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マイケル・サンデル 「これからの正義の話をしよう」 6 道徳的個人主義とコミュニティの善

自分の国が過去に犯した過ちに対する謝罪の例に取りながら、責任の範囲とは何かを考えている。例えば、アメリカにおける黒人奴隷制を現代アメリカ国家が公式に謝罪すべきかどうか、ナチスドイツが犯したホロコーストを現代ドイツ国家が公式に謝罪すべきか、これらには賛否両論があるだろう。 公式な謝罪に反対意見の根底には、道徳的個人主義が根ざしている。道徳的個人主義とは、「 みずからの意思で背負った責務のみを引き受けることである 」。この原理からすると、自分が引き受けたもの以外の責任は負う義務は無く、過去の祖先が犯した過ちは自分には責任がないということになる。この考え方は、広く支持を受けるのではなかろうか。重くのしかかる歴史的な責任の束縛から解放されるのである。 しかし、道徳的個人主義の持つ自由に対する概念に、著者は否定的である。カントに触れる部分で著者が説明しているように、カントにとって自由とは自律的であるということだった。自律的とは自らが与えた法に従うことだ。個人的な利害から退き、自らが与えた道徳律に従って選択を行なう。このことは、次のような特徴がある。 道徳法則(カント)を望むとき、あるいは正義の原理(ロールズ)を選ぶとき、われわれは自分の役割やアイデンティティ、つまり自分を世界の中に位置づけ、それぞれの人となりを形作っているものを考慮しないのだ。 果たして、自らのアイデンティティを形成してくれた社会から切り離された正義、ある意味非常に抽象化された正義に従うことが正しいのだろうか。 リベラル派の自由の構想の弱点は、その魅力と表裏一体だ。自分自身を自由で独立した自己として理解し、みずから選ばなかった道徳的束縛にはとらわれないと考えるなら、われわれが一般に認め、重んじてさえいる一連の道徳的・政治的責務の意義がわからなくなる。そうした責務には、連帯と中世の責務、歴史的記憶と信仰が含まれる。それらはわれわれのアイデンティティと伝統を形づくるコミュニティと伝統から生まれた道徳的要求だ。自分は重荷を負った自己であり、みずから望まない道徳的要求を受け入れる存在であると考えないかぎり、われわれの道徳的・政治的経験のそうした側面を理解するのは難しい。 どうしたら自らの人格形成に大きな影響を与えたコミュニティの道徳的な重荷と重

マイケル・サンデル 「これからの正義の話をしよう」 5 美徳を求める

カントの考えは強力で堅固であるが、サンデルは満足していない。それは、余りにも理想的で、人間が直面する現実との乖離があるということではないか。 カントとロールズの哲学は、良い生の定義は人によって違うという現実を前に、中立的な立場から、正義と権利のよりどころを見つけようとする大胆な試みである。 中立的な立場での正義、と改めて問われるとき、果たして事の大きさに気づかされる。あらゆる人に共通に認められるような正義こそが正しいとすれば、ある人やある文化で尊ばれる美徳のような個別のことは無視されるのではないか。この問いに答えるために、アリストテレスの考えが登場する。 アリストテレスにとって、正義とは人びとに自分に値するものを与えること、一人ひとりにふさわしいものを与えることを意味する。 ふさわしいものは何かというと、それは与えられるものによって決まる。笛の例が持ち出される。最も良い笛をもらうべき人は、笛を最も上手に演奏できる人である。つまり笛によってそれを与えられるべき美徳が決まるのである。 家柄のよさや美しさは笛を吹く能力よりも大きな善かもしれない。全体的に見れば、そうした善を持つ人がそれらの資質において笛吹きに勝る度合いは、笛吹きが演奏で彼らに勝る度合いよりも大きいかもしれない。だが、それでも、笛吹きこそが彼らよりよい笛を手にするべきという事実は変わらない。 この説明は、笛吹きの能力と家柄という全く異なる種類のものを比べているのではなく、笛を配るにあたり考慮すべきは、笛によって決まる美徳、つまり家柄ではなく笛吹きの能力であるということである。 アリストテレスが考える、最もよい笛を最も笛吹きの能力のあるものへ配る理由は、そうすることで素晴らしい笛の演奏が生まれて人々が幸せになるからではない。笛は、うまく演奏されるために存在しているから、というのがその理由である。 笛の目的は優れた音楽を生みだすことだ。この目的を最もうまく実現できる人が、最も良い笛を持つべきなのである。 ヴァイオリンの競売の例が出される。ストラディヴァリウスのヴァイオリンが売りに出され、富豪のコレクターが、有名なヴァイオリニストに競り勝ってヴァイオリンを手に入れ、それを居間に飾ったとする。こ

マイケル・サンデル 「これからの正義の話をしよう」 4 重要なのは動機

自由が拠ってたつ「自己所有」という概念は、突き詰めていくと急進的な考え方に行き着いてしまい、ほとんどの人が同意できないようなもの、例えば、本人の同意があれば自分の生命でさえ傷つける行為(例えば食べられる本人が同意した人肉食)が認められるような考え、を突きつけてくる。そこからは、無制限の自己所有権は認められないのではないか、そうだとするとどういう原理で制限はかけられるのか、という問いが自然と生まれてくる。 カントは、自己所有とは異なるものに基盤をおいて彼の理論を作り上げていった。それは、人間は誰でも理性を持っており、理性を通して行動ができるということであった。しかも、それが人間の尊厳の基盤でもあるという。深い洞察と思索によって裏付けられた確固とした考えで、強い感銘を受ける。 カントの理論は、自分の所有者は自分自身であるという概念にも、人間の生命や自由は神からの贈り物だという意見にも基づいていない。その基盤となっているのは、人間は理性的な存在であり、尊厳と尊敬に値するという考え方だ。 人間はみな尊敬に値する存在だ。それは自分自身を所有しているからではなく、合理的に推論できる理性的な存在だからだ。人間は自由に行動し、自由に選択する自律的な存在でもある。 カントによって提示される人間の尊厳に関する考え方は、非常に重要だと思う。しかも無制限の自己所有という極めて厄介に見えた問題を乗り越えてしまうのである。まずは、彼の言う自由という概念を理解する必要がある。 カントの考える自由な行動とは、自律的に行動することだ。自律的な行動とは、自然の命令や社会的な因習ではなく、自分が定めた法則に従って行動することである。 生理的な欲求によって行動したり、社会慣習に従って行動しているとき、それはあたかも重力によって物体が落下するように、自分以外の力に支配されている。しかし、自らが自身に課した道徳律に従って行動するとき、それは自らの理性による行動であり、これこそがカントの言う自由な行動である。別の言い方で説明されている。 自由に行動するというのは、ある目的を達成するための最善の手段を選ぶことではない。それは、目的そのものを目的そのもののために選択することだ。これは人間には可能でも、ビリヤードの球(と大半の動物

マイケル・サンデル 「これからの正義の話をしよう」 3 自由と制限

正義の基盤となる自由とはどういうものか。自由というと自分に関することを自分自身で決められるということだ思うが、しかし、自由とは一般に考えられているほどには単純なものではない、いやむしろ非常に難しいことが示される。 プロスポーツ選手、マイケル・ジョーダンへの非常に高額な課税は、彼が自分自身で稼いだものの一部を社会の幸福という理由で強制的に取り上げてしまう。しかし、彼が稼いだものが強制的に徴税されるとしたら、彼自身に労働をさせたのと同じにならないか、彼の時間を奪ったとこにならないか、という問いが投げかけられる。自由とは、自分が自分自身を所有しており、自分の所有しているものは、人に危害を加えない限りにおいて何をしても良いということに基盤を持っている。自分が労働して稼いだものは自分のものである。それに制限を加えて、強制的に取り上げても良いものだろうか。 また、生命や性に関する例も提示される。自分自身のことは、自分のものであるから自分でどうにでもしても良いはずではなかろうか。しかし、自分の命を自分で終わりにしてしまうのはどうなのか、それを幇助することはどうなのか。 自分を所有しているのは自分自身だという考え方は、選択の自由をめぐるさまざまな論議の中に姿を現わす。自分の体、命、人格の持ち主が自分自身ならば、それを使って何をしようとも(他人に危害を及ぼさないかぎり)自由なはずだ。こうした考え方の魅力にもかかわらず、その含意するところすべてが簡単に容認されるわけではない。 課税の時には、社会の幸福のためといって、自由を制限することに賛同した者が、命に関する事項では自由を制限することに反対の側へ回ることもある。また、その逆もある。正義の基盤である自由の考え方が、このように相対的になってもよいものであろうか。実際に現実の自分自身を省みると、その場その場に応じて自由への態度が変わっていることに気づかされる。自由こそが人間の基盤であると考えていたが、その基盤は実はもろいものではないのか、改めて考えさせられる。 自分の命を自分で絶つことは許されるのか、許されないとすれば、それは一体どういう原理に基づいて言える事なのか。もっと深く正義を追究しない限り、生半可な思索では、この自由への問いには答えることはできない。サンデルは、更に次の原理へと進んでい

マイケル・サンデル 「これからの正義の話をしよう」 2 幸福の最大化

正義を議論するのに幸福という視点があることを著者は説明した。幸福とは何か、幸福によって正義はいかに語られるのか。幸福と正義をつなぐ哲学、つまり功利主義という原理を確立したのはジェレミー・ベンサムである。 道徳の至高の原理は幸福、すなわち苦痛に対する快楽の割合を最大化することだというものだ。ベンサムによれば、正しい行ないとは「効用」を最大にするあらゆるものだという。 この考え方は直感的で非常に明解であるし、実際、現在に至るまで広範囲の人々に大きな影響を投げかけているはずである。政治家の発言を見ると、この考え方に沿った意見が見られるだろう。 この考えにベンサムが至ったところは、単なる思い付きではなく、実は人間観察に基づいた深い思索に裏打ちされている。 われわれは快や苦の感覚に支配されている。この二つの感覚はわれわれの「君主」なのだ。それはわれわれのあらゆる行為を支配し、されにわれわれが行なうべきことを決定する。善悪の基準は「この君主の玉座に結びつけられている」のである。 人間は、ただ快や苦の感覚によってのみ支配されている、これは実に人を動物的に捉えた人間観である。しかし、実社会を見ると、この人間観が実に否定しにくいことにも気づかされ愕然とするだろう。あるいは、この人間観を誇らしげに肯定する人さえいる。これでいいのか。 功利主義は正しいのか、例えばこういう問いかけがある。マンハッタンに時限式の核爆弾が仕掛けられており、テロ容疑者を逮捕した。容疑者から何も聞き出せないうちに、刻々と時間だけが過ぎていく。この場合にテロ容疑者への拷問は正当化されるのか。功利主義の立場から見ると、何十万、何百万という多くの人々の生命を守るためであれば、テロ容疑者に拷問するという非人道的な行為は許される。これとは意見を異とする、人権的、道徳的な見地から拷問に反対する人もいるだろうが、大多数は、容疑者への拷問を容認するだろう。 この例から言うと、人は数十万、数百万という数の人命が危険にさらされると、人は、道徳とか人権とかいう大切なものから眼を逸らしてしまいがちである。もし、この例が示すようことが正しいとすれば、道徳とか人権とかいう人間の尊厳に関わる問題は、コストと利益の計算の問題に帰されることになる。人権とはそのような