魔の山 18 マダム・ショーシャ

サナトリウム「ベルクホーフ」には、クラウディア・ショーシャというロシア系婦人が療養のために滞在していた。サナトリウムに滞在する人々が異性に対して必ず恋い焦がれる様に、ハンス・カストルプ自身もショーシャへと惹きつけられていった。

ショーシャは、食堂に入る時にガラス戸をガランガチャンと音を立てて不作法に閉めるのであったが、この音がハンス・カストルプにとっては非常に気に障った。このことがきっかけとなってハンス・カストルプはショーシャへと関心を寄せていった。ショーシャと廊下ですれ違うように待ち伏せしたり、時間を見計らって同じ時刻に食堂の入り口で出会うように工夫したり、食堂で遠くの席から彼女を見つめてみたりしていた。その行動は周囲の者たちにもわかることで、セテムブリーニは説教までして止めさせようとした。

13歳のころのハンス・カストルプが日頃から話しかけたいと思っていた少年が一人いた。プリビスラウ・ヒッペという異教徒ふうの名前で、模範生、ゲルマン系とスラブ系の混血、「キルギース人ふうの眼」という特徴を持った子であった。ショーシャは、ヒッペと同じ目をしていた。

セテムブリーニに代表される西欧の人文主義者ーー神から独立した人間性や理性を尊重する立場の人たちーーと対照的に東欧やアジアの非文明的なものを代表しているのがショーシャであった。ハンス・カストルプは、非文明的なロシア婦人が持つ、人文主義で覆い尽くせない部分の人間性に惹かれているのではないだろうか。

ショーシャは、訛りのある発音をしていて、人間性という言葉を「ねーんげん性」と口に出した。「ねーんげん性」は、理性や合理的なものでも、ましてや攻撃的で非人道的なものでもなく、彼女が本能的に感じる人間性を表現するまことにしっくりとした言葉である。

カーニヴァルの夜にハンス・カストルプはショーシャと初めて真剣な会話を交わすことができた。彼等はサナトリウムで通常使われるドイツ語ではなくて、ショーシャが得意なフランス語を使って会話した。カーニヴァルの夜、ハンス・カストルプはショーシャに対して「君」という言葉を使ったが、これは西欧の上流の人たちが神や親しい人に対してのみ使う言葉であって、ショーシャとはほとんど会話らしい会話もしていない間柄のハンス・カストルプにしてみれば礼儀正しい西欧人であれば慎むべき態度であった。それを敢えて使ったのは、ハンス・カストルプのショーシャに対する愛情を伝えたかったからであった。

「教養ノアル人文的文明ノヨーロッパガ、人ヲ呼ブノニ使ウ『アナタ』トイウ形式ハ、僕ニハキワメテ小市民的デ俗人的ニ感ジラレルンダ。イッタイナンノタメノ形式ナンダ?形式ナド俗人根性ソノモノダ!君タチガ、君ト君ノ同病ノ同国人ノ紳士ガ、道徳ニツイテ考エタ結論、ーー君ハ僕ガソレヲドレモホントウニ驚クトデモ思ウノダロウカ?」(上巻p580)
とうとうハンス・カストルプは、自分の心を口に出した。

「コレハホカデモナイ、君ニタイスル僕ノ愛ナンダ、ソウトモ、僕ガコノ目デ君ヲ見タトタンニ心ヲトラエラレタ愛、トイウヨリモ、僕ガ君ヲ君ダト知ッタトタンニ心ニヨミガエッタ愛ナンダ。」(上巻p581)

次の日マダム・ショーシャは別の場所でしばらく療養するためにサナトリウムを去っていった。ハンス・カストルプは彼女の帰りを待つためにサナトリウムに滞在し続けた。


「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳





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