名称文字の意味として与えた仇名は、営地司位威々ことヒア・カムズ・エヴリボディこと万仁来太郎であった。(1巻p71) 「えいちしいいい」は、「HCE」のことで、H.C.イアウィッカーのようである。 偉大潔癖巨人、H・C・Eアウィッカーの崇高かつ長久かつ総徳の総存在に浸透する耶蘇性を知り、それを愛する者なら誰しもが、(1巻p74) HCEからヒア・カムズ・エヴリボディの渾名を持っていたようである。手が込んでいる。更に形を変えて「えいちしいいい」が出てくる。 そして千鳥歩きに、再浸り名が、こブモチー・こロンダーゾ・へッグバート・くラムウェル・るカリゾッド・だンマリー・れキセンレンマー・でーンユーシャ・もノグサー・かエサルノテキ・れッキトオーディン・でマノボークン・もトノモクアミー・あーサー・まタネール・ねゴトゥール・くンリンイグドラシル氏であるのか?(1巻p173) なんと出てくる長い名前の頭文字を取っていくと、「ここへくるだれでもかれでもあまねく」となるのだが、まさしくこれは「ヒア・カムズ・エヴリボディ」である。 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

フィネガンズ・ウェイク 8 ささくれのささやきの

流れるような、耳に心地よい響きの文章も出てくる。心惹かれる文章である。 ささくれのささやきのささめきのさやさやとさわぐささなみの、おお、めぐるひとすじの長く耳ー出アの葦の。そして影が堤をすべりゆき、お暗い伏す歌の、ほの暗い這う歌の、ほの暗い伏す黄昏から黄昏へ、なべて和睦の世の荒地のこのうえなくも陰りに翳りて、川むこうのじきにひとつのにびいろにかわりて。こちら側に婀娜背の水の地、森繁くまばら乱れ咲きて、ごん狐ムックスは音健な目を右顧したが、すべてを聞くことはできなかった。萄獅グライブスは光猾な耳を左眄したが、ほとんど見えなかった。(1巻p298) ムックスとグライブス。 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

フィネガンズ・ウェイク 7 不実の不寝番

フィネガンの通夜の不寝番達。 われらが呶物園のライオンがナイルの睡蓮たちを記憶しているように(獅リウスが子リオンを、棒霊が窓リッド出の惑マーゼルらの裸脚を、はたして忘却しようか?)おそらくは、二九まれごとの次第をじゅうぶん帯知したちびりちびらがわれらが頼信胸に封印投函したごとく、籠城の身は年のせいで落ちぶれた己を滅ぼしたあの下隠しの百合リリスたちのことをこっそりひたすら床夢に見て、彼の通夜の不実の不寝番たちに気づかずにおり、彼らはそこにいたのだった。(1巻p150) 不寝番達は、寝ながらの不寝番であったよう。その傍にいたのは誰だろう。 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

フィネガンズ・ウェイク 6 歴史の書

フィネガンズウェイクは歴史で一杯である。 歴史が始まる。 かくて、なまくららの風が頁をめくり、陰ノ毛ンティ薄らが穴暮トゥスともつれぎょろ目に法けて皇けているうちに、死業の書の生者の巻の一葉一葉、彼ら自身の年代記は壮大なお国がかりの出来事の円環を時刻みつつ、華石道を通じせしめる。(1巻p37) ここから、歴史の出来事が刻まれていく。 前洪一一三二年、蟻もしくは蟻似絵滅徒に似たる男児らが、か細川に横たわるどっかい巨白鯨の上をさまよう。エブラナの鯨油なまぐさい蘭戦。(1巻p38) 歴史が始まるのだが、物語の中で、ここに至る前に書かれていることは歴史の前に起きていることになる。 前洪とは、ノアの洪水のことだろうか。それよりもずっと昔の話のよう。こうやって解読不能の歴史が繰り広げられていく。 アン歴五六六年このとき、とある鉄面髪の乙女が嘆き濡れた(波だ声悲し!)、というのも大好き人形パピットちゃんを人食い鬼の篤信シンジンブカ鬼に奪い犯されたから。バラオーハクリーの血なまぐさい合戦。(1巻p38) こんどは、アン歴が出てくる。どうもフィネガンの過去とアンの過去が刻まれているようだ。この後のアン歴によると、二人の間に二人の息子が生まれたことが書かれている。二人の歴史が交差して重なり合っていく。 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

フィネガンズ・ウェイク 5 妻

アンナ 旗ばた娘だろうが鰭ひら娘だろうが、ぼろ臭だろうが、金うなりだろうが銭乞いだろうが、かまうものか。ああたしかに皆が愛するあばずれアンナ、いやつまり、雨連れアンナ、(1巻p26) フィネガンの妻。 なんと溜めまめしくも美しく、なんと史実な妻、厳格に禁じられているというのに、歴史的現在時製の品々を後期預言書の過去からくすねてきて、われら皆をてんや菓わんやか魚っとするよな御曹子と姫君に仕立て上げようとする。彼女は死財の只中で生流れ、涙さめざめ笑い洗い(なにしろ避忍せぬ歓産婦)、寝プロンを仮面に木靴を蹴り蹴りアリアを歌い(まっサラぁ! どろミファ!)、お望みなら慰搾ってあげる。(1巻p34) 妻のこと。 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

フィネガンズ・ウェイク 4 フィネガンの通夜

フィネガンがどうやら死んだらしい。 どどっててーん! どもりんどりと梯子から転落。しょってーん!昇天だ。。がってーん!墳墓に入れマスタバな、主石室に入れましたべな、男が陽婚すると隆リュート長らく憂しがるんで。世界充に見せたいものだ。(1巻p24) どうもそうらしい。そして通夜が始まった。 災図? 墓ってみよう!マクール、マクール、ほうら汝ゃって死んじっちまった?喪苦曜日の燥朝ってのに?満ちまくーりフィラガンの聖油つや艶の通夜に、むせび泣きしゃくりあげた国じゅうの夜多者たち、仰天して寝っくり返り、十二重に溢れだぶれる頌辞を歌った。(1巻p24) この物語はフィネガンの通夜の話のようである。 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

フィネガンズ・ウェイク 3 フィネガン

フィネガンのことが出てくる。 棟梁フィネガン、どもり手フリー面相は、裁き人らが士師憤然ヨシュ悪しと民数を記す前から広唐無罫通りのいぐさ明りの奥間った奥間に寝あかに暮らし、あるいはへっレビ野郎は申命賭して姻行重ね(ある醗曜日、こいつはスっターンとばかり桶に頭をずっこんで己が未来を占顔せんとしたのだが、スイフっト振るい抜かないうちに、モーセっぱつまって水が蒸ッと脱出するや、宜熱スの創世酒が残らず飛び埃に及び、どうじゃこいつは、水も酒も五っ書くたな男!)そしてくる年めくる年、この栄地しい違々たる畚セメント家造りは、飲んべえ村で何房川の土手上にえい糞っと屋上屋を重ねていた。(1巻p21) 聖書からの引用がたくさん出てくる。「士師」「民数」「レビ」「申命」「創世」は旧約聖書の名前。「五書」は旧約聖書の一部を指しているよう。「ヨシュア」や「モーセ」はアブラハムの血統のイスラエルの民を継ぐ者。 「水が蒸ッと脱出する」とは、旧約聖書にあるモーゼの出エジプトでの出来事(追っ手に迫られたときに紅海の水が引きモーセ達は逃れることが出来た)を指しているのか。 フィネガンは主人公で、何が書かれいるのかよくはわからぬが、ある村に暮らしていたことがおぼろげに窺える。 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

フィネガンズ・ウェイク 2 川走

読んでいると果てしなく続くように感じられる、この物語の始まりはこうなっている。 川走、イブとアダム礼盃亭を過ぎ、く寝る岸辺から輪ん曲する湾へ、今も度失せぬ巡り路を媚行し、巡り戻るは栄地四囲委蛇たるホウス城とその周円。(1巻p19) 文章の意味が取れないのだが、並んでいる言葉を眺めていると何かしら風景が感じられる。「イブとアダム」や「川」や「巡り戻る」は、人間の歴史をイメージさせるし、「川」や「湾」からは曲がりくねった川が流れ込む湾という実際の風景が浮かんでくる。 川は、多分、アイルランドのダブリンを流れるリフィ河であろう。何回もリフィの名が出てくる。リフィはアイルランド人にとっての象徴的な川で、ジョイスにとっても大切な存在であろう。 「イブとアダム」ここから物語は始まる。 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

フィネガンズ・ウェイク 1

「ユリシーズ」や「ダブリン市民」で知られるジェイムズ・ジョイスの作品。難解で翻訳は出来ないのではないかと言われていたものを柳瀬氏が日本語訳を実現し、世の中を驚かせた。 実際、読み始めてみるとさっぱりわからない。文章や文脈から描かれている物語の形を読みとれないのである。本当は物語はそこにあるはずである。 しかし、不思議なことに顕微鏡的に文章の中の言葉一つ一つをじっくりとながめていくと、そこには言葉遊びや歴史からの引用に満ちた小世界が現れてくる。これが読んでいて楽しい。多分全ての言葉は何らかの意味を持っていて、二重三重に重なった意味を持つものもあると思う。その意味を考えながら文章を辿っていくのである。 木を見て森を見ず。言葉が強烈な印象で目に飛び込んでくるが為に、物語を読みとれずにいる。しかし、言葉一つ一つを楽しみながら、まずは一通り読んでみようと思う。 難解で不思議な本、言葉が好きな人々を魅力的な力で惹き寄せる本。 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

魔の山 28 魔の山からの帰還

ハンス・カストルプは、魔の山に7年間滞在した。地上の人々や生活から離れ、世界から離れていた彼が目覚めたのであった。世界大戦が勃発した。 そのときに天地はとどろきわたった(下巻p637) ハンス・カストルプは、生をあきらめ遠ざかっていたのではなかった。大戦のことを聞くと、身の回りの物をバッグに詰め込み、ぎゅうぎゅうに混雑する列車に飛び乗って下界へと旅立った。 世界大戦のことは何も語られない。ただ、ハンス・カストルプが学徒動員された若者達と共に砲弾の降る中を行軍し、泥に倒れる様が少し描かれているだけである。 そして、彼は混乱のなかへ、雨のなかへ、黄昏のなかへ、私たちの目から消えていった。(下巻p648) 最後に著者はこう語る。 君の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、君は肉体の世界ではほとんど経験できないことを、精神の世界で経験することができた。君は、「陣とり」によって、死と肉体の放縦のなかから、愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を経験した。世界の死の乱舞のなかからも、まわりの雨まじりの夕空を焦がしている陰惨なヒステリックな焔のなかからも、いつか愛が誕生するだろうか?(下巻p649) こうして長い物語は幕を閉じる。 「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳

魔の山 27 ヒステリー

第1次世界大戦前夜という世の背景をベルクホーフでも免れえず、下の世界と同様に、患者達もヒステリックな精神状態へと落ち込んでいった。 凄絶なのはセテムブリーニとナフタまでが争い、それが決闘へと進展し、ついには決闘の最中にナフタが自分の頭を銃で撃ち抜いて死んでしまうという事件までが起こってしまった。世の理屈を口にして暮らしていた人々までもがヒステリーになっていた。 「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳

魔の山 26 うさんなこと

医師の一人エドヒン・クロコフスキーは、ベルクホーフ内で2週に1回講演を行っていた、その講演が次第に神秘的な現象へと傾いていった。意識下の不思議な現象、読心術、正夢、千里眼、ヒステリーなどを扱い始めた。ベルクホーフの聴衆には、「生命の謎を解明するには、健康な道から近づくよりも、不気味きわまる、病的な道から近づくほうが有望のように思われた。‥‥」 神秘的な現象への関心は、患者達にも蔓延していった。降霊術までもが試された。ブラント嬢という少女に不思議な能力があると噂され、患者達でアマチュアの実験が行われ、とうとうクロコフスキーによる「科学的な」実験にまで進展した。 ブラント嬢のまとりにいるとされるホイゲルという霊を通じて、あの世の誰を呼び出そうという実験が行われ、ハンス・カストルプの申し出で、ヨーアヒムを呼び出すことになった。長い息詰まるような時間が過ぎ、部屋の片隅にヨーアヒムのような人影が現れたのであった。それは本当にヨーアヒムであったのか、あるいは違う人物がヨーアヒムの振りをしていたのか、それは物語中では明確には語られていない。しかし、この章の表題は「うさんなこと」である。 ハンス・カストルプは、雪の中での真理の発見や、人物ペーペルコルンとの出会いを通じて、精神的な成長を遂げていたため、こういう「うさんなこと」に直面しても、闇の領域へ捕らわれてしまうことはなかった。「うさんなこと」で象徴されているのも死の世界である。死には人を惹きつけて離さない力があり、克己心が無い者はその力に捕らわれてしまう。 「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳

魔の山 25 音楽

ベルクホーフに蓄音機が来た。ハンス・カストルプはレコードの虜となって聞き始めた。 彼は、楽音のとりことなった。彼の愛した音楽は、ヴェルディの歌劇「アイーダ」、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ビゼーの歌劇「カルメン」、グノーの歌劇「ファウスト」、そしてシューベルトの「菩提樹の歌」であった。 「菩提樹の歌」は、彼にとって大きな意味を持つ存在であった。 彼にとって菩提樹の歌は「意義」を持ち、一世界を意味していて、彼はその世界をも愛していたにちがいなかった。その世界を愛していなかったら、その世界を代表し象徴している歌にあのようにぞっこんではなかったろう。その歌がまことにこまやかに神秘に包括している感情の世界、ひろい意味の精神的態度の魅力にたいして、彼の気持ちがとりこになるまでに熟していなかったら、彼の運命は現在とはちがったものになっていただろう、と私たちはーーたぶんいくぶん謎めいたことをーーつけ加えるが、私たちはいいかげんなことをいっているのではない。現在の彼の運命は、彼の精神を向上させ、冒険と認識とをもたらし、彼の心に陣取りの諸問題を提起し、それによって彼は、あの歌の象徴する世界、その世界をもちろん驚嘆するほどみごとに象徴している歌、その歌にたいする愛情に、懐疑的な批判をむけ、その世界と歌と愛情の三つを良心的な懐疑をもってながめうるまでになっていた。(下巻p537) 菩提樹の歌が象徴しているのは何だろうか。 「菩提樹の歌」の背後にある世界は、彼の良心の予感によれば、禁断の愛情の世界であったが、その世界はどういう世界であったろうか? それは死の世界であった。(下巻p538) 死は人を惹きつける力を持つが故に、克己によって克服すべき対象なのである。 「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳

魔の山 24 無感覚という名の悪魔

ペーペルコルンがこの世を去り、その死に打ちひしがれたショーシャが魔の山を去り、ハンス・カストルプは無感覚に陥ってしまった。 彼自身がそういう沈滞状態に落ちこんでいただけではなく、彼にはこの世すべてが、「全体」が、同じスランプ状態に落ち込んでいるように感じられた、というよりも、このことで個人の場合と一般の場合とを切りはなして考えることが困難であるように思われた。(下巻p497) この時代、第1次世界大戦前のヨーロッパも彼と同じようなに落ち込んでいたのだった。この場面でのハンス・カストルプは、当時のヨーロッパの象徴の役割を演じている。 ベルクホーフでは、アマチュア写真に始まり、郵便切手蒐集、チョコレート、数学が流行した。世の中のことに無関心になり、個人的なことにしか興味を持てなくなっているベルクホーフの人々も、また、当時の人々の代表でもある。 ハンス・カストルプはというと、この世を動かしている何か大きな時代の流れを感じていて、その不気味な動きに恐怖を感じていた。 この転回点から、ハンス・カストルプにはこの世と人生が異様に感じられ、日ごとにグロテスクな歪んだ気がかりな状態になって行くように思われたのであった。つまり、これまでも不吉な気ちがいじみた影響を長らく深刻におよぼしていた悪魔が、ついに権力を掌握して、傲然と公然と天下に号令し、神秘な恐怖を呼びさまし、浮き足立たせるのであった、ーーその悪魔、それは無感覚という名の悪魔であった。(下巻p497) 著者は、無感覚を悪魔と呼んでいる。読者に対して著者が語りかけている。この世や人生に対して無感覚であること、それは怖ろしいことで、神秘的な恐怖をも感じさせる位に大変なことであると。現代社会でも同じことが起きているのではないか。 「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳

魔の山 23 人物の死 ペーペルコルン氏 3

ハンス・カストルプとペーペルコルン、ショーシャ、その他4人は瀑布への遠足を計画した。訪れた瀑布は、夥しい量の水が轟音と共に流れ落ち、霧が吹き、飛沫が舞い、水煙につつまれ、一行は恐怖を覚えるほどであった。瀑布の傍にいると轟音のために、自分自身の声でさえ耳に聞こえないほどであった。そんな中で、ペーペルコルンは立ち上がると、誰にも聞こえない声で何か話し始めた。 不思議な男!彼自身さえ自分の声を聞くことはできなかったのだから、彼のしゃべっている聞こえない言葉がまわりの人々に一言もわかるはずがなかった。(下巻p484) 彼は、何を語りかけたのだろうか。友へのさよなら。この世へのさよなら。 その日の夜であった。ハンス・カストルプは眠りが浅く、いつもと違う気配、ざわめきのようなものを感じていた。午前二時を過ぎた頃、彼の部屋をノックする音が聞こえ、彼はペーペルコルンの部屋へと案内された。ペーペルコルンが自殺をしていたのだった。 自らの力の減退と感情の減退を知り絶望して、自らを死に至らしめたのだった。 「人生への感情の減退を、宇宙の終局、神の汚辱と感じるほどのスケールを持つ人物でした。つまり、彼は自分を神が合歓するための器官だと考えていたのです、あなた。王者らしい妄想でした。‥‥いまの僕のように感動してしまうと、不作法で不謹慎に聞こえても世間なみの悔みの言葉よりも荘重な言葉を口にする勇気が出るものです」 「彼ハ棄権シタノデス」と彼女はいった。(下巻p492) 如何に人物といえども終わりの時が訪れることから免れ得なかった。人物よ、さよなら。 「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳

魔の山 22 人物 ペーペルコルン氏 2

セテムブリーニやナフタが立派な理論を口にしたとしても、それは頭の中で考えただけのものだった、しかし、ペーペルコルンはすべてを、そして神をも、感じて生きていた、そこに人物としての大きさがあった。 「私はくりかえしていいます、だから私たちは感情燃焼の義務、宗教的義務を持っているのです。私たちの感情は、いいですか、生命を目ざます男性的な力です。生命はまどろんでいます。生命は目ざまされて、神聖な感情と陶酔的な結婚を結びたがっています。感情は、若い方、神聖です。人間は感じるから神聖なんです。人間は神の感情の器官です。神は人間によって感じようとして人間をつくりました。人間は、神が目ざまされ陶酔した生命と結婚するための器官にほかならないのです。人間が感情的に無力でしたら、神の屈辱がはじまり、神の男性的な力の敗北、宇宙のおわり、想像を絶する恐怖になりますーー。」(下巻p452) 実は後でわかるのだが、ペーペルコルンは最初の晩にハンス・カストルプがペーペルコルン同様にショーシャ夫人を愛していることを見抜いていた。 「ーー 完全。失礼ですがーーいや、なにもつけ加えますまい。どうぞ私と飲んでください、グラスを底まで飲みほしてください、腕を組みあってです。これはあなたに 兄弟として『あなた』と呼び合うことを提案するのではまだありません、ーーそれを提案するところだったのですが、まだ少し性急すぎはしないかと考えたんで す。」(下巻p385) しばらく経ったとき、ペーペルコルンは、ハンス・カストルプがショーシャと会うときのぎこちなさを指摘し、ハンス・カストルプがショーシャを愛していることを指摘した。ハンス・カストルプは彼女への思いを次のように説明した。 「僕がさきほどもちょっとふれました教育的牽制をふりきって、彼女に近づいた夜、ーーまえから頭にちらつきがちであった口実でーー近づいた夜は、仮装舞踏会の夜、カーニヴァルの夜、責任から解放された夜、『君』と呼びあう夜だったのですが、夜がふけるにつれてこの『君』という呼び方が夢幻的な無責任な深まりようをして完全な意味を持つようになってしまったからです。しかし、その夜はクラウディアが出発する前夜でもあったのです」(下巻p460) 魔の山で数年を過ごし、経験を積んで成長していたハンス・カストルプのことを、ペーペルコルンは男として認めてくれ

魔の山 21 人物 ペーペルコルン氏

ベルクホーフに、マダム・ショーシャが戻ってきた。ピーター・ペーペルコルンというオランダの実業家と一緒であった。ペーペルコルンは、インドネシアのコーヒー事業で成功した実業家らしいということであった。 ペーペルコルンは、ハンス・カストルプの周囲にいた精神的な人達セテムブリーニとナフタとは違う次元で生きている「人物」であった。論理的でも言語明晰でもないが、印象強く、人間的に大きな人物、王者的人物、魁偉な人物とも言えるのであった。ペーペルコルンの「人物」については、ハンス・カストルプだけでなく周囲にいるすべての人が感じ、畏怖の念を持った。 ペーペルコルンの話し方は断片的で意味も雨量蒙昧としているのだが、相手に大きな印象を与えた。 「あなた」とペーペルコルンはいった、「ーーだんぜん。いや失礼ですが、ーーだんぜん!今晩こうしてあなたとお近づきになれて、ーー信頼できる若いあなたとお近づきにーー、私は意識して、あなた、全力を傾けてお近づきになるのです。私はあなたが気に入りました、あなた、私はーーそうです!決着。あなたは私の気持ちをとらえました」(下巻p376) 「旧約聖書的」なスケールを持っている、まことに言い得て妙の表現である。 「世の終わり」ーーこの言葉はペーペルコルンになんと似つかわしかったことだろう!ハンス・カストルプは、宗教の時間のほかにはその言葉をだれかが口にするのをきいたおぼえがなかったが、これは偶然ではないと、考えた。彼が知っていたすべての人たちのなかで、だれがこの霹靂のような言葉を口にする資格があったろうか、ーー正しくいえば、だれがそれだけのスケールを持っていたろうか?小男のナフタはそれを口にすることがあったであろうが、彼の場合はそれは借りもので、辛辣なおしゃべりにすぎなかったのに反して、ペーペルコルンが口にすると、その霹靂の言葉は粉砕的で、最後の審判の日のラッパの音に取りまかれたような重み、一言でいうと、旧約聖書的な大きさをおびた。「ああーー人物だ」と、ハンス・カストルプは百度も感じたことをふたたび感じた。(下巻p387) ペーペルコルンの前では、セテムブリーニもナフタも色あせてしまうのだった。それを感じたことは、ハンス・カストルプの成長をも意味していたのではないか。セテムブリーニが象徴している知恵でもなく、ナフタが象徴している宗教でもな

魔の山 20 兵士の死

ベルクホーフに舞い戻ってきたヨーアヒムは、医師や療養者たちから暖かな気持ちを持って迎えられた。ヨーアヒムは、そのさっぱりとして、礼儀正しく几帳面で、誰にでも優しい性格から好かれていたのであった。 療養を続けていたヨーアヒムは、喉の痛みを訴えるようになってきた。ハンス・カストルプは、従兄のことが心配でベーレンス医師に問うのであるが、答は厳しいものだった。もうヨーアヒムは助かる見こみのない状態になっていた。 「彼はすべてを察しています。彼は口には出さずにすべてを察しています。おわかりですか?彼は人さまの袖にしがみついて、気やすめやなんでもないことやらを、いってもらおうとはしません。彼は平地へ帰ったことによって、なにをなし、なにを賭けたかを知っていました。彼は取りみださずに口をつぐんでいられる人物で、これこそ男らしい態度ですが、あなたのような妥協的な八方美人には、ざんねんながら真似のできない芸当です。」(下巻p321) うすすす気が付いていたハンス・カストルプは、ベーレンスの言葉で、はっきりと状況を認識し、自分へ言い聞かせ、ヨーアヒムへの愛から取り乱さず冷静な態度で最後の時を過ごすことに決心を固めた。 同じようにヨーアヒム自身も冷静に自分の死を捉えていた。彼の最後の日々がどのようにあったかを簡潔な文章が描いている。 私たちが生きているあいだは死は私たちにとって存在しないし、死んでしまえば私たちが存在しないのだから、私たちと死とのあいだには実際的なつながりはすこしもなく、死は私たちにとってだいたいなにも関係のない現象で、せいぜい宇宙と自然とにいくぶんかかわりがあるといえるだけである。ーーだから、あらゆる生きものは死をきわめて無関心な平静な無責任な利己的な無邪気な気持ちでながめているのである、とある機知に富む賢人はいったが、その言葉を引用できる人でもできない人でも、とにかくこの言葉が人間の気持ちにとって百パーセントの正しさを持っていることはみとめなくてはならない。ハンス・カストルプは、この何週間かのあいだにヨーアヒムの態度に人間のこの無邪気さと無責任さとを多分に感じた。そして、ヨーアヒムが死の近いことを知りつつも、それについてけなげに黙りつづけていることに耐えられるのは、彼にとって死ぬことが切迫した考えてはなくて観念的な考えであるためか、もしくは、実感とし

魔の山 19 雪の中の真理

ダヴォスに冬が訪れていた。あたりは大量の雪で覆われた世界に変わった。ハンス・カストルプは雪の中で「一人きりになって瞑想し」たいという願いから、スキーを始めた。 冬山は美しかった。しかし、ただ美しいだけではなく、底知れぬ厳しさや怖ろしさを秘めていた。 冬山のふところは美しかった、ーーおだやかななごやかな美しさではなく、強い西風に荒れくるう北海の美しさと同じであった。咆哮せずに死んだように静かであったが、北海とすこしもちがわない畏敬の気持を呼びさました。(下巻p226) ハンス・カストルプは、文明人であったがために、いっそう強く自然への畏敬の念を感じた。 いや、底の知れないふかい沈黙につつまれた世界は、にこりともせず、訪れる者の責任と危険を分担してくれようともせず、訪問者をほんとうは受け入れ迎え入れるのではなく、彼がはいりこんできて立ちどまっているのを、気味のわるい突きはなした態度で黙殺しているのであって、無言でおびやかす原始的なもの、敵意すら持たない、むしろ無関心な危険なものという気持が、まわりの世界から感じられる気持であった。生まれつき野性的な自然に遠く、関係のすくない文明の子は、子供のときから自然からはなれたことがない、なれっこになった気がるさで自然と一しょに生活している自然の子よりも、自然の大きさにずっと敏感である。文明の子が眉を引きあげて自然のまえに歩みでる宗教的な畏怖の気持ちは、自然の子がほとんど知らない気持ちであるが、この畏怖は、文明の子の自然にたいする全感情の基調になっていて、消えることのない敬虔な震駭とおびえた興奮を心に持ちつづけさせるのである。(下巻p227) 自然への恐れを感じつつ、無鉄砲にも恐怖心をわざと振り切って、ハンス・カストルプは冬山の奥深いところへと進んでいく。それは、そこにある自然が、彼の思想的な考察を解決するのに相応しい思索の場となるような予感があったからである。 彼は、セテムブリーニのことを考える。 ああ、理性(ragione)と叛逆(ribellione)の教育者的悪魔め、とハンス・カストルプは考えた。しかし、僕は君が好きだ。君に弁舌家で手まわしオルガンひきだが、君には善意がある。君はあの鋭い小男のイエズス会士とテロリスト、眼鏡の玉がきらめくスペインの拷問吏と鞭刑吏よりも善意があって、僕は君のほうが好きだ。

魔の山 18 マダム・ショーシャ

サナトリウム「ベルクホーフ」には、クラウディア・ショーシャというロシア系婦人が療養のために滞在していた。サナトリウムに滞在する人々が異性に対して必ず恋い焦がれる様に、ハンス・カストルプ自身もショーシャへと惹きつけられていった。 ショーシャは、食堂に入る時にガラス戸をガランガチャンと音を立てて不作法に閉めるのであったが、この音がハンス・カストルプにとっては非常に気に障った。このことがきっかけとなってハンス・カストルプはショーシャへと関心を寄せていった。ショーシャと廊下ですれ違うように待ち伏せしたり、時間を見計らって同じ時刻に食堂の入り口で出会うように工夫したり、食堂で遠くの席から彼女を見つめてみたりしていた。その行動は周囲の者たちにもわかることで、セテムブリーニは説教までして止めさせようとした。 13歳のころのハンス・カストルプが日頃から話しかけたいと思っていた少年が一人いた。プリビスラウ・ヒッペという異教徒ふうの名前で、模範生、ゲルマン系とスラブ系の混血、「キルギース人ふうの眼」という特徴を持った子であった。ショーシャは、ヒッペと同じ目をしていた。 セテムブリーニに代表される西欧の人文主義者ーー神から独立した人間性や理性を尊重する立場の人たちーーと対照的に東欧やアジアの非文明的なものを代表しているのがショーシャであった。ハンス・カストルプは、非文明的なロシア婦人が持つ、人文主義で覆い尽くせない部分の人間性に惹かれているのではないだろうか。 ショーシャは、訛りのある発音をしていて、人間性という言葉を「ねーんげん性」と口に出した。「ねーんげん性」は、理性や合理的なものでも、ましてや攻撃的で非人道的なものでもなく、彼女が本能的に感じる人間性を表現するまことにしっくりとした言葉である。 カーニヴァルの夜にハンス・カストルプはショーシャと初めて真剣な会話を交わすことができた。彼等はサナトリウムで通常使われるドイツ語ではなくて、ショーシャが得意なフランス語を使って会話した。カーニヴァルの夜、ハンス・カストルプはショーシャに対して「君」という言葉を使ったが、これは西欧の上流の人たちが神や親しい人に対してのみ使う言葉であって、ショーシャとはほとんど会話らしい会話もしていない間柄のハンス・カストルプにしてみれば礼儀正しい西欧人であれば慎むべき態度であった。それを敢

魔の山 17 叔父ジェームズ

ヨーアヒムがサナトリウムを出ていってしまった後、しばらくして叔父のジェームズ・ティーナッペル領事がサナトリウムを訪ねてきた。ジェームズは40ちかい年齢の紳士で、「きわめて精力的で思慮深く、きわめてゆうがである一面、また冷静で実際的な実業家であった」。 自分の考えを主張しないこのいんぎんな的な如才なさは、彼が育った文化に自信がないからではなくて、むしろ、その文化の強固な価値を意識していたからであったし、また、自分の貴族的な狭量さを修正して、自分にとって奇怪に感じられる習俗に接してもそれを奇異に感じる気持を見せまいという考えからでもあった。「それはもう、なるほど、ごもっとも!」と、紳士ではあるが融通がきかない人間と考えられないために、あわてていうのであった。(下巻p158) 今回の訪問は、「出たっきりで戻ってこない若い甥の様子をはっきりと見定め」、「甥を『救い出して』、家の人々の手に戻すため」親族全員を代表としてのものだった。まずは、ハンス・カストルプの様子を窺うように軽口を言ってみたが、彼が平気な顔をしてすましているのをみて、少し動揺する。 甥がその軽口のどれにも落ちつきはらって、受けつけないように微笑を浮かべるのを見て、その微笑にこの上の世界の手ごわい自信がそっくりあらわれているのを感じ、不安をおぼえ、自分の実務家としてのエネルギーがそれに圧倒されるのをおそれ、平地から持ってきた自意識とエネルギーを動員できるうちにすこしも早く、その日の午後のうちにでも、甥のことで顧問官と重要な話しあいをしようと急に決心したのであった。(下巻p160) 数日間が過ぎ、顧問官との会談が持たれた。ハンス・カストルプを連れ帰るための直談判をするためであった。しかし、会談の様子を著者は具体的には書いていない、ただ、次のように推測の形で触れているだけである。 ベーレンスとの会談も、領事が考えたのとはちがう結果におわったのだろうか?話あうにつれて話はハンス・カストルプのことだけではなく、ジェームズ・ティーナッペル自身のことにかわり、会談は私的会談の性質をなくしてしまったのだろうか?領事の様子はそういうように想像させた。領事はひどくはしゃぎ、しゃべりつづけ、理由もなく笑い、甥の脇腹を拳固でこづいてさけぶのであった、「よう、大将!」そして、その合間には例のあちらをうかがい、あわて

魔の山 16 従兄ヨーアヒム

ヨーアヒムは、士官候補生であったが、病気のためにサナトリウムで療養を黙々と続けていた。軍人らしい几帳面さと真面目な性格で、誰からも好かれる好青年であって、健康を取り戻して軍隊に入るために、実直に療養生活を送っていた。他の病人たちが医師たちの目を盗んでは課せられた療法をさぼって遊びに出たりしても、ヨーアヒムは自らを律して規律を守り黙々と療法を続けていた。 物語の中で、文化人としてのハンス・カストルプとの対比で軍人ヨーアヒムが置かれている。 ヨーアヒムは、自身の病状が好転せず、医師から帰国の許可が出ないのに業を煮やし、とうとう自ら決心してサナトリウムを出発する。ハンス・カストルプは一緒に出ることもできたのだが、自らサナトリウムに留まることを選択する。 サナトリウムを抜け出したヨーアヒムは士官候補生として軍隊に入り、鍛錬期間の後、少尉へと昇進する。そのころまでの消息は、ヨーアヒムからの手紙によってハンス・カストルプへと知らされた。ところが、数ヶ月後、ヨーアヒムは容態が悪化し、再びサナトリウムに戻ってきてしまうのである。多くを口にしないヨーアヒムの気持は、態度や表情として描かれているが、士官としての役割を果たせず療養生活に戻ってしまった悔しさが強く出ている。 「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳

魔の山 15 イエズス会士

散歩の議論の数日後、従兄弟たちはナフタの下宿を訪問した。 貧弱な下宿は、仕立て職人ルカセクの店であったが、その中のナフタの部屋は、絹で覆われた豪奢なものであった。部屋の調度品をいくつか数え上げると、金具の付いた円卓、バロック式の肘掛け椅子、バロック式のソファ、マホガニーで作った書棚、カーテンも家具を覆うカバーも絹であしらえてあった。 ナフタは従兄弟たちを迎えて精神が高揚したのか、ナフタの議論は加熱していく。彼の主張は、散歩の時よりもさらに激しさを増していく。ルネサンスや自由を否定し、民族国家や資本主義経済を否定した上で、神の目的のためのテロにまで言及するのである。 ナフタの部屋を辞した後、セテムブリーニの口から、ナフタは清貧で知られるイエズス会士であることを教えられる。 しかし、ナフタには、眉をひそめさせる何かいかがわしいものを感じさせる。清貧さを心情とするイエズス会士でありながら豪奢な暮らしをするコントラスト、その狂信的な信仰。 「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳

魔の山 14 セテムブリーニとナフタ

ハンス・カストルプがサナトリウムに来て1年が経っていた。ハンス・カストルプとヨーアヒムが散歩をしていた時、二人の前にセテムブリーニともう一人の男が歩いているところに出会った。男はナフタといい、セテムブリーニと同じ下宿(セテムブリーニはサナトリウムを出て、近くに下宿していた)に住む者であった。 痩せた小さな男で、ひげはなく、刺すような、腐食的といいたいような醜さで、従兄弟がびっくりしたほどであった。どこもかもが刺すような感じで、顔の感じを決定している鉤鼻も、うすく結びしめている唇も、うすい灰色の目にかけられている縁のほそい眼鏡の厚い玉も、すべてがつめたい感じであり、彼がつづけている沈黙までが刺すような感じであって、一度口をひらけば辛辣で理路整然としているだろうと感じられた。(下巻p55) ナフタは、宗教的なもの側に立つ者で、セテムブリーニが従兄弟たちに「スコラ派の首領」と紹介した通りである。セテムブリーニは、近代的、自由と理性の側に立っており、ナフタの意見とは相容れなかった。従兄弟たちが二人と出会った時に、二人は議論をしており、従兄弟たちを加えて4人の散歩になった後も議論は続けられた。 (セテムブリーニ)「自然は、それ自身が精神です。」 (ナフタ)「あなたは一元論の一点ばりで退屈なさらないとみえますね?」 (セテムブリーニ)「ああ、それではあなたは、自分からみとめるんですね、あなたが世界を相反する二つの部分、神と自然とに二分なさるのは、知的遊戯にすぎないことを!」 (ナフタ)「私が熱情jと呼び精神と呼ぶ場合に心に考えているものを、知的遊戯とおっしゃるのは興味ぶかいことです」 (セテムブリーニ)「そういう低俗な欲求にそういうものものしい言葉を使われるあなたが、私のことをいつも弁舌家とおっしゃるとは!」(下巻p56) さらに議論は激しくなっていき、ものものしい内容をナフタは口にした。 (ナフタ)「その生活の最下位の段階は『製粉所』、その上位が『畑』、第三のもっとも尊敬すべき段階はーーセテムブリーニさん、耳をふさいでいらっしゃいますよーー『ベッドの上』です。製粉所、これは世俗生活の象徴です、ーーまずい譬えではありませんね。畑は説教師と聖職にある教師がたがやすべき世俗人の魂を意味しています。この段階は第一の段階よりも尊敬すべき段階です。しかし、ベ

魔の山 13 生命とは

著者は時々自分の意見を物語の中に挟んでいる。例えば以下にあるような生命についての文章もそうである。 生命とはなんだろうか? だれもそれを知らなかった。生命が湧きでる、生命が燃えあがる自然的基点は、だれにもわからない。この基点からのちは、生命の世界には偶発的な、もしくは偶発的にちかい現象は一つとして存在しないが、生命そのものはやはり偶発的とみるほかはない。生命についてせいぜいいえることは、生命がきわめて高度の発達をとげた構成を持っていて、無生物界にはそれと少しでも比肩できるものは一つも存在しないということだけである。(p472) さてそれなら、生命とはいったいなんだろう? それは熱であった。形態を維持しながら一瞬も同一の状態にいないものがつくりだす熱、同一の状態を維持することが不可能なほどに複雑で精巧な構成を持つ蛋白分子が、たえず分解、新生する過程に附随する物質熱である。したがって、もともと存在しえないものの存在であって、分解と新生とが交錯するねつ過程においてのみ、甘美に、せつなく、辛うじて生命線の上にバランスを保っていることができるものの存在である。生命は物質でもなければ精神でもなかった。両者の中間物であって、飛瀑にかかる虹のように、または焔のように、物質を素材とする一現象である。(p473) 「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳

魔の山 12 サナトリウムで療養する人々

ハンス・カストルプのサナトリウム滞在が次第に長くなっていった。 この上で過ごした日数は、ふりかえって考えてみると、不自然に短くも感じられたし、長くも感じられたが、実際の日数にだけは、どうしても感じることができなかった。(p380) サナトリウムに療養する若者が本心からでなく同情を受けたい理由から愚痴をこぼすのを見て、セテムブリーニが辛辣に言った。 「かれらのいうことを本当になさってはいけませんよ、エンジニア、かれらがなにか愚痴をこぼしても、本当になさらんことです! みんなここでひどくいい気持でいるくせに、例外なくこぼすんです。だらけきった生活をしている上に、まだまわりの同情をもとめたり、皮肉や毒舌や悪口をいう権利があるように考えているんです!」(p380) ハンス・カストルプは、時間を良心的に取りあつかう人々が、時間の経過に注意を怠らず、時間をこまかい単位に分け、数え、命名して整理をしている手数を、頭のなかで励行するのを怠っていた。(p392) ハンス・カストルプが人生勤務の意義と目的とについて時代のふかみから彼の単純な魂を満足させるような答をあてられていたら、この上の人たちのもとでの滞在に初めに予定していた日数を、現在の線までものばしはしなかったろう、と私たちは考えるのである。(p398) 「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳