魔の山 20 兵士の死

ベルクホーフに舞い戻ってきたヨーアヒムは、医師や療養者たちから暖かな気持ちを持って迎えられた。ヨーアヒムは、そのさっぱりとして、礼儀正しく几帳面で、誰にでも優しい性格から好かれていたのであった。

療養を続けていたヨーアヒムは、喉の痛みを訴えるようになってきた。ハンス・カストルプは、従兄のことが心配でベーレンス医師に問うのであるが、答は厳しいものだった。もうヨーアヒムは助かる見こみのない状態になっていた。
「彼はすべてを察しています。彼は口には出さずにすべてを察しています。おわかりですか?彼は人さまの袖にしがみついて、気やすめやなんでもないことやらを、いってもらおうとはしません。彼は平地へ帰ったことによって、なにをなし、なにを賭けたかを知っていました。彼は取りみださずに口をつぐんでいられる人物で、これこそ男らしい態度ですが、あなたのような妥協的な八方美人には、ざんねんながら真似のできない芸当です。」(下巻p321)
うすすす気が付いていたハンス・カストルプは、ベーレンスの言葉で、はっきりと状況を認識し、自分へ言い聞かせ、ヨーアヒムへの愛から取り乱さず冷静な態度で最後の時を過ごすことに決心を固めた。

同じようにヨーアヒム自身も冷静に自分の死を捉えていた。彼の最後の日々がどのようにあったかを簡潔な文章が描いている。

私たちが生きているあいだは死は私たちにとって存在しないし、死んでしまえば私たちが存在しないのだから、私たちと死とのあいだには実際的なつながりはすこしもなく、死は私たちにとってだいたいなにも関係のない現象で、せいぜい宇宙と自然とにいくぶんかかわりがあるといえるだけである。ーーだから、あらゆる生きものは死をきわめて無関心な平静な無責任な利己的な無邪気な気持ちでながめているのである、とある機知に富む賢人はいったが、その言葉を引用できる人でもできない人でも、とにかくこの言葉が人間の気持ちにとって百パーセントの正しさを持っていることはみとめなくてはならない。ハンス・カストルプは、この何週間かのあいだにヨーアヒムの態度に人間のこの無邪気さと無責任さとを多分に感じた。そして、ヨーアヒムが死の近いことを知りつつも、それについてけなげに黙りつづけていることに耐えられるのは、彼にとって死ぬことが切迫した考えてはなくて観念的な考えであるためか、もしくは、実感としてせまりはしても、健康なつつしみによって整理され抑制されているためであると、ハンス・カストルプは理解した。(下巻p325)


チームセン夫人が彼の両肩に片腕をまわして、命令を実行しているあいだに、彼はなんとなくせかせかと、休暇延長の願書を書いて提出しなくてはならないといったが、それをいっているあいだに、「知らないうちにさよなら」がおこなわれた、ーー赤い布でつつまれたサイドテーブル用電気スタンドの光なかでハンス・カストルプに敬虔に見まもられながら。(下巻pp336)


ハンス・カストルプは生まれつきの控え目な気持ちをはげまして、亡きヨーアヒムの石のようにつめたい額へさよならの接吻をそっとすませ、舞台裏の男から目がはなせないように感じながらも、ルイーゼ・チームセンと一しょにおとなしく部屋を出た。(下巻p340)

「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳




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