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7月, 2012の投稿を表示しています

ゲーデル 「不完全性定理」 不完全でも確固として豊かな数学

不完全性定理が数学的に説明された部分は難しくてわからないのだけれども、その歴史的意 味や数学界や社会へ大きな影響を及ぼした背景などが丁寧に解説し てある。 不完全性定理が訳者(解説者)によって一般人にもわかりやすく書かれた文章は以下のようである。 数学は矛盾しているか不完全であるかどちらかである。   数学の正しさを「確実な方法」で保証することは不可能であり 、それが正しいと信じるしかない。 ここにおいて注意しなくてはならないのは、一般にもわかりやすくするために、上記には解釈が加わっていることである。それは、もとのゲーデルの定理では「数学の形式系」について言及されているが、上記説明では「数学」について言及されている。「数学の形式系」と「数学」とが同じであるか別物であるかは、専門家でも意見の 分かれるところなのである。 数学の形式系とは、命題や証明に対して機械的な定義が与えられ、この機械的な定義を「意味抜きに」数学的に定義できる、という立場の考え方である。普通命題は人間が意味を考えながら証明を行うが、形式系によって定義された形式的命題は、機械的数学的な操作で証明ができるという。我々が林檎の個数を数字に置き換えて、林檎の意味など考えずに、足し算 を行うのと同じように、命題の証明を意味を考えずに数学的な操作で証明を実行してしまえるというのである。 果たして、数学と形式系を同一視できるのか、それは議論のあるところだと思うが、大数学者ヒルベルトが進めた「数学基礎論」はこの考え方によったものであった。つまり、ヒルベルトによれば、数学は形式系で表現できるというのである。 ヒルベルトの時代は、カントールが集合論を確立しようとしていた頃であった。カントールは無限集合を導入したが、一般人でさえ無限に対してある程度の認識を持っている現代的な感覚とは違い、 無限という存在は数学者達の間で大きな論議を呼ぶものであった。しかし、有限の手法では膨大で難解な証明や手順を必要とする解が、 無限という概念を使うと、 非常に簡単に証明できてしまうのである。無限の存在基盤の危うさとは裏腹に、無限の威力は凄まじかった。 無限という数学的な実体は本当に存在するのか。ヒルベルトによる回答は、「存在=無矛盾性」、つまり、数学的実体が存在するとは無矛盾である、ということであっ

J.K.Rowling, "Harry Potter and the Philosopher's Stone" (J.K.ローリング 「ハリーポッターと賢者の石」)

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ハリーは、 両親とは死に別れ、 自分が魔法使いであることを全く知らずに、 伯母の家に預けられて、大切にしてもらえずに育った。伯父 も伯母も極めて普通の人で、普通ではないことをひどく嫌っていた。だから、二人は、ハリーが普通でないことつまり魔法使いの血を引いていることをハリー本人にも誰にも知られたくなかった。 魔法学校Hogwartsから入学許可の手紙が来たときにも、二人は手紙を捨てたし、魔法のようにどこまでも追いかけてくる手紙から必死で逃げた。しかし、それは無駄であった。 ハリーは、魔法学校へ入学し、様々な階層(魔法使いの血筋や普通の人間など)から集まってきた愉快な友人達と個性的な先生達に囲まれて魔法を学び始めた。魔法の杖、空飛ぶ箒、魔法の呪文、魔法の鏡、様々な生き物、何から何まで新しいことばかりであった。 あるとき、ハリーと友人のロンは、先生達が何かを隠していることに気がついた。隠されていたのは不老不死の薬、賢者の石、であった。しかも、賢者の石は誰か正体不明の者に狙われている。主人公とともに読者も一緒になって謎を追いかけていく。 規則を破って深夜に学校を徘徊していたハリーが寮監に追われて逃げ込んだ物置部屋で、ハリーが魔法の鏡を覗き込む場面は、美しくも緊張に満ちた描写である。ハリーは鏡の中に死んだ両親の姿を認める。何か禁断のものに魅入られて離れることができない、妖しい雰囲気である。この鏡が結末で大きな役割を果たすのも面白い。 先に起こった些細な出来事の描写は後段になって結末を左右する大きな意味を持つ、そのような物語の仕組み(構成)に気がつくとき、一つ一つの描写を注意深く読むことが読者にとっては大きな意味を持ち、それは大きな魅力を与えてくれるのである。全ての出来事は必ず何かの意味を持っている、まるで本当の人生を生きているかのようである。 他者と打ち解けることができないハーマイオニーと、ハリーもロンもまだそれほど仲良くなかった頃に、トロル(Troll)に襲われたハーマイオニーを二人が助ける場面がある。ハリーとロンは、自らの危険も顧みずハーマイオニーを助けに出かける。まだ魔法をほとんど使えない二人にはトロルと闘うのは困難なことであったが、トロルをしとめることができた。しかし、規則を破ったことで先生から罰を受ける二人を、普段なら規則にうるさいハーマイオニ

梶井基次郎 「桜の樹の下には」

桜の花があまりに見事に咲いているのが、その美しさが本当のこととは信じられない梶井基次郎は、不安に陥る。健康を損なっている梶井には生命の輝きがまぶしいのだろうか。しかし、数日悩んだのち梶井には不安の理由が わかった。生命の美しさの裏には陰があった。 桜の樹の下には屍体が埋まっている。 生命は、美しいその姿の裏に、どろどろとした実体を隠していると梶井は言う、腐乱した屍体から出る液を蛸の足のような桜の根は吸い上げていると。他者の養分を吸って、桜はその美しさを輝かせている。しかし、その醜い生命の営みに気がついて、寧ろ梶井は安堵感を覚えるのである。美しい姿だけを称えるのは表面的すぎ、美しさと醜さを併せ持つことが生命の本来の姿だと言っているのだろうか。 それにしても、ぎくりとさせられる言葉である。 何か鋭利な刃物で、心の内に密(ひそ)かに隠しておいたものを抉(えぐ)り出され、秘密を暴かれたかのようだ。 梶井基次郎の才能が光るとともに、若くして健康を損ね夭折した彼の斜に構えた人生への姿勢も感じられる。 「檸檬」 新潮文庫 梶井基次郎著