ソルジェニーツィン 「イワン・デニーソヴィチの一日」 自由はいずこに
シベリアにある強制収容所(ラーゲリ)に入れられた主人公シューホフ。極寒のシベリアというのにまともな暖房設備もなく、貧弱な栄養状態で、 過酷な労働を 強いられるが、その逆境を生き抜いている。ある一日の起床から就寝までが描かれているだけだが、その描写にはラーゲリの日常が凝縮されている。また、ラーゲリの外にあるソヴィエト社会も囚人の会話や回想によって垣間見られる。 淡々と描かれていても、 やはり苛酷であることに変わりないラーゲリでの生活。主人公が真剣に 生きる姿、力強さ、逞しさには圧倒されるし、感動さえも覚える。 シューホフは何も語らないが、自らを押しつぶそうとする権力に対して反抗する精神が息づいているように感じられる。シューホフ は、自分の庇護者に対しては誠実さをもって尽くすが、 権力を持つ者には正面切って抵抗することはしないものの、必要以上の奉仕もしない。それは 、権力に敗北しているわけではなく、隙があれば、 そして益するところがあれば、 権力に対しても歯向かうのである。 それ以外の者は邪魔者でしかない。 モスクワから来たチェーザリや元海軍中佐といった知識人がラーゲリの囚人として登場するが、この過酷な環境で現実を直視できず、 思索へと逃げてしまっているように見える。 しかし、シューホフは彼ら知識人を見捨ててはいない。 暖かい心情を含んだ眼差しで見ている。 シューホフの現実的な姿、 ラーゲリを生き抜くためには何をすべきか、 それだけを徹底させた生き方である。 読者に苛酷な状況であることを忘れさせてしまうのは、主人公や周囲の人々を淡々と描く 著者の卓越した文章力によるのだと思う。また、この逆境を生き抜いた著者の揺るぎない精神力の現われとも思う。悲惨な状況を悲惨には描かず、淡々と描写することで、読者が表面的な悲惨さに目を奪われないようにし、問題の本質を見失わないようにしたのかもしれない。 何故農民が主人公でなくてはならなかったのか、言いかえれば 主人公が知識人ではこの物語は成立しえないのだろうか。その頃のソヴィエトにはもう知識人はいなかった。スターリンの時代に中間層や富農や知識人は粛清されてしまい、農民しか残っていなかったのである。また、わずかに残った知識人に語らせると、かえってことの本質を見失わせるのかもしれない。農民に素朴に現実を語らせる...