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メルヴィル 「ビリー・バッド」 正と悪

物語は、フランス革命の後、海はまだ帆船が走る時代の話である。 ビリー・バッドは、商船ライツ・オブ・マン号(「人間の権利」という意味)の船員であったが、戦艦ベリポテント号(戦闘に強いという意味)に強制徴用され、フォアトップ・マン(フォアトップ・マストを操作する船員)として英国海軍の水兵となった。ビリーは、容姿美しく逞しく性格良好な青年で、商船においても人気者であったが、戦艦に移ってからも同様に船員達から好感を持って迎えられた。 しかし、戦艦には、ビリーを快く思わない者、先任衛兵長ジョン・クラガードがいた。先任衛兵長の役割は、古い時代には長剣・短剣の指導であったが、銃や大砲の時代となって元の役割は終わり、代わって船の警察署長のようなものになっていた。クラガードは、その地位に物を言わせて目に見えない影響力を行使しては部下を操り、平水夫に不快感を与えるような人物であった。そんなクラガードがビリーを嫌ったのである。 クラガードは、表向きはビリーに対して物柔らかで好意を示す態度で接していたが、裏では部下を使って陰謀を企て、ビリーを徹底的に陥れる機会を窺っていた。時はフランス革命の後である、叛乱は怖れられ嫌われていた。クラガードは、ビリーを叛乱の首謀者に仕立て上げ、上官に密告して軍による裁きを受けさせる積りである。実際、クラガードは、ビリーが叛乱の首謀者であるとして艦長ヴィラへ報告した。 ヴィラという人は海軍軍人としての才能を持った上に、軍人としては珍しく知性的でもあったが、彼が艦長として1個の軍艦を統率できたのは相当の人格者でもあったからである。つまりヴィラは、人徳の人であり、理性的な判断ができる人でもあった。 艦長ヴィラは、クラガードからビリーが叛乱を起こそうとしていると報告を受けたとき、その言葉を信じなかった。それで、ヴィラは、ビリーを艦長室へ呼び、ヴィラとビリーの目の前でクラガードに告発の説明をさせたのであった。艦長の前でクラガードは告発を繰り返した。ビリーは、純粋無垢な青年であるが知性的ではない。最初その告発が理解できなかった。ビリーは次第に自分の置かれた立場がわかってきたが、能弁でない、いやむしろ言葉に詰まるタイプであった彼は告発に対する反論の言葉が口から出てこなかった。ビリーはクラガードを殴り倒し、クラガードはそこで息絶えた。 ヴィラは、目の

トーマス・マン 「詐欺師フェーリクス・クルルの告白」(下) 

トーマス・マンは、自己の人間洞察の目を通して、表からは窺い知れない心の奥底に深く沈んでいる心情の機微を掬(すく)い上げて、主人公フェーリクス・クルルに人間とは何を考えているかを見事に語らせている。卓越した語りの力強さ、人間洞察の奥深さに圧倒されつつも語りの世界へと引き込まれていく作品である。 フェーリクス・クルルは、パリの高級ホテルのエレベータボーイとして働き始めたが、典雅な身のこなしと人を扱う才能、人に好感を与えずにはおかない輝くような容姿をマネージャに認められ、ホテルのレストランで給仕するボーイに昇格した。フェーリクスの持つ才能がこれまで以上に発揮された。 仕事の合間にサーカスを見に行ったことがあった。サーカスの中心は、空中ブランコを演じる若い女性アンドロマシュであり、フェーリクスは彼女に心を奪われ崇拝に近い感情さえ抱いた。彼女の超人的な業(わざ)、彼女は地面に安全ネットを張らないままに空中ブランコを演じ続けた。1つのブランコで飛び出していくと空中で別の方向から来るブランコに寸分違わず飛び移り戻ってくる、微小な狂いや気持ちの揺れさえ許されない業であり、もしブランコの代わりに空を掴んだら死が待っている。とても人間が成していることとは思われなかった。 果たしてアンドロマシュ(それはつまり人間の中で、超人的な技能をなしたり、死と隣り合わせに生きる者達)は、人間的なのだろうか、とフェーリクスは問うている。彼女が普通の母や娘として生活しているのを想像するのは愚かしいことだという。母や娘として生きる人は、空中ブランコはしないものだし、多分できないのだろう。普通の者が愛や生活に使うエネルギーを、こういう超人的な者達は、彼らの業(わざ)の中で使い果たしてしまうから、普通の生活はできないないのである。 レストランで紳士淑女あるいは貴族の家柄の人々と給仕として会話しサービスをするようになってから、一人のルクセンブルクから来た青年侯爵ルイ・ヴェノスタと知り合った。ヴェノスタ侯爵は、ソルボンヌでの法律の勉強を途中で投げ出し、パリに絵の勉強をしにきていた。ルイ・ヴェノスタは、パリでザザという女優と身分違いの恋愛関係に落ちていて、そのことをルクセンブルクの両親に咎められ、ザザをパリに残して(貴族の子弟が世間勉強のために行う)世界周遊旅行に出ることを強要されて困惑してい