投稿

2012の投稿を表示しています

井波律子 「論語入門」 孔子との対話

論語は、主に孔子とその弟子達(顔回、子貢、子路、曾子など)との対話を記録したものである。孔子自身の著作ではないが、孔子の思想や哲学が現れている。初学の者にも取り付きやすいが、その教えの奥は味わい深い。思想は言葉で定義をしてしまうと、思想が言葉に固定してしまい、形骸化し勝ちであるが、対話の中で語られる思想は形が完成していないからこそ、いつまでも生きた力を有していると思う。読む者の器に応じて書物が答えてくれる、そのような作品が論語ではなかろうか。 本書は、著者による以下の視点、つまり「孔子の人となり」、「考えかたの原点」、「弟子たちとの交わり」、「孔子の素顔」によって、論語からの条を収録した構成となっており、孔子の偉大な人物像が浮き彫りにされている。 孔子が生きた春秋時代後半は中国各地に群雄が割拠する戦乱の世であったが、孔子は仁愛と礼法を中心とした節度ある社会の到来を目指していた。孔子は弟子を引き従えて諸国を巡る遊説の旅に出たが、孔子の唱える理想主義を受け入れる君主はいなかった。そのような中でも、「 理想社会の到来を期して弟子たちを励まし、不屈の精神力を以て長い旅を継続した。恐るべき強靭さというほかない。 」 孔子の魅力は、「 身も心も健やかにして明朗闊達、躍動的な精神の持ち主であった 」ことや、「 いかなる不遇のどん底にあってもユーモア感覚たっぷり、学問や音楽を心から愛し、日常生活においても美意識を発揮するなど、生きることを楽しむ人だった 」ことである。論語をじっくりと味わうとき孔子の魅力を感じることであろう。 また、論語には、孔子と弟子達との対話が鮮やかに描き出されている。弟子達は、師である孔子を敬愛しつつも、率直な質問を投げかけ、孔子はそれを真正面から受け止めている。師弟の真理を追究する真摯な姿勢には、心打たれるものがある。 孔子が率いた儒家集団は、孔子の死後に弟子の曾子を中心にまとまり、孔子の孫の孔汲(あざな子思)が受け継ぎ、孟子は子思の弟子に学んだ。後世の学者は、孔子、曾子、子思、孟子の流れを正統として重視したのだという。 その曾子が論語に残している言葉がある。 士以不可不弘毅。 任重而道遠。 仁以為己任。 不亦重乎。  死而後已。 不亦遠乎。   君子たるものは大らかで強い意志をもたねばならない。その任は 重く、道のりは遠い

大野晋 「日本語練習帳」

日本語をもっと深く理解し自由に使いこなしたい、そう考える人たちの為に書かれた日本語を改めて勉強するための本。理論を説明するのではなく、練習問題を解く形式になっている。実際に問題を考え、答えを書いて、答合わせを繰り返していくうちに、読み書きする上での基本的な考え方が身についてくる。難しい言葉や漢字が出題されるわけではなく、日頃使っている言葉や文章が出題される。簡単なようで、よく考えると答えられない問いが並んでいる。自分の理解が曖昧なままであったことに気付かされる。基本的な単語、意味が似ているもの同士を比較してみると、それぞれの単語が根幹に持っている意味を理解することが、単語の意味を掴むのに重要なことに改めて教えられる。 言葉に敏感になることが勧められている。 言葉づかいが適切かどうかの判断は、結局それまでに出あった文例の記憶によるのです。人間は人の文章を読んで、文脈ごと言葉を覚えます。だから多くの文例の記憶のある人は、「こんな言い方はしない」という判断が出来ます。 多くの言葉や文例を知っている人は、文章の良し悪しを的確に判断することが出来る。それは骨董品の目利きにも似ている。自分で良いと感じる文章があれば、その文章を熟読して、さらに深く鋭く受け取るようにすること。それから、良い文章と言われるものを数多く読んでいくこと。言葉に対してセンスが鋭い人々、例えば小説家、劇作家、詩人、歌人など、そういう人々の作品や文章を読んで文脈ごと覚えるのがいい。 日本語のセンテンスの構造を理解するには、「は」や「が」という助詞がどういう働きをしているかに注目する必要がある。例えば、「は」には、「問題を設定する」、「対比」、「限度」、「再問題化」という役割がある。日本人であれば、文章の中で「は」と「が」を間違って使う人はまずいない。しかし、「は」と「が」の意味の違いを問われると、上手く答えられないのである。ある文脈の中で、自分の記憶している文例に従って判断をしているのだが、その背景にある意味となると、気付かずにそのままにしてあることが多い。著者は、「は」と「が」の違いを以下のように説明する。 ハはそこでいったん切って、「は」の上を孤立させ、下に別の要素を抱え込むが、それを隔てて文末と結びます。 ところが、ガは直上の名詞と下にくる名詞とをくっつけて、ひとかたまりの観念

R.Tignor, J.Adelman, et.al."Worlds Together, Worlds Apart" Columbian Exchange コロンブス交換

Columbian Exchange(コロンブス交換)とは、コロンブスによるアメリカ大陸発見に続いて引き起こされた両大陸間(アメリカ大陸とアフリカ・ユーラシア大陸)の様々な物や人の移動、またそれ伴う世界全体に与えた大きな影響のことを指している。アメリカ大陸発見で世界全体は結び付けられ、アメリカの富が旧大陸へと流れ出し、世界の勢力バランスがヨーロッパへと傾いていくのである。 新旧大陸は何世紀にも渡る期間隔絶されており、それぞれの大陸にしか見つからないものがたくさん存在した。例を上げると、農産物で言えば、アメリカ大陸からトウモロコシやジャガイモなどその後のヨーロッパの生活を支える重要な植物がもたらされたし、タバコやココアなど嗜好品となる重要な作物もあった。逆に小麦はアメリカにはなかった。 アメリカ大陸から流れ込んだ金や銀は、スペインに大きな富をもたらしただけにとどまらず、ヨーロッパ各国や中国をも含めた世界全体の経済に重要な影響を与えた。 また、スペインがアメリカへ渡った際に、様々な病原菌も一緒にもたらされた。アフリカとヨーロッパとアジアは、長く隔絶していたアメリカ大陸の人々は、ヨーロッパからもたらされた病原菌に対して免疫を持っておらず、大多数の人々が新しい病気により死滅したのだった。(ハイチでは、原住民人口の90%が死滅した。)スペインは、病気によって弱ったアステカ帝国やインカ帝国を征服し植民地化した。 銀鉱山やプランテーションなど植民地経営をするには、大量の労働力が必要となったが、原住民はほとんどいなくなった状況では、他の労働力を探すしかなかった。そこで、アフリカ大陸から奴隷が大量に連れて来られた。アフリカ社会では、それ以前からアフリカ内で取引される奴隷が存在していたのをヨーロッパ人は利用したのだった。奴隷売買によって大西洋を渡ったアフリカ人の数は、5百万人を超えるという。奴隷というと、アメリカ南部の綿花プランテーションでの黒人奴隷が思い浮ぶが、ここで扱っているスペインやポルトガルによって移動させられた奴隷人口は、アメリカへ移動した数をはるかに上回る。奴隷売買は、アフリカの王国の支配者やヨーロッパの奴隷商人に大きな富を与えたが、アフリカは人口の減少、特に男性人口の減少によって、アフリカ社会は壊滅的な状況に陥った。また、奴隷の扱いは非人道的で、プランテ

R.Tignor, J.Adelman, et.al."Worlds Together, Worlds Apart" 14世紀:黒死病からの復興

世界史の中で各国の事件を伝えるというより、世界のいかなる国といえども如何に深く関連し合い干渉しあっているかを教えてくれる本である。 例えば、13世紀に興ったモンゴル帝国は、騎馬による強力な軍事力を擁して、ヨーロッパとアジアを結ぶ交易路を経由しユーラシア大陸おしえて各地に侵略して、東西の様々な国々がモンゴル帝国によって滅ぼされた。モンゴル帝国はユーラシア大陸の東西に渡る広大な領土を支配下に置いた。 14世紀になると、黒死病(the Black Death)がユーラシア大陸各地に広がった。初めに中国南西部で生じた疫病は、中国中央部へと広がり、東西を結ぶ交易路を通じて中央アジアから中東やヨーロッパへと広がっていった。黒死病は致死率が25%から50%にも達し、黒死病による人口減少の被害は、ユーラシア世界のどこでも例外無く甚大であった。例えば、中国では1億2千万人の人口が8千万人に減少したし、ヨーロッパの都市ではブレーメンのように人口が約3分の1にまで減少したような例も見られた。 黒死病は、東西交易路によって世界が結ばれていたがために生じたのだった。 モンゴル帝国侵略による政治秩序の崩壊や弱体化と黒死病による人口減少は、ユーラシア大陸各地の社会を同時期に崩壊させ混沌とした無秩序状態へと陥らせた。こうした無秩序状態から新しい政治秩序を構築するのは至難の業であった。各地で興った新しい支配層は、モンゴル帝国侵入以前の政治秩序を捨て新しいシステムを導入しようとした。支配者の下に強力な軍隊と中央集権化された官僚組織を確立して、支配者の権力を強大で絶対的なものにした。また、政権移譲の仕組みを制度化して政権移譲時に起こりがちな内部的な政変を防止しようとした。この政治的な仕組みはDynasty(王朝支配)といわれている。 中国では明王朝が興り、イスラム圏ではオスマン王朝、サファービー王朝、ムガール王朝が興り、ヨーロッパではスペイン、ポルトガルで王室の絶対的な力が確立し、フランスやイギリスがこれに続いた。 こうして見ると、同時期にユーラシア大陸の各地で王朝が興ったのは、世界が結ばれていたからであった。 各王朝は、無秩序の社会の中で興った新興勢力であったため、政治的な正当性を確立することが非常に重要であった。各王朝は宗教的な権威を利用して、自らの正当性を主張した。この

デカルト 「方法序説」 

デカルトは、彼の偉大な思想を次の事実から出発している。 「良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである 」 ここで良識とは、理性あるいは理性の働きのことであり、知識ではなく判断力のことを指している。人は誰しも自分は充分に良識を持っていてこれ以上望まない、つまり、自分の持っている判断力、真と偽を見分ける力、は正しいと考える。しかも、そのことは誤っていないように見えるのである。 人が遍く(あまねく)良識を持っていることはどうやって知ることができるであろうか。何も学問を修めたことの無いような市井の住民をみればよい。彼らにとって判断を誤ることは、その結果によっては自分自身への重大な罰が下ることを意味し、従って文字通り真剣な判断が要求されるし、実際に自分自身に害が及ばないような判断が正しく行われている事実からも知ることが出来るのである。 では、人が皆充分に良識を持っているのに、何故人の意見は様々に異なり、意見の違いが生じるのか。それは、良い精神を持っているだけでは充分でなく、それをよく用いることが大切であり、人は正しい思考の道筋を辿っていないから誤った答えに辿りついたり迷って答えが出せなかったりするのだという。精神を正しく用いなければ、「 大きな魂ほど、最大の美徳とともに、最大の悪徳をも産み出す力がある 」のであり、周囲に災厄さえもたらすのである。また、誤った思考の道を足早に進むことよりも、思考の正しい道をゆっくりと確実に進む方が、はるかに目標に向かって前進することが出来るのである。 わたしを考察と格率へ導いたある道に踏み入る多大な幸運に恵まれた デカルトは、彼自身が書いているように、若い頃から正しく思考する道へと踏み出し、一生をその道を歩き続け揺るぎなく前進した人であった。彼は、その思考方法によって様々な分野において多大な成果を上げていることは、彼の述べていることを裏づけしている。 デカルトはいかにしてこの道へと踏み入ることができたのだろうか。彼の人生(1596-1650年)の後半は、ちょうど三十年戦争(1618-1648年)に重なる。軍隊生活の中で、彼は人生の様々なことについて思索に耽った。人の教育過程を考えてみると、子ども自身から出る欲求や教師からの様々な教えによって精神が引き回されながら教育を受けており、それらの教えは

遠山啓 「代数的構造」 構造の持つ美しさ

数学は、始まりの頃から数や図形などの具体的な対象を扱っていたのが、20世紀になって構造という概念も扱うようになった。正確に言うと、数学は以前から構造を扱っていたのであろうが、意識的には扱っていなかった。それが、ヒルベルトによる「幾何学の基礎」によって意識的に構造が扱われ、現代数学が確立した。 構造という概念が数学へ及ぼした第一の影響は、数学の対象範囲が大きく広がったことである。それまでは数や図形が対象であったのが、命題や論理なども数学の対象に入ってきた。そして、構造という概念は、数学と諸科学との関係を多様で密接なものへと変化させた。著者は、数学が「構造の科学」へと発展した結果であると表現している。 構造の概念がもたらした第二の影響は、構成的方法の出現であると、著者は述べている。現代以前の数学で中心となっていた微分積分学は、現実世界の諸現象を忠実に写し出し、精密に分析することに主眼があった。そこには現実との乖離はない。しかし、構成的方法によると、現実には存在しない対象物を扱うことが可能になる。これは意味があることであろうか。今のところ数学では、数学内部で整合性が取れているかどうか、つまり矛盾が無いかによって、現実に存在しない空想的な対象物の存在を保証している。そういう意味では、ヒルベルトが押し開いた現代数学という世界は、実在と数学の関係について大きな問いを投げかけたことにもなる。 構造の議論を、著者は、ここでもう少し掘り下げている。果たして、内部整合性が取れていれば、それだけで充分であろうか。著者は、”良い数学的構造”であるためには、内部整合性だけは不十分で、その数学的構造が実在の中にあまねく内在していることが必要だと言っている。更に、人間にとって考えやすいもの、つまり審美的であることも必要だろうという。現実世界に内在し、しかも美しくなければ、数学的構造としては意味を成さないというのである。 数学的構造としては、位相的構造、順序の構造、代数的構造がある。本書では、このうちの代数的構造を扱う。 ある集合の2つの要素間に、3つ目の要素を作り出すような関数が定義されているとき、その集合は代数的構造を持つという。例えば、自然数集合の中に加算が定義されている場合、自然数集合は代数的構造を持っている。位相的構造、順序の構造、代数的構造という概念は、互いに排他

木田元 「ハイデガー『存在と時間』の構築」 時間性とは

哲学者木田元による、ハイデガーの著書存在と時間」の未完部分を再構築しようという試みである。「存在と時間」の意味や背景をわかりやすく解説しながら、未完の第二部以降が書かれたとしたらこういう主題であっただろうという議論を展開していく。その解説や背景の説明が面白いのである。プラトンやアリストテレス、カントやニーチェ、あるいは師であるフッサールなどの思想とハイデガーとの関係は、「存在と時間」を読むにあたって道標(みちしるべ)になるものである。 「存在と時間」は、「存在一般の意味」を解き明かすことに目的がある。「存在とは何か」を問うことは、プラトン・アリストテレス以降の西洋哲学の根本的なことである。 ここで、「存在とは何か」と問われたときに、どういう思考が頭に去来するであろうか。人によっては、存在と言われると、物理的に物が存在するというような意味のことを考えるかもしれない。あるいは、人間を生物学てきに捉えて、人間の生命の起源のような意味のことを考えるかもしれない。しかし、ここで問われているのは、こういう理性的な問いかけを自らに問いかけられる人間という驚くべき存在があるのはどういうことかという、全くに哲学的な意味である。 生物としてではなく、人間として存在するということに、人間が気付いたとき、そこには大きな驚きがあるであろう。人間は余りに普通に人間として存在するが故に、この事実に気付かないのである。 なぜならその<驚き>の感情こそが、本当に哲学者のパトスなのだから。つまり、哲学の初まりはこの感情より他にはないのである。(『テアイテトス』) ハイデガーによると「存在とは何か」という問いと時間(正確には時間性)とは密接な関係がある。時間性とは、我々が通常認識している時間ではなく、人間が現在、過去、未来を認識できるようなそういうあり方のことを指すようである。著者はわかりやすくするために実験により確かめられたチンパンジーの空間認識能力を説明に使うのだが、動物には抽象的な構造化能力は無く、従って時間感覚も無いのだという。動物には過去も未来も無く、ただ現在があるだけなのである。 <おのれを時間化する>働きによって、現在・過去・未来という時間の次元が開かれ、<世界>というシンボル体系が構成される しかし、人間は、自明の如くあるいは余りに普通であるが故に認識

ゲーデル 「不完全性定理」 不完全でも確固として豊かな数学

不完全性定理が数学的に説明された部分は難しくてわからないのだけれども、その歴史的意 味や数学界や社会へ大きな影響を及ぼした背景などが丁寧に解説し てある。 不完全性定理が訳者(解説者)によって一般人にもわかりやすく書かれた文章は以下のようである。 数学は矛盾しているか不完全であるかどちらかである。   数学の正しさを「確実な方法」で保証することは不可能であり 、それが正しいと信じるしかない。 ここにおいて注意しなくてはならないのは、一般にもわかりやすくするために、上記には解釈が加わっていることである。それは、もとのゲーデルの定理では「数学の形式系」について言及されているが、上記説明では「数学」について言及されている。「数学の形式系」と「数学」とが同じであるか別物であるかは、専門家でも意見の 分かれるところなのである。 数学の形式系とは、命題や証明に対して機械的な定義が与えられ、この機械的な定義を「意味抜きに」数学的に定義できる、という立場の考え方である。普通命題は人間が意味を考えながら証明を行うが、形式系によって定義された形式的命題は、機械的数学的な操作で証明ができるという。我々が林檎の個数を数字に置き換えて、林檎の意味など考えずに、足し算 を行うのと同じように、命題の証明を意味を考えずに数学的な操作で証明を実行してしまえるというのである。 果たして、数学と形式系を同一視できるのか、それは議論のあるところだと思うが、大数学者ヒルベルトが進めた「数学基礎論」はこの考え方によったものであった。つまり、ヒルベルトによれば、数学は形式系で表現できるというのである。 ヒルベルトの時代は、カントールが集合論を確立しようとしていた頃であった。カントールは無限集合を導入したが、一般人でさえ無限に対してある程度の認識を持っている現代的な感覚とは違い、 無限という存在は数学者達の間で大きな論議を呼ぶものであった。しかし、有限の手法では膨大で難解な証明や手順を必要とする解が、 無限という概念を使うと、 非常に簡単に証明できてしまうのである。無限の存在基盤の危うさとは裏腹に、無限の威力は凄まじかった。 無限という数学的な実体は本当に存在するのか。ヒルベルトによる回答は、「存在=無矛盾性」、つまり、数学的実体が存在するとは無矛盾である、ということであっ

J.K.Rowling, "Harry Potter and the Philosopher's Stone" (J.K.ローリング 「ハリーポッターと賢者の石」)

イメージ
ハリーは、 両親とは死に別れ、 自分が魔法使いであることを全く知らずに、 伯母の家に預けられて、大切にしてもらえずに育った。伯父 も伯母も極めて普通の人で、普通ではないことをひどく嫌っていた。だから、二人は、ハリーが普通でないことつまり魔法使いの血を引いていることをハリー本人にも誰にも知られたくなかった。 魔法学校Hogwartsから入学許可の手紙が来たときにも、二人は手紙を捨てたし、魔法のようにどこまでも追いかけてくる手紙から必死で逃げた。しかし、それは無駄であった。 ハリーは、魔法学校へ入学し、様々な階層(魔法使いの血筋や普通の人間など)から集まってきた愉快な友人達と個性的な先生達に囲まれて魔法を学び始めた。魔法の杖、空飛ぶ箒、魔法の呪文、魔法の鏡、様々な生き物、何から何まで新しいことばかりであった。 あるとき、ハリーと友人のロンは、先生達が何かを隠していることに気がついた。隠されていたのは不老不死の薬、賢者の石、であった。しかも、賢者の石は誰か正体不明の者に狙われている。主人公とともに読者も一緒になって謎を追いかけていく。 規則を破って深夜に学校を徘徊していたハリーが寮監に追われて逃げ込んだ物置部屋で、ハリーが魔法の鏡を覗き込む場面は、美しくも緊張に満ちた描写である。ハリーは鏡の中に死んだ両親の姿を認める。何か禁断のものに魅入られて離れることができない、妖しい雰囲気である。この鏡が結末で大きな役割を果たすのも面白い。 先に起こった些細な出来事の描写は後段になって結末を左右する大きな意味を持つ、そのような物語の仕組み(構成)に気がつくとき、一つ一つの描写を注意深く読むことが読者にとっては大きな意味を持ち、それは大きな魅力を与えてくれるのである。全ての出来事は必ず何かの意味を持っている、まるで本当の人生を生きているかのようである。 他者と打ち解けることができないハーマイオニーと、ハリーもロンもまだそれほど仲良くなかった頃に、トロル(Troll)に襲われたハーマイオニーを二人が助ける場面がある。ハリーとロンは、自らの危険も顧みずハーマイオニーを助けに出かける。まだ魔法をほとんど使えない二人にはトロルと闘うのは困難なことであったが、トロルをしとめることができた。しかし、規則を破ったことで先生から罰を受ける二人を、普段なら規則にうるさいハーマイオニ

梶井基次郎 「桜の樹の下には」

桜の花があまりに見事に咲いているのが、その美しさが本当のこととは信じられない梶井基次郎は、不安に陥る。健康を損なっている梶井には生命の輝きがまぶしいのだろうか。しかし、数日悩んだのち梶井には不安の理由が わかった。生命の美しさの裏には陰があった。 桜の樹の下には屍体が埋まっている。 生命は、美しいその姿の裏に、どろどろとした実体を隠していると梶井は言う、腐乱した屍体から出る液を蛸の足のような桜の根は吸い上げていると。他者の養分を吸って、桜はその美しさを輝かせている。しかし、その醜い生命の営みに気がついて、寧ろ梶井は安堵感を覚えるのである。美しい姿だけを称えるのは表面的すぎ、美しさと醜さを併せ持つことが生命の本来の姿だと言っているのだろうか。 それにしても、ぎくりとさせられる言葉である。 何か鋭利な刃物で、心の内に密(ひそ)かに隠しておいたものを抉(えぐ)り出され、秘密を暴かれたかのようだ。 梶井基次郎の才能が光るとともに、若くして健康を損ね夭折した彼の斜に構えた人生への姿勢も感じられる。 「檸檬」 新潮文庫 梶井基次郎著

George Orwell "Animal Farm" (ジョージ・オーウェル 動物農場)

Jones氏が経営する農場(Manor Farm)で家畜達の叛乱が起こり、人間は農場から追放され、家畜達による農場経営が始まった。 叛乱が起きた要因は、Old Majorという年老いた雄豚が説いた動物が皆平等で人間のいない世界が到来するという夢に触発されて家畜達の間に思想的な準備がなされたことにあった。叛乱後すぐに、動物は平等、を初めとする7つの掟(Seven Commandments:七戒)が定められ、動物農場の壁にペンキで記(しる)される。 The Seven Commandments   Whatever goes upon two legs is an enemy. Whatever goes upon four legs, or has wings, is a friend.   No animal shall wear clothes.   No animal shall sleep in a bed.   No animal shall drink alcohol.   No animal shall kill any other animal.   All animals are equal. 動物は平等とされたが、実際に農場経営を決定する評議会に議案を提出するのは家畜の中で一番知恵のある豚だけであり、結局豚達が農場経営を支配することになる。中でも去勢されていない2匹の雄豚SnowballとNapoleonが評議会でも主導権争いを繰り広げる。Snowballは知恵があり、人間の書物を読んでは数々のアイディアを農場経営に持ち込む。片やNapoleonは知恵はさほどでないが体力で勝り、Snowballの提案に全て反対を唱え、終(つい)にはSnowballを力によって追放してしまう。その後は、評議会は廃止され、Napoleonが議長を務める秘密会議で決定された内容が報告されるだけとなる。つまり、農場はNapoleonによる独裁的な支配となっていく。 理想とは裏腹に、独裁支配による悲惨な生活が到来するのだが、物語の中で悪事は明示的には描かれない。常に何かを仄(ほの)めかすように語られる文章から、裏側の世界が推測されるのみである。例えば、Napoleonがその重責を一身に負うのは、他の動物達のためであり、自分を利す

芥川龍之介 「トロッコ」 薄暗い人生の路

良平は8歳の頃に小田原熱海間の鉄道敷設工事を毎日見に行った。子供の目には、土工がトロッコで土を運ぶ様子が面白く映ったのである。トロッコに乗って、実際に動かしてみたいとも思っていたが、土工達に怒られるので、それは叶わなかったが、ある日若い土工たちに許され彼等と一緒にトロッコに乗ることができた。 いつしか見知らぬ海が見えたとき、良平は子供ながらに遠くに来すぎたことを感じ取り、帰りたいと思っていたが、若い土工たちは小さな子供の気持ちなど気に掛けず、どこまでも先へと進むのであった。それは延々とどこまでも続く道程(みちのり)であった。 西日が傾く頃、土工たちにもう帰るように言われて、良平は呆然とする。トロッコに乗ってもあれだけの時間がかかった道程を、暗闇が迫る中、子供一人で帰れと言う。泣きそうになりながら、良平は、無我夢中で線路の脇を走り続けた。涙がこみ上げてくるのを無理に我慢するのだが、鼻はくぅくぅとなった。 夕闇の中、やっと我が家へ帰り着いた時、良平はわっと泣き出した。それまでこらえてきたものが一辺に堰を切って流れ出てきたのであった。子供の彼がいかほどに不安な気持ちをこらえてきたことか、良平は泣き続けた。 不安の絶頂にあった時でさえ、誰にも頼れない状況では、良平は泣き出すことすらできずひたすら走り続けた。家に帰り着いて、身を守ってくれる親に囲まれて安心できるようになって初めて良平は自らの不安の思いを泣くことによって吐き出すことができた。 この事件は、良平の脳裏に深く刻み込まれた。薄暗い一すじの路は、心の中の路でもあった。不安は、誰もが背負って生きるものである。 それから20年近い月日が経ち、良平は妻子と共に上京し、雑誌社の校正の仕事に就いている。良平は、仕事に疲れた時、8歳の頃の暗い道程を思い出すのである。 彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思ひ出す事がある。全然何の理由もないのに?――塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のやうに、薄暗い藪や坂のある路が、細々と一すじ断続してゐる。 8歳の彼と同じように、良平は不安に駆られているが、家族にすら相談もできず、泣き言を言うこともできず、ただじっと我慢しているのである。泣くことができるのは、安心できる相手がいるときなのである。 校正の仕事をしているということは、作家

中島敦 「山月記」 臆病な自尊心と尊大な羞恥心

李徴(りちょう)は、博学にして才穎(さいえい)、若くして官吏となるほどであったが、下級官吏として俗悪な上官に仕えることを潔しとせず、己の詩才を恃(たの)みに詩家として自らの名前を後代に残すべく故郷へと退いた。しかし、文名は容易には揚がらず、生活は困窮していった。己の詩才に諦めをつけ、妻子の生活を支えるため、やむなく地方官吏の職を得たのであるが、才能が無い者と見下していた者たちの命令を受ける身となってしまった。詩家としての挫折に加え、鈍物と見做した者に下命を受けることは、李徴の自尊心を激しく傷つけた。公用の旅の途中、李徴はとうとう発狂し消えてしまった。 李徴の姿は人喰虎になり、その李徴に、官吏である数少ない旧友が山中で出会うのである。李徴は、失踪してから虎になるまでのいきさつを語り、何故自分がこのような運命に陥ったのか解らないという。 己の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋もれて消えて了うだろう。 人間の心も失いつつあった。このような浅ましい姿になっても、心残りは、自分の詩作が世に残らないことである、という李徴の声に応えて、旧友は部下に命じて李徴の詠う詩を書き留めさせる。 成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがあるのではないか、と。 李徴の才能は一流ではあったが何かが足りないことが友には直ぐに知れた。それは、何であったのか、実は李徴自身にはわかっていた。 己は詩によって名を残そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔(いさぎよ)しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為(せい)である。己の珠に非(あら)ざるを惧(おそ)れるが故に、敢(あえ)て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として、瓦に伍することも出来なかった。 漢文調の美しい語りは、主人公李徴の才が一流のものであることを醸し出してくれ、著者の非凡なる才をも伝えてくれる。読者がこの美しい文中に自らを沈めるとき、李徴と著者自身とが重ね合って見えてこないだろうか。物語る著者の心、それは自分の才を信じつつ、未だ自らに

ダン・ブラウン 「ダ・ヴィンチ・コード」 イエスの伝説

ルーブル美術館館長が殺害され、謎のダイイング・メッセージが残された。それは、次から次へと連鎖する謎への糸口、つまり謎を解くとその答えは新たな謎を指し示していた。館長は中世ヨーロッパから脈々と続く秘密結社に関わっており、残された謎を解くには、中世ヨーロッパに培われたキリスト教にまつわる象徴を知らなければならない。 中世ヨーロッパにおいては、全てのものは何かの象徴として解釈され、それは反復して象徴の連鎖を作った。象徴が最後に行き着く先は神であった。神に関することを象徴によって隠していることもあった。物語の進行とともに、中世の象徴世界に入りこむことになる。シオン修道会、テンプル騎士団、メロヴィング王朝、聖杯、たくさんの耳新しい言葉とそれにまつわる秘密、ヨーロッパキリスト教世界の裏側を垣間見るのは実に新鮮で刺激的である。 物語はイエスに関する伝説を扱っているということで、有名になったようであるが、それほど騒ぎ立てることでもないと感じた。説得力のある証拠が提示されているわけではなく、様々な伝説を一つの筋に纏め上げあり、普通に物語を楽しみ、象徴に隠された意味を学ぶのが良いと思う。 たしかにローマの聖職者は固い信仰を持っているから、どんな嵐も乗りきれるし、たとえおのれの信じるものと完全に矛盾する文書が現れても動じまい。(62章) ローマのカトリック聖職者のような深い信仰に至らないにしても、自分の信念のある人であれば、この物語を読んだとしてもその人の信念が揺らぐようなことが書かかれているようには思えなかった。むしろ、キリスト教世界の歴史や人間模様を知ることができるのではなかろうか。 ダ・ヴィンチ・コード 角川書店 ダン・ブラウン著 越前敏弥訳

ホイジンガ 「中世の秋」 中世精神の地下水脈

ホイジンガは、「中世の秋」において中世末期15世紀のフランス・ブルゴーニュ候国とネーデルラント地方について語っている。特定の時代の特定の地域だけに焦点が当てられているにも関わらず、中世の精神とでも言うような、中世文化の本質的なものを読者に対して語りかけている。 15世紀、中世という時代は終わりを告げようとしていた。延々と神々(こうごう)しく輝いていた中世はまさに過ぎ去ろうとし、秋の夕暮れのように時代が傾く中、中世の精神は結実し赤く熟した時期であった。つまり、長きに渡って形作られてきた中世文化は完成し、そして死を迎えようとした時期であった。かたやルネサンスが萌芽しようとしており、その準備がされていた時期でもあったが、ホイジンガはあくまでも中世という視点で15世紀文化を観察し記述した。 この書物は、十四、五世紀を、ルネサンスの告知とはみず、中世の終末とみようとする試みである。中世文化は、このとき、その生涯の最後の時を生き、あたかも咲き終わり、ひらききった木のごとくたわわに実をみのらせた。古い思考の諸形態がはびこり、生きた思想の核にのしかぶさり、これをつつむ。ここに、ひとつのゆたかな文化が枯れしぼみ、死に硬直する--これが以下のページの主題である。(上巻p.7) 本書は、中世という時代を、歴史的事実の整理という表面に見えやすい形式で説明するのではなく、失われてしまったかと思われていたその時代に生きた人々の精神世界を覗き、中世文化の精神的な本質を描ききろうという大胆な試みなのである。 中世という時代を形成し支えていた精神構造の中にまで進み入り、地下水脈の如き心の世界を見事に描ききっている。ホイジンガは、自らの精神世界において中世人の残した文献や芸術作品を道標(みちしるべ)に中世末期まで辿りゆき、中世人になりきった自分の精神を観察し、地下水脈のように心の奥底に流れる精神の動きを捉え描写した。その結実として本書が生まれた。天才にして初めてなせる業(わざ)である。 そこで描かれているのは、表の世界、つまり中世貴族の優雅な生活と華々しい戦場での活躍から直接には窺(うかが)い知れない、中世人精神の激しい動きと陰鬱さである。 中世という時代、幸と不幸との隔たりはかなり大きなものであった。冬の厳しい寒さや底知れぬ闇、癒されぬ疫病、飢饉など、災禍と欠乏に安らぎはな

江戸文化歴史検定協会 「江戸博覧強記 上級編 (江戸文化歴史検定公式テキスト 上級編)」

江戸の生活、文化が概観できる。将軍や大名に始まり、旗本や大名の家来など武士の生活、市井に住まう町人の暮らしに至るまで実に様々な人々が説明されている。江戸文化歴史検定の教科書ではあるが、検定とは関係なく、文化歴史を知るという立場で読んでみた。 全体的に詳細に説明がされていて面白いのであるが、特に、大名や旗本・御家人、幕臣など、文学や落語などの文芸作品で名前は出てくるものの、その暮らしぶりがどうであったかをよく知らなかった階層について興味深かった。 例えば、大名の中で、老中など幕府体制の中枢を担う職へ就く者の動向がどうであったとか、大名の家格がどういうしきたりによって扱われていたかなどは、なかなか知りえない話だと思う。 旗本や御家人の家屋や家来の構成、江戸市中を往来する際のしきたりなどを読むと、落語の「かぎや」に出てくる旗本の背景がわかってきて、作品の理解に深みが出るように思った。 また、大名の参勤交代に同行して江戸詰めをしていた武士達の様子も面白い。職務の休みを利用して、歌舞伎や江戸見物を楽しみ、規則や門限を破ってまでも執拗に外出をしている武士の記録などが紹介されており、武士の中の一例であるとは思うが、当時の風潮が感じられた。 「江戸博覧強記 上級編 (江戸文化歴史検定公式テキスト 上級編)」  小学館  江戸文化歴史検定協会

ポール・ケネディ 「大国の興亡」 4 オランダ 経済繁栄と地理的要因による衰退

オランダのような限られた国家資源にも関わらず貿易や工業によって経済的に繁栄した国の興亡を見るのは、我々日本にとっても参考になる点が多いと思う。 オランダは、人口も国土も限られた国であったが、西暦1500年からの1世紀間にヨーロッパ内でもヨーロッパの外にもにらみがきく大国へとのし上がってきた。オレンジ公ウイリアムに率いられ、1579年ユトレヒト同盟を結成し、1581年ネーデルランド連邦共和国の独立を宣言している。1648年のウエストファリア条約で、実質的には独立していた状態を、国際的に正式に認められるに至った。 オランダは、ヨーロッパの他の国々と違い、共和制による寡頭政治を行っていた。オランダ軍は訓練が行き届いており、さらにナッサウのマウリッツという名将に指揮されて軍事的に強力な存在になってき。 オランダの最大の特徴は、国の基盤を貿易と工業と金融においていたことである。世界経済の発展とともに、オランダの経済基盤も発展していくのである。オランダは、ハプスブルグ家の支配を脱すると人口が増えた上に、難民として集まってきた資本家、職人、教師、熟練労働者によってアムステルダムは国際貿易の中心地となった。それまで国際貿易における中心は地中海で、トルコからベネチアを経由してオランダの工業地帯へと交易品は流れていたが、次第に貿易の中心が大西洋へと移ってきていた。つまり太平洋から直接的にオランダへと交易品が流れるようになった。さらに、アフリカやアメリカ、アジアへと次第に広がっていく海外貿易の恩恵も受けることになった。こうした背景もあり、アムステルダムの国際金融における役割も大きくなっていった。 次の時代、1660年から1815年までの時代、それまでの大国であったオランダは、オスマントルコ帝国、スペイン、スウェーデンなどの国と同様に一流の座から転落していく。代わってルイ14世に率いられたフランスが最強国へとのし上がっていくのである。 この時期、アムステルダムは世界最大の金融の中心地であったが、オランダが大国の座から滑り落ちることを防ぐことは出来なかった。財政的な面だけでは大国の座は支えられなかったのである。オランダの凋落の原因を調べるには、国際関係における地理的な条件を見ていく必要がある。 地理的な要因とは、気候、天然資源、農業の豊かさ、交易ルートに恵まれて

ポール・ケネディ 「大国の興亡」 3 スウェーデン ひと時の大国

1500年からのハプスブルグ家拡張時代、スウェーデンは脆弱な基盤に立つ北欧の1国家に過ぎなかった。経済的にも軍事的にも取るに足りない存在であった。しかし、グスタフ・アドルフが1611年に王位に就いてから急激な発展を遂げるのである。 スウェーデンは木材、鉄鉱、銅の天然資源に恵まれていたが、当時未開発であり、オランダ人やドイツ人など外国の企業家によって、世界的な経済システムに組み込まれたのであった。こうして、ヨーロッパ最大の鉄、銅の産出地となった。輸出で稼いだ外貨で軍隊を増強することが出来た上に、外国からの投資や技術流入で武器を自給できるまでになった。 また、グスタフ・アドルフとその側近によって、宮廷、財政、税制、中央司法制度、教育など様々な領域で改革が進められた。特にグスタフ・アドルフによる軍事改革は有名で、徴兵制を敷いて常備軍を創設し、兵を訓練し、軍備を整え、グスタフ・アドルフ自らがリーダーシップを発揮して軍隊の士気を高めた。こうして当時の最高水準の軍隊を作り上げていたのである。 ハプスブルグ家とドイツ諸邦との三十年戦争が起きたときに、グスタフ・アドルフはドイツの新教徒を援助するという名目でスウェーデン軍を率いてドイツに侵入したのだった。スウェーデン軍の活躍は目覚しかったが、最初4万人の軍隊が15万人にまで膨れ上がり、軍隊を維持する費用も莫大なものとなった。スウェーデン軍は、ドイツの各地へ転戦し、友好的な土地であれば寄付金を集め、敵対的であれば略奪をしないという約束の下に補償金を要求した。こうして、軍隊を自国ではなく、侵入した土地の費用でまかなったのである。スウェーデン軍は自国に費用を負担できる基盤がなく、言わば寄生しなければやっていけない存在であった。スウェーデンは、長期的に大国として影響力を振るうには経済基盤が弱すぎた。 スウェーデンは三〇年にわたって勝利に酔い、略奪品でうるおった。だが、カール十一世のもとでスウェーデンは日々の生存という薄明の領域に立ち戻り、その資源と実質的な利益を優先させ、これに見あった政策を実施して、将来の二流国家の地位を自ら用意したのである。(上巻p.114) 1648年のウエストファリア条約でスウェーデンはバルト海沿岸諸国を手に入れたが、その地域を戦時に敵から防衛する費用はスウェーデンにとっては莫大なもので、大きな

ポール・ケネディ 「大国の興亡」 2 スペイン・ハプスブルグ家 拡大策の失敗

オーストリアに起源を持つハプスブルグ家は、中世に神聖ローマ帝国皇帝の称号を世襲するようになっていた。1500年から1世紀半の間、ハプスブルグ家の支配する国や領域がヨーロッパ全土に広がり、一時はハプスブルグ家がヨーロッパ全土を支配しそうな勢いを見せた。全ヨーロッパに広がった争いは、他諸国の同盟により、最後にはハプスブルグ家の拡張政策は挫折に終わる。 1500年以降の戦いは、1500年以前の戦いとは激しさの点で大きく異なっていた。1500年以前の戦いは、地域紛争、例えばイタリアの都市国家同士の争いやイギリスとフランスの王家同士の争いなど、であったが、1500年以降の戦いはヨーロッパ全土を巻き込んだ覇権争いになったのである。 戦いが大規模になったことについては、二つの大きな理由が挙げられている。第一の理由は、宗教改革である。それまでの王家同士の争いとは違う理由、宗教的な教義に基づく理由によって、国の範囲を超えて戦いに参加する人々が現れたのである。第二の理由は、王家の連合が生まれたことである。 ハプスブルグ家の持っていた戦略的な長所を見ていくと次のようになる。領地に住む人々は、ヨーロッパの約4分の1を占めていた。財源となるような豊かな地域を支配していた。、スペインのカスティリァ、重要な貿易地域であるオランダとイタリア各地、アメリカから産出される銀と金、それに商業と金融の中心地南ドイツ、イタリア、アントワープなどである。これらに加えて、戦略的に一番重要であったのは、スペインには訓練の行き届いた歩兵部隊であった。 こうした長所があったにも関わらず、ハプスブルグ家はヨーロッパの覇権を確立することはできなかった。その要因は以下のように分析されている。 第一の要因は、「兵器革命」が起こり、戦闘の規模と費用と組織が大幅に増大したことである。1500年までの戦いでは主力だった騎兵は、歩兵へと主役の座を譲った。これに伴って大きな軍隊の設立と維持が必要になった。これは海軍でも同様で、陸軍と海軍の維持には、膨大な費用がかかった。各地で紛争を抱えているハプスブルグ家は、陸軍と海軍の維持費用が2倍、4倍と膨れ上がり、常に破産の瀬戸際に立たされていた。 第二の要因は、ハプスブルグ家には戦う敵が多すぎ、守る戦線も広すぎた。如何にスペインの歩兵部隊が勇敢に戦おうとも、戦線が広がり

ポール・ケネディ 「大国の興亡」

本書では、西暦1500年から1980年代に至るまでの歴史において、大国と呼ばれ影響力を振るった国々の興隆と衰退を、軍事力、地政学、経済力、成長力などの観点から丹念に分析を行っている。世界全体を扱っているのであるが、結果としてはヨーロッパ諸国が分析対象の中心となる。 1500年年頃の世界全体を見渡すと、そこには中国の明帝国やオスマントルコ帝国が確固とした基盤を築き周辺国へ多大な影響を与えている一方、ヨーロッパは諸国が並び立つ群雄割拠の状態にあった。明帝国やオスマントルコ帝国は、軍事力、経済力、国土、人口のいずれにおいてもヨーロッパ諸国を凌ぐ存在であった。明帝国は強大な軍事力を築きアフリカまで航海できる海軍力も有していたし、オスマントルコ帝国はバルカン半島を制圧しオーストリアへと迫っていた。しかし、結局ヨーロッパ諸国がオスマントルコ帝国やその他の支配下に陥ることはなかった。しかも、この時代以降ヨーロッパ諸国は隆盛を極め、世界の他勢力を圧倒していくのである。 ヨーロッパ諸国が、オスマントルコ帝国の支配を免れ、その後オスマントルコ帝国を凌ぐ発展ができたのは、地政学的に防衛に適した国土に恵まれていたことや、軍事技術に歴然とした優位を築けたことが挙げられる。 ヨーロッパは広い平野部が少なく深い森林に覆われた複雑な地形をしており、諸国は地理的に分断されている。このため、広い平原ならば有効である騎馬民族による軍事的な制圧が困難であった。このため、ヨーロッパ諸国がそれほど強国でなかった1500年以前の時代にも、オスマントルコやモンゴルなどに制圧されることを免れてきた。その当時の最新の軍事技術つまり騎馬による闘いを防御することが可能であったわけである。 ヨーロッパ諸国は地理的に分断され群雄割拠状態で互いに熾烈な戦いを繰り返したことにより軍事技術開発が大きく促進されたし、ルネサンス時代を経て発達した自然科学も軍事技術の進歩に大きく寄与している。こうして、ヨーロッパでは1500年前後に軍事技術(鉄砲や大砲はそれまでの戦い方を一変させたし、大砲に打ち勝つ築城技術も飛躍的に進歩している)が世界のどの地域よりも大きく進化した結果、ヨーロッパ諸国は世界的に見ると軍事力で抜きん出た存在となった。争う相手より格段に優れた軍事技術を有している場合、相手を圧倒できるわけである。それは、ヨー