小林秀雄 「本居宣長」(上)(下) 3 源氏物語
本居宣長は、源氏物語を深く読み、「源氏」を通して紫式部が宣長に対して語りかけてくるのを感じたのだと、著者は書いている。それほど深く踏み込んで「源氏」を読んだ人はいなかった。「源氏」と向かったとき、 「此物がたりをよむは、紫式部にあひて、まのあたり、かの人の思へる心ばへを語るを、くはしく聞くにひとし」 と感じることができた。説明しにくいのだが、「源氏」という古典に自分自身を傾け尽くし、作品の中に没頭し、人智を超えた「道」というようなものに出会うことが出来たのではないだろうか。 幾時(いつ)の間にか、誰も古典と呼んで疑わぬものとなった、豊かな表現力を持った傑作は、理解者、認識者の行う一種の冒険、実証的関係を踏み超えて来る、無私な全的な共感に出会う機会を待っているものだ。機会がどんなに稀れであろうと、この機を捉えて新しく息を吹き返そうと願っているものだ。物の譬えではない。不思議な事だが、そう考えなければ、ある種の古典の驚くべき永続性を考えることはむつかしい。宣長が行ったのは、この種の冒険であった。(p.148) 古典と稀有の学者との出会いが生まれた。人が作品と向かうとき、対象が真実を語っているのかということに必ずや疑念が生じるであろう。そういった疑念がある対象に、自らの全身全霊を傾けつくすことなど不可能である。直感によって対象を信じきり自らを全的に傾け尽くすということは、著者が言うように、まさに「冒険」であり、限られた者にしか出来ないことだろう。そう考えてみると宣長の「源氏」との出会いが、いかに尋常でない事件であったことが感じられる。 「あはれ」とは何かと人に問われた宣長は、すぐに答えられるように思ったのだが、考れば考えるほど、答えに窮する自分を発見した。平凡な言葉を調べてみて、その「含蓄する意味合の豊かさに驚いた」。「あはれ」とは何かという根本を追究しようとすると、「あはれ」という言葉の意味はどんどん拡がって行くのである。平凡な言葉が持つ表現性の絶対的な力を知って驚いたのだという。 「あはれ」がそのように驚くべき表現性を持っているのは、「あはれ」が繋がっている人の心というものによるのではないか。「あはれ」という言葉は人の心を表現している。人の心ほど深く広く全てのものに対して感じ行き渡り、そして...