グレアム・グリーン 「恐怖省」
時代は、第2次世界大戦の最中、多分1942,3年頃であろう。ナチスドイツと戦争状態にあるイギリスは、夜ごとにドイツによって首都ロンドンが空爆を受け、街のいたるところに廃墟となった建物や街路が増えており、人々の心にも暗い影が落とされていた。そんな中でも、日中は敵機が飛来せず、人々は怖れを抱きつつも日常生活を続けていた。 主人公アーサー・ロウは、プロテスタント教会で開催された慈善市に参加し、占いの店で自分でもそうと知らずに合言葉を口にしたことから、いわくありのケーキを手に入れ(本人はゲームの賞品と考えていたが)、ドイツのイギリスにおけるスパイ活動に巻き込まれていく。 ロウは、自分がスパイ活動に巻き込まれたことをずっと気づいていないし、また、彼自身は高邁な正義感を持つわけでもないが、自分の周囲に起きる不思議な出来事の裏に潜む秘密を解き明かそうとする。 しかし、ロウが秘密を解き明かしていく動機は何であろうか。 ロウは、憐みの心を持つ人であった。彼には妻があったが、不治の病に苦しむ妻を憐み、毒薬を飲ませて殺してしまった過去があった。裁判では、安楽死として無罪となっていたが、彼には自分の行為が許されるものだとは感じていなかった。妻のためを思って殺したのではなく、自分が妻の姿を見るに忍びなくて、妻を殺してしまったのではないかと感じているからであった。そうであるから、彼には自分は殺人者であり、世間の人々とは一線を画した別の世界に住む人間だと考えていた。実際、彼は、この事件のあと社会の何か活動に参加しようとしても、経歴を知られて拒絶され、社会から隔絶に近い形でロンドンに暮らしていた。だから、ドイツ軍の爆撃で破戒されたアパートに暮らしているのは、彼の精神生活と合っていなくもなかった。 自分を殺人者だと感じているロウを、妻を殺した同じ毒薬を紅茶に入れて、殺そうとした男がいた。後で振り返るとわかるが、慈善市のケーキを取り戻しに来た男であった。ロウは憤った。自分は妻を安楽死させるのにも、何年も躊躇し、考えあぐねて暮らし、そして実行に移したのであった。そんな自分の姿や心を嘲笑われたように感じたのだと思う。人を殺すのにも何も躊躇なく、他人への憐みも持たずに行動している者たちに腹を立てたのだろうと想像する。 ロウは、自分が殺されそうになったことから、何か秘密が隠れていること...