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カフカ 「掟の門」

その男が「掟の門」の前に来ると門は開いていた。門の前で守衛をしている屈強な男に、中に入ってもよいか問うと、門番は、今はだめだがどうしても入りたいなら中には入ってもよいという。ただし、中には自分よりも強い守衛が何人もいるから覚悟して行けとも言う。 男は待つことにして、「掟の門」の前で門番の隣に何年も座り続けた。何かのために持参した品々を門番に渡すと、門番は受け取ってはくれるがそれは男を通すためではなく、男の気持ちを受け取るためであるという。 ずっと待ち続けた男は、とうとうそこで息を引き取った。死の間際、目の前が暗くなっていく男には門の中に何か明かりが見えるようであった。男は意識が遠くなりながら、数年もの間待っているのにどうして誰も「掟の門」に入らないのかと尋ねた。門番は、この門はお前だけが入れる門だったのだと、もう何も聞こえない男に答え、門を閉ざした。 騙されたと憤る者や、知らなかったと悔やむ者や、人生はそんなものだと達観してみせる者もいるかもしれない。色々な読み方や解釈ができると思う。 覚悟して自分の道を進めと言われているのに、自分の未来に怖じ気づいて先に進めない人間がそこにあるように思う。それは人によっては、処世術かもしれないし、哲学や宗教的なものが見えるのかもしれない。 そこには、誰の心の中にもいる二人の自分が描かれている気がする。ものを考え問いかける自分と、それに答えるもう一人の自分。先に進もうか迷う自分と、やめたほうが良いと止めるもう一人の自分。自分が自分の未来を縛ることもあれば、犯してはならない罪への道を踏みとどまらせることもある。どちらも自分の力である。もう一人の自分に恥ずかしくないように生きること。 「カフカ短編集」 岩波文庫 フランツ・カフカ著 池内紀訳

ガルシア・マルケス 「予告された殺人の記録」

三十年前に田舎町で起きた殺人事件の記憶を「私」は辿っていく。 当時青年であった「私」はその町に住んでおり、犯人とは親戚、被害者とは学校の友人という関係にあった。年月が経ち人々の記憶がかすんでいくが、その一方で、事件に嫌悪する感情も薄れ、人々から改めて話を聞くことができた。犯人や被害者の親戚や近しい人々、当日犯人や被害者と接した人々、町に住む住民、様々な人から直接話を聞く。事件に関りのあった人々の言葉を拾って歩くうちに、事件の断片をモザイク画の画素のようにつなぎ合わせていくことで、事件が起きた時には良く見えなかった全体像が浮かび上がっていく。 殺人事件を扱っているが、推理小説のような謎解きではなく、また、犯人の心の内を描く心理小説でもない。人々の証言を断片的につなげながら、殺人事件を通して、事件が起きた背景にある複雑な社会状況を描いている。 被害者サンチアゴ・ナサールは、アラブ系コロンビア人で富裕層に属していた。若くして父親を亡くした彼は、既に家長であり、殺された当日も町の有力者として司教を迎える立場にいた。彼の立場や分別をもってすれば、事件を未然に防ぐこともできたはずであるが、そうはならなかった。 町へふらりとやってきたバヤルド・サン・ロマンは、最初は身分の知れない山師のような扱いを受けたが、前世紀にあげた軍功で国民的な英雄であるペトロニオ・サン・ロマン将軍の子息であると知れると、バヤルドは町の有力者としての待遇を受けるようになった。しかし、彼の母親はカリブ海出身の黒人の血を引く混血女であり、国の英雄とはいえ、複雑な家庭状況が窺える。 バヤルドは、結婚相手を探していたが、アンヘラ・ビカリオを見初めたのであった。彼自身も相当な富豪であり、金に糸目を付けぬ振る舞いが目立つ男であった。婚約が決まり新居を探す段になった時に、町で一番の邸宅と言われていたその持ち主に、大金を積み上げて、奪うように買い求めてしまった。 ビカリオ家は、貧しい過程であった。アンヘラの兄二人は、豚の屠殺を商売にしていた。それは、普通、社会では忌み嫌われる商売であり、彼らの貧しさや社会的な地位の低さが窺える。そうであったから、身分を超えた結婚に誇りを感じるとともに、不相応な関係に不安も隠し持っていたのであろう。 ところが、アンヘラ・ビカリオは、バヤルド・サン・ロマンという富

マルサス 「人口論」 人口の重荷

本著は、人口に関する原理に関して、マルサスによって1799年に著されており、時期からしてフランス革命の勃発とその後の社会的な混乱を見て、理想主義と現実のかい離、その結果として現れた混乱を考察してものであろう。 人間社会は、人口と言う重荷を背負っており、人口を考慮せずして社会の動静を理解することはできない。つまり、人口によって社会の発展も限界づけられており、限りある世界の資源の中で養える人口には限界があるとマルサスは説いている。マルサスの考えは以下のような道筋を取って展開される。 議論の出発点として、人口は、つねに人口を養えるだけの生活物資の水準におしとどめらるという原理を提出する。これは明白な真理であり、多くの論者が指摘していることでもあることを説明している。 次に、前提として以下の2点を挙げている。第一に、食糧は人間の生存にとって不可欠であること、第二に、男女間の性欲は必然であり、ほぼ現状のまま将来も存続することである。 そして、ここがマルサスの理論の中心的な部分であるが、人口は、何の抑制もなければ等比級数的に増加する一方、人間の生活物資の増え方は等差級数的であるということである。人類の増加が食糧の増加とつりあうレベルに保たれるのは、必然性という強力な[自然の]法則が人口増加のパワーを抑止するものとして常時機能してのみ可能となるという。 生活物質、とりわけ食糧は、結局のところ農産物であり、土地からの収量に等しい。農産物は、農地の面積か、面積当たりの収量が増えない限り増えることは無い。それは、新しい開墾地で耕作が始まるか、科学的な進歩で肥料や耕作方法の飛躍がないと難しいし、経験則として以下に科学技術が発達しても爆発的な収量の増加は見込めない。 ところが、非常に直接的な言い方であるが、マルサスは、人の性欲は留まることを知らず、ただ、食糧が無くなるまでは増え続けるという。しかも、人口の増え方は食糧の増え方よりも遥かに大きいので、必ずどこかで人口は限界に達すると言っている。 別の言い方をすれば、人口は食糧がなければ増えることができないが、 食糧があれば人口はひたすら増加する。だから、いつも限界近くに人口は留まり、社会は余裕のない状態に置かれるのである。 マルサスは、人口増加の大きなパワーは、社会の中に貧困や悪徳を生み

グレアム・グリーン 「叔母との旅」

主人公のヘンリー・プリングは、長年真面目に務めたロンドンの銀行の支店が閉鎖されるときに、退職して50代にして年金暮らしをしている人物であった。ずっと独身でありダリア園芸の他に趣味もなく、銀行と自宅の間を行き来する狭い世界に住んでいた彼にとって、大して金もなく知人友人もほとんどなく、引退してからの日々は時間を持て余すものであったのだが、彼の母親の葬式に出て、初めて叔母のオーガスタ・バートラムと出会ってからというもの、彼の人生は大きく変わることになる。 オーガスタはヘンリーを自宅に招いてくれたのだが、そこで驚くべきことを話した。ヘンリーは、確かに彼の父親の子であるが、実の母親は別人であるという。50も半ばにして、自分の母が義母であったことを初めて知ったのである。 オーガスタは、86歳になる前に亡くなったヘンリーの母親と12歳ほど離れた妹で、真面目な性格であったヘンリーの母とは反りの合わない、奔放な行動で活力にあふれ、はっきりとものを言うタイプの女性であった。(それだから、長年ヘンリーは叔母に会うことがなかったのであろう。)ずっと独身であったようで、世界中を飛び回り、幾人もの男性と関係も持っていたようでもあった。 狭い堅苦しい世界に住んでいたヘンリーにとって、オーガスタの生きている世界は、全くの別世界であり、先の見えない危うさとともに何か妖しい魅力を以て彼に光を投げかけて誘っているようでもあった。実際、旅行好きのオーガスタに、ヘンリーは旅行のお供を相談され、その後二人はあちこちを共に旅することになる。オーガスタと実際に旅行する旅であり、旅行の合間にオーガスタから聞く彼女の人生も旅そのものであった。 ロンドンからイスタンブールへ向かうのに、わざわざパリ発のオリエント急行に乗った時、道理に合わないがロンドンからパリまでは飛行機を使い、オーガスタは大きなスースケースをヒースロー空港に持ち込んだ。大量のポンドをこっそり国外へ持ち出すためである。みすぼらしい今にも壊れそうな柔な作りのスーツケースであれば、税関も荷物運搬人も詮索しないだろうという見込みの下の賭けの行動であった。著者グレアム・グリーンの諜報部員としての経験から書いている真実味のある裏の世界の人々の行動が、物語のあちこちに垣間見られる。 オリエント急行と言うと華やかな印象を持つが、実際の旅は、地味

茨木のり子 「花の名」

茨木のり子の「花の名」は、父の告別式の帰り道に、その心中を詠んだ詩である。近親の者を失って、深い悲しみに心は暗く沈むのだけれども、著者の悲しみを知るべくもなく世の中はいつも通りに過ぎていく。世の中の平穏さと、著者の死者を悼む心中とが、詩の中で並行して並べられ、その落差に一層著者の悲しみを知るのである。 詩の場面は告別式からの帰りの列車の中である。ちょうど乗り合わせた男性客が浜松のストリップの話題に話しかけてくる。その客にとっての日常は、そんなことであったのだろうし、ある意味、人の生と性(さが)の最も現れた話題であったのかもしれない。人の生と死が隣り合わせに、併存していて、悲しみとばかばかしさとが一つ所にあって、大げさに人の死を嘆くよりも反ってもの悲しさが強まるような気がする。 著者は黙って自分の世界に引き入ったまま、通り過ぎたいのだが、客が話しかけてくるものだから、日常の世界に連れ戻される。そして花の名を問われるのである。 花の名を知っていることは素敵なことだと、著者の父が娘に対して教えたのだった。そんな父の思い出が、花の名前をきっかけに蘇ってくる。父は田舎の医者で、知的な人であり、著者を知性の世界に導いてくれた人だった。田舎の人々を助け、慕われ、涅槃図のように人々が集まって、その死を悼んでくれた。著者は、生きているうちに、父には言えなかったことがたくさんあったのだろう、そうやって、いくつもの記憶を辿りながら父に話しかけるのである。 「茨木のり子詩集」 岩波文庫 谷川俊太郎選 茨木のり子

グレアム・グリーン 「事件の核心」

第二次世界大戦時の西アフリカにあるイギリスの植民地が物語の舞台である。そうとは書かれていないが、シエラレオネである。そこは貧困や荒廃にまみれて、悲惨さの極みにあり、殺人や窃盗や汚職などが横行し、ヨーロッパ人、現地アフリカ人、中東から来るシリア商人など人々は平気で嘘をつき相手を欺きながら生きていた。悲惨な環境では生きるのに余裕はなく、そうしなければ生きていけなかったのである。そうできない者は、自死を選ぶしかなかった。 主人公スコービーは、そのような環境であるにもかかわらず、賄賂を受け取って蓄財することもできず、人を欺いて出世することもできず、日々の勤務を真面目に勤める警察副署長であった。スコービーはカトリックであり、神を心の底から信じていた、神を愛していた。彼には悪を為すことができなかったのである。彼は、人々を公平に扱おうとしたので、逆に人々に疎まれていた。 スコービーには、ルイーズという妻があった。インテリで、詩を読むことを好むのであるが、西アフリカに来るような一物あるような人々やましてや現地人には相手されない人物であった。ルイーズは、西アフリカで人付き合いが出来ず、唯一の話し相手であるスコービーにつらく当たり、彼はルイーズを持て余した。スコービーは、ルイーズを彼なりに愛していたが、ルイーズには伝わらなかった。夫婦喧嘩の際に出たのが次の言葉である。 「おまえはおれに平安を与えることができない女だ」   (中略)「私がいなくなればあなたは心の平安を得られるでしょう」「なんにもわかっていないんだな」 スコービーは、心の平安を求めていた。毎日生きるのがどんなに苦痛の連続であるか、彼はどうにかして心の平安を手に入れたいと熱望していた。それはルイーズが言ったように何かの悲惨さや苦痛の不在によって得られるものではなく、神から与えられるものであった。 ルイーズが西アフリカを離れて南アフリカへ行きたいといった時、賄賂を受け取らないスコービーには、金が全くなかった。そこで金の工面のために、彼は、皆から嫌われているシリア商人のユーゼフから借金をする。ユーゼフは、ダイアモンドの密輸で富を築いているという噂であったが、真相はわからない。世渡りの上手な人間であれば、ユーゼフのような危険人物と関わらないのだが、スコービーはユーゼフしか頼る人間がいなかった。 ユ

グレアム・グリーン 「恐怖省」

時代は、第2次世界大戦の最中、多分1942,3年頃であろう。ナチスドイツと戦争状態にあるイギリスは、夜ごとにドイツによって首都ロンドンが空爆を受け、街のいたるところに廃墟となった建物や街路が増えており、人々の心にも暗い影が落とされていた。そんな中でも、日中は敵機が飛来せず、人々は怖れを抱きつつも日常生活を続けていた。 主人公アーサー・ロウは、プロテスタント教会で開催された慈善市に参加し、占いの店で自分でもそうと知らずに合言葉を口にしたことから、いわくありのケーキを手に入れ(本人はゲームの賞品と考えていたが)、ドイツのイギリスにおけるスパイ活動に巻き込まれていく。 ロウは、自分がスパイ活動に巻き込まれたことをずっと気づいていないし、また、彼自身は高邁な正義感を持つわけでもないが、自分の周囲に起きる不思議な出来事の裏に潜む秘密を解き明かそうとする。 しかし、ロウが秘密を解き明かしていく動機は何であろうか。 ロウは、憐みの心を持つ人であった。彼には妻があったが、不治の病に苦しむ妻を憐み、毒薬を飲ませて殺してしまった過去があった。裁判では、安楽死として無罪となっていたが、彼には自分の行為が許されるものだとは感じていなかった。妻のためを思って殺したのではなく、自分が妻の姿を見るに忍びなくて、妻を殺してしまったのではないかと感じているからであった。そうであるから、彼には自分は殺人者であり、世間の人々とは一線を画した別の世界に住む人間だと考えていた。実際、彼は、この事件のあと社会の何か活動に参加しようとしても、経歴を知られて拒絶され、社会から隔絶に近い形でロンドンに暮らしていた。だから、ドイツ軍の爆撃で破戒されたアパートに暮らしているのは、彼の精神生活と合っていなくもなかった。 自分を殺人者だと感じているロウを、妻を殺した同じ毒薬を紅茶に入れて、殺そうとした男がいた。後で振り返るとわかるが、慈善市のケーキを取り戻しに来た男であった。ロウは憤った。自分は妻を安楽死させるのにも、何年も躊躇し、考えあぐねて暮らし、そして実行に移したのであった。そんな自分の姿や心を嘲笑われたように感じたのだと思う。人を殺すのにも何も躊躇なく、他人への憐みも持たずに行動している者たちに腹を立てたのだろうと想像する。 ロウは、自分が殺されそうになったことから、何か秘密が隠れていること

グレアム・グリーン 「ハバナの男」

第2次世界大戦が終わって暫く経った、多分1950年代のキューバ、それはまだ革命が起こらず自由主義諸国の一員であったころ、が舞台である。そのような時代背景のもと、起きていたかもしれない諜報活動をパロディにした物語である。著者自身が諜報機関の一員であった経歴を持つため、パロディと言えども、話は真実に鋭く切り込み、裏側の世界が透けて見えるような気がする。 キューバは、アメリカのフロリダ半島先端のマイアミすぐ近くに位置し、しかも政権が不安定な中南米に位置し、アメリカ、イギリス、ソビエトなど様々な国々が情報を求めて、あるいはアメリカを狙う拠点を構築するために集まってくるような場所であった。 ソビエトのように領土の四方を別の国に囲まれた国から見れば、国の近くに他国、あるいは敵対する国の拠点が存在することの脅威や危険をよく知っているのであるから、他国に対してもそうした対抗策を考えたくなるのは当然であったし、アメリカから見れば、自分の国のすぐそばに、得体のしれない人々が集って、何か企んでいるのを傍観できるはずもなかったし、イギリスにとっては、大国として世界中に張り巡らした諜報網は、中南米にも及んでいたのも当然である。自分で何かしたいと思っているのであるから、他国も同じ考えだろうと、どの国が何をしているのかそれを知りたかった。こうして様々な人々が集まっていた。 イギリスの諜報機関の工作員が、キューバのハバナで自分の部下となる工作員を選定した。部下の工作員は、電気掃除機のキューバでの販売拠点を任されたセールスマン ワーモルドであった。ワーモルドは当然面喰い、何かの間違いだろうと考えたが、結局は工作員となってしまった。それは彼の娘の浪費(乗馬とか)を賄うために金が必要で、工作員として経費でそれを工面することにしたのである。それに、友人であるハッセルバッヒャ医師の助言、秘密は誰も知らなければ知らないほど価値を生むのであるから、誰も知らない嘘をつけばよい、にも背中を押された。 自分の娘ミリィの乗馬倶楽部の名簿から、適当な人物の名を選び、自分の部下として登録し、架空の情報を作り上げてはイギリスの本部へ送信した。それは本人でも驚くほどの偽情報づくりの才能であった。 工作員になって暫くすると、諜報機関らしい話がいくつも出てくる。例えば、身辺調査をされて、友人のハッセルバッヒャ医

グレアム・グリーン 「権力と栄光」 神の不在と神の臨在

物語の舞台は、メキシコで共産主義政府が樹立され、キリスト教徒への迫害が激しかった時代、メキシコ南東部のタバスコ州である。タバスコ州は、メキシコの中央から離れた山岳地帯で、メキシコの中でも極貧の地域である。 共産主義者による迫害で、キリスト教(この国ではカトリック)は禁止され、教会は取り壊され、神父は国外に逃亡するか逮捕されて国家反逆で殺されるかという運命にあった。タバスコ州に残っていた神父は、政府が公認したホセ神父だけであるが、彼は公的に結婚し国から年金を支給される生活を送っているものの、カトリックの神父として祈ったり祭儀を執り行ったりすれば国から咎められるのであった。それは、政府によるカトリックへの侮辱の象徴であった。 そうした環境で、主人公の神父(名前は与えられていない)は、逃亡生活を続けながら一人州内に留まっていた。禁じられているカトリックの神父として、留まっているだけであった。自分では何かの目的があって、そうしている訳でもなく、警察から逃れているうちに気づくとそういう境遇に陥っていた。唯一残った神父として高らかにカトリックの威厳を知らしめるわけでもなく、神の栄光を一身に受けているわが身を誇示するわけでもなく、また、人々に神による平和と赦しを与えることを目的ともしていなかった。ただ捕らえられて殺されるのが怖かったのである。主人公は、酒を飲み、山奥の村女との間に私生児まである破戒の僧でもあった。 対して、警察にはカトリックを忌み嫌って主人公をしつこく追いかける警部がいた。彼は、貧しいメキシコ人の生まれで、自分たちのメキシコの国が貧しく人々が飢えに苦しむのは、彼らを餌食として栄える者がいることが原因だと考えていた。メキシコ人を食らって生きている者たち、その中には暴利をむさぼる金持ちもいれば、腐敗した官僚もいるし、カトリックの僧侶も同じであった。警部は、そうした悪い奴らを掃討して社会を明るくして、国を、そして若い人々を貧困から救い上げたかった。警部のひたむきさ、真剣さは、腐敗したカトリックに対する人間の理性の優越を想像させるかもしれない。 主人公は、驢馬に乗って厳しい気候と地理条件の中をひたすら逃げ続ける。警察に捕まれば銃殺である。特に警部が追いかけていることはわかっていた。逃亡中に村があれば、村人たちの告解を聞き、ミサを献げる。カトリック信者の人々

グレアム・グリーン 「ブライトン・ロック」 善と悪と永遠と

ロンドンの南方で、ドーバー海峡に位置する歓楽地ブライトンには、主人公でピンキーと呼ばれている「少年」をリーダーとするやくざな集団が根を張っていた。彼らといざこざを起こしてしまって、ブライトンに足を踏み入れるのは命を危険にすることだと知っていたにもかかわらず、新聞記者フレッドは職を失いたくない一心で、ブライトンを訪れていた。 フレッドは、ブライトンに到着してからというもの、ずっと「少年」たちのグループに付け狙われ、生命の危険に怯えながら、他人の目を傘にして生き永らえようと人混みを探して歩き続けた。一人きりになれば襲われる。誰でもいいから他人と一緒にいさえすれば、彼らには手出しが出来なかった。だから、アイーダと酒場で飲み、一緒に街を歩くことが出来そうだった時に、何とかなりそうだと考えた。 しかし、アイーダがトイレに行って身だしなみを整えている最中にフレッドはいなくなり、アイーダは後日フレッドが病死したことを新聞で知るのである。 「少年」達の犯行グループは、完全犯罪を狙ってアリバイを偽装するのだが、そのアリバイ工作の一部をウエイトレスのローズに見られていた。 「少年」は、犯罪を隠すためにローズに近づき、硫酸で脅しながら口封じを試みるのである。アイーダは、フレッドの死を怪しみ、事件の真相を知ろうとする。彼ら3人を中心にしながら物語は展開していく。 彼女は生命を大真面目に考えていた。彼女は、じぶんの信じている唯一のものを守るためだったら、だれにどんな不幸を及ぼそうと構わなかった。「恋の痛手も、きっといつかわ忘れるものよ」と彼女はよく言うのだったが、彼女の考えによると、恋人を失おうと不具になろうと盲になろうと、「とにかく、生きてるってのは幸せ」であった。ただしそのオプティミズムのなかには何か危険で無表情なものがあった。  アイーダは、神を信じていない。だから彼女にとって、世界は命だけが真実のもので、それ以外に永遠の価値は存在しないのである。それは、現代社会に生活する我々と同じように、人間社会を中心とした正と不正という価値観であって、神の赦しとか慈悲とかとは無関係な世界である。アイーダには、社会的な不正は目に映るが、神の前の罪や罪悪は見えないのである。性についても必要な時だけ欲しがり、目を背けている。それだから、アイーダは、(そして我々も、)自分でも気づか

メルヴィル 「書記バートルビー」 自らへの問い

物語を語る「私」は、安楽な生き方が一番であるという「崇高な信念」を抱いて生きてきた弁護士である。お金儲けが「崇高な信念」につながるのである。彼には、内省、精神的な生活はない。物質的な生活を追いかけている。 そんな彼の事務所に、大きな仕事が入り、筆耕人が必要で、人を雇うことになった。それで雇われたのが、バートルビーであった。最初のうち、バートルビーは、多くの書類を抱え込み、黙々と筆写した。他の事務員が癖のある者ばかりであったこともあり、寡黙によい仕事ぶりで示したバートルビーに「私」は好感を持った。 だが、「私」が、何か別の仕事、例えば読み合わせ、を頼むと、「そうしない方がいいと思います。」と断って、自分の机がある囲いの中に閉じ籠るのであった。最初は、忙しかったこともあり、受け流していたが、何度別の様々な仕事を頼んでも、いつも、「そうしない方がいいと思います。」と断って、自分の机がある囲いの中に閉じ籠るのである。 弁護士で雇い主である「私」は当然腹が立ったし、他の同僚の事務員たちもバートルビーに不平を言うようになった。 しかし、彼ら全員に、その答え「そうしない方がいいと思います。」の意味は謎であった。そして、読者にも謎のままである。 バートルビーは、事務所に住みついていることが「私」に知られた後に、筆耕をもはや行わないと宣言する。そして、事務所を首になった後も、事務所の場所に居続け、とうとう刑務所に入れられてしまうのであった。 しかし、そうした特異なストーリーは、彼の謎や、作者の意図とは無関係のように感じられる。 唐突に「そうしない方がいいと思います。」と言われた時に、「私」が、そして読者が感じる不安な気持ち。今まで平板であった空間に突如割れ目が出来てそこから何か得体の知れないものが眼前に現れてくる、そういう何か空想的であるけど、真に迫るものが現れる不気味さ、真剣さがそこにはある。本質的なことを考えようともしないで安楽に生きている当時の人間への、そして現在にも通ずる、深い問いが隠されていると思う。 彼の答えの裏返し、何故それをするのか、という問いが常に自分自身へと投げ掛けられている。しかし、「私」は、その事を気づくことができるだけの真正な生き方をしていない。 「あなたはその理由をご自分でおわか

オルテガ・イ・ガセット 「大衆の反逆」 歴史的自発性の抹殺

世の中に氾濫するほどの民衆あるいは平均人の数、それが現代社会の特徴となっている。オルテガが本書を著した20世紀初頭に、圧倒的な民衆による社会の支配こそが社会あるいは政治に大きな問題を生じさせている根源的なものである、 とオルテガは考えていた。そして、その問題は100年が経過した21世紀初頭でも根源的であり続けている。オルテガが指摘している問題とはどのようなことであろうか。 19世紀は、加速度的におびただしい数の民衆を生み出していった。民衆の生がいかなるものであったかというと、最大の 特徴は、 物質的、経済的な容易さ、つまり生きることが過去には考えられない位に容易になったということである。  民衆あるいは社会の中の 平均人が、自分の経済的問題をかくも楽々と解決できた時代はかつてなかった。遥か過去には、多くの人々は飢えに苦しみ、貧困に落ち込み、常に死への恐怖に怯えていた。産業革命が進行し、科学技術が進歩するにつれて、各社会階層の平均人は、自分たちの生活の展望(暮らしやすさ)が開けてゆくのを目のあたりにすることになる。彼らの生活の標準には、つぎつぎと新しい贅沢が加えられ、彼らの地位はより安定し、他人の意志に自分の生活や生命が煩わされなくなった。以前なら幸運のなせるわざとみなされ、運命に対する謙遜な感謝の念を抱いたであろうようなことが、感謝の必要のない、生まれながらに与えられた要求すべき権利に変わってしまったのである。   1900年以降は、ヨーロッパ社会の底辺に近いところにある、労働者階級の生も安定し始めている。   経済的な安楽さと安定性に、さらに、快適さと、社会秩序が付け加えられていった。民衆の生は快適なものとなり、暴力や危険が入り込むことは減っていった。民衆あるいは 平均人は、生に対して安楽で平和なものを見るようになった。生きることはそれほど困難とは感じられなくなり、少しばかりの楽しみさえ見出せるようになっていったのである。 それまでの民衆にとって、生は、経済的にも肉体的にも、重苦しい運命であった。生きるということは、生まれながらにして、耐え忍ぶ以外に方法のない障害の堆積であり、それら障害に我慢して適応していく以外に解決方法は見出だせなかった。自分たちに残された狭小な空間にひっそりと隠れる以外に仕方がないと感じていたので