マイケル・ゲルヴェン ハイデッガー『存在と時間』註解 3 ドストエフスキーの大審問官
本著作は、哲学書の註解でありながら、優れた随筆あるいは評論とでも名づけられそうな箇所が随所に見られる。その中の一つ、ハイデッガー哲学の本来性・非本来性を扱うのに、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を引用しながら、わかりやすく説いている箇所がある。ハイデッガーを研究する学者らしいドストエフスキーの読み解き方を教えてくれる。 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』には、「大審問官」という有名な章がある。この章は、登場人物の作った話という位置づけで、物語の中の物語という形で綴られているが、キリスト教会内の高僧ですら平安へ盲従しているということを描いて人間の弱さを暴いている。 そこでは自由と安全確実性との間の偉大な闘争のさまが力強く描かれている。ドストエフスキーは、この問題にキリスト教における問題という形をとらせているのではあるが、この素晴らしい章に示された人間存在への洞察は、単なる一つの宗教的見解をはるかに越えたものである。 「大審問官」の主題は次のようなものである。もしもキリストが今日の西欧キリスト教社会に戻ってきたとしたなら、彼は教会自らによって拒否されるであろう。なぜならば公の教会というものは、ほとんど機械的とも言える宗教制度によって安全確実性を与えてくれるものであって、そこでは救いを得るためには何をなし何を望んだら良いのかがきちんと解っているいるのに、ところがキリスト自身は少しもそんな安全確実性は与えてくれず、ただ自由を与えるからである。 教会の枢機卿である大審問官は、再び甦ったキリストを、人々に対する愛情を自分ほどは示していないといって非難する。枢機卿が言うには、自分は人々に欲しがるものを与え、従って彼等をしあわせにしてやる。それなのにキリストは、人々が欲しがっている安全確実性による平安を奪い、その代わりに自由という恐るべき重荷を背負わせるのである。(p.329) 「大審問官」自体が素晴らしいのは勿論であるが、ここで著者が「大審問官」を取り上げているのは、ハイデッガーが『存在と時間』第二篇第二章で語っていることと関係があるためである。それは、ドストエフスキーとハイデッガーの両者が注目する、自由の大切さと、それに伴う自由の性格にある。 第一には、自由は自由である者の肩に恐るべき重荷をのせるものであり、何を...