投稿

4月, 2013の投稿を表示しています

バウムガルトナー 「カント入門講義」 『純粋理性批判』読解のために

カントの『純粋理性批判』は近代哲学の基本的な書物である。『純粋理性批判』において、カントは、人間理性の可能性と限界を探究し、新しい哲学的な尺度を与えたのだった。しかも、人間の自由の可能性の哲学的な基礎をも明らかにしている。つまり、人間は自然法則に支配されながらも、如何にして自由に行為できるかという問いへの哲学的な答えを与えているのである。 カントは、感性を通した経験に基づいた概念は経験的と呼ばれ、一方理性に起因する概念であるときに純粋と呼ばれる。つまり、『純粋理性批判』は、感性によらず、理性に起因する概念と原理を扱うのである。では批判とは何か。精選され区別されたものが、果たして正当性を持ちうるかを問うことにある。純粋理性に関する精選され区別された概念や原理が哲学的な意義を持っているか。この概念を使って、我々は理性的な行為(認識すること)をなしうるのか。また、この概念を用いてもいいのか。これらの問いを批判的に探究していくのである。 カントが『純粋理性批判』を著した時期(第1版1781年、第2版1787年)は、複雑な時代であった。啓蒙の時代と言われ、ついにはフランス革命へと至る社会的政治的な機運があった。逆に啓蒙思想に反対して、心情や敬虔さや内面的平安に重点をおいた敬虔主義の宗教的な世界もあった。コペルニクス、ガリレオ、ニュートンなどに代表される自然科学の大きな流れもあった。 この時代に、哲学に於いては、ベーコンの経験論に対してデカルトの合理論が対立していた。合理論は、デカルトが哲学を「私は考える」ということに立脚して基礎づけをして以来、スピノザ、ライプニッツへと受け継がれていった。一方ベーコンの流れを汲む経験論は、ホッブズ、ジョン・ロックを経て、ヒュームへと至っていた。 カントの『純粋理性批判』は、合理論と経験論の対立という課題と、懐疑論の課題の大きな2つの課題に対して肯定的な解答を与えた。 経験論に於いては、我々の認識は全て感性的である。それは、目や耳などの感官を通じて認識が始まるだけでなく、感官に認識が留まり続けるのである。我々が反省し熟考する全ての概念は、認識は感性的な材料に関係する限りに於いてのみ意味を持ち、感性的な材料から離れれば意味を持たなくなるという理論であった。我々の理性は知覚を認識し、ざまざまな知覚を互いに関連付けて、等しいか異