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アルビン・トフラー 「第三の波」 

現在、世界では長期に渡って社会構造(産業、政治、家庭にいたるまであらゆる構造)を変革する大変動が起こっている。それは、農業によってもたらされた農業文明、産業革命によってもたらされた産業文明に匹敵する新しい文明の創造であるとトフラーは言う。 農業文明、産業文明をそれぞれ第一の波、第二の波と呼び、現在創造されつつある新しい文明を第三の波と呼んでいる。新しい文明の波が社会へと押し寄せ、社会構造は根本から造りかえられる、そういう比喩的な視点での説明が与えられる。勿論、人類の歴史をそういう大雑把な括りによって説明することには無理があるだろうが、現在起こりつつある社会の大変動を長期的な視点で見るとき、この波のイメージは我々に明快な説明を与えてくれると思う。本書は、読者がこの大変動の真っ只中で様々な矛盾に満ちた激しい経験をする時、雑多で全く関係ないと見える事象に貫かれた大きな流れを読者へ見せてくれる。本書は、大変動の行く末や結論を与えてはくれないが、大変動を如何に見るべきかという視座を与えてくれるのである。 産業文明は1650年~1750年頃に始まりを見せ、それまで支配的であった農業文明と入れ替わった。産業文明が始まったとはいえ、農業文明によって特徴付けられる社会が無くなったわけではないし、農業文明以前の社会に生きる人々(アマゾンの奥地など)もいないわけでもない。しかし、波という比喩はわかりやすいイメージを与えてくれる。いくつもの波が1つの社会に押し寄せてきてもいいわけである。いずれの波が支配的かが問題であって、排他的に波が存在するわけではない。 第二の波の産業主義は、農業文明にある社会との間で長期に渡る苛酷な軋轢を引き起こした。それまでの農村が主体の社会は崩壊して、工場が集積する大都市へと人は流れ込み新しい都市型の社会が形成された。第二の波は、第一の波の社会を徹底的に破壊して新しい構造を造りなおしたといってもいいだろう。それは、政治制度、産業構造、家庭にいたるまで全ての分野に及んだ。 経済的な面を見てみる。トフラーは、経済活動を2つのセクターA、セクターBに分けている。セクターAは自分で消費するために生産する活動、セクターBは商業や交換のために生産する活動である。第一の波の社会では圧倒的にセクターAの比率が大きく、セクターBはほとんどなかった。社会に属する人々

プルタルコス 「英雄伝」 ギリシャ民主制とペリクレス

古代ギリシャ アテナイ(アテネ)の黄金期(紀元前5世紀中頃)を支えたのがペリクレス(紀元前495年頃~紀元前429年)であった。 ペリクレスはギリシャで一流の家系に生まれた。父クサンティッポスは、ペルシャ戦争時にミュカレでペルシャ軍の将軍達を打ち破った人であり、母アガリステは、クレイステネスの孫娘に当たる人であった。このクレイステネスは、僭主ペイシストラトスおよび一族を追い出して僭主支配を終わらせ、崇高な精神で法を制定して、協和と秩序に満ちた国政を樹立した人である。ペリクレスは、生まれたときから頭が大きすぎて釣り合いが悪かったそうで、彼の彫像がほとんど全て兜をかぶっているのは、彫刻家達がその不釣合いな頭の大きさに配慮したためだという。 ペリクレスが偉大な人となった1つの要因として彼の教師であるクラゾメナイの人アナクサゴラスを挙げている。アナクサゴラスは、当時の人々から「ヌース(理性)」と呼ばれたが、これは自然学に造詣が深く、また、宇宙秩序の原理として、「偶然」や「必然」ではなく「理性」を挙げた人であったからだという。アナクサゴラスの薫陶を受けたペリクレスは、気位は高く、言葉付きも崇高で、まげても笑わない顔の構え、立ち居振る舞いの穏やかさ、よどみ無い発声方法など、全ての人々を感服させる資質を持っていた。また、アナクサゴラスの影響で、彼は迷信からも超越していたという。 ペリクレスは、若い頃、政治に全く携わらないでいた。というのも、ペリクレスは、富や有力者の知人もあり、またペイシストラトスに姿や話し振りが似ていたため、民衆から僭主の嫌疑をかけられて陶片追放にあうのを恐れたためであった。しかし、アテナイの有力者であった人々、アリステイデスが死に、テミストクレスが国外追放となり、キモンが遠征のために国外へ留め置かれると、ペリクレスは政治を担うようになる。 ペリクレスは、貴族派キモンへの対抗として民衆派となったが、常に民衆と接触することで軽く見られるのを避けるために民衆とは間を設けようとし、自らに紀律を課して、往来では自邸と評議会場に通じる道しか歩まず、食事の招待や親睦の会を全て断ったのである。ペリクレスは民衆派と言われるが、トゥキュディデスは、貴族派に属し長くペリクレスの政敵であった人であるが、ペロポネソス戦争を記した有名な著書「歴史」の中で、ペリクレスの政治

プルタルコス 「英雄伝」 サラミスの海戦とテミストクレス

テミストクレスは、古代ギリシャの人で、ペルシャ戦争におけるサラミスの海戦を勝利に導いたギリシャの政治家・軍人である。 マラトンの戦いでのペルシャ軍の敗北により、多くのギリシャ人はペルシャ戦争は最早終結したと判断していた。しかし、テミストクレスは、マラトンの戦いはその後に続く更に大きな戦いの前哨戦に過ぎないとして、一人、来る戦いを予見した。 テミストクレスは、来るペルシャとの戦いには海戦が重要になると見抜き、船の建造を画策した。そのころ、ラウレイオン銀山から出る銀の収益はアテナイ市民の間で分配される慣わしであったのだが、テミストクレスは、民会に於いてアテナイに対抗する海洋都市アイギナへの戦いを口実として、銀山の収益で三段櫂船を建造すべきだと民衆を説きふせた。こうして、十分な時間的余裕のある時期に、100隻の三段櫂船を建造して、ペルシャとの戦いに準備することができたのである。また、アテナイの民衆を訓練し、海戦にも備えた。 ペルシャ王クセルクセスがペルシャ軍を率いて進軍を開始したとき、アテナイ市民は対抗する将軍を選ぼうとしたが、有望な者がしり込みをしたため、口が達者でも性根が座らぬ民衆指導者エピキュデスが将軍の職に選ばれそうになった。この時、テミストクレスは、エピキュデスではギリシャ軍の統帥はできぬと見て、エピキュデスを金で買収して辞退させ、テミストクレス自らが統帥権を手中にしたのである。 ペルシャ王から遣わされたギリシャに降伏を促す使節を、ペルシャのような野蛮な者の命令を伝えるのにギリシャ語を以ってしたのは遺憾であるという理由で、テミストクレスは処刑してしまったという。これはギリシャで賞賛を受けることになった。こうしたペルシャ戦争にまつわる話はいくつも残っているが、ペルシャ戦争時のテミストクレスの最大の功績は、それまで互いに敵対しあっていたギリシャ人を説得して和解させギリシャ内の戦争を終結に導き、ペルシャに対して一致団結させたことであるという。 いざペルシャとの戦いが始まると、艦数で他よりも多いアテナイ軍はギリシャ連合軍の中に入って指揮を受けることを潔しとしなかった。しかし、テミストクレスは、スパルタのエウリュビアデスが指揮するギリシャ連合軍に入るようにアテナイ軍を説き伏せた。このことで、アテナイ軍は、勇気の点では敵軍に勝り、思慮分別の点では同盟軍に

プルタルコス 「英雄伝」 賢人ソロン

古代ギリシャのアテナイ(アテネ)の政治家ソロン(紀元前639年頃~紀元前550年頃)は、賢者の誉れが高く七賢人に数え上げられており、またソロンの改革によってアテナイ発展の基礎を築いたことでも有名である。 アテナイ人はサラミス島をめぐってメガラ人と長期の困難な戦いを続け疲弊した結果、サラミス島の領有を主張することを禁ずる法律を定めていた。アテナイの人々が心のうちではメガラ人との戦いを欲しながら、法律の故に戦いを躊躇しているのを知ったソロンは、アテナイ市民を鼓舞する詩を作り、広場で気が触れたような素振りをして詩を暗唱した。アテナイの政治家ペイシストラトスが、ソロンの詩に聴き従うように促したため、アテナイ市民は、かの法律を廃止してソロンを指揮者に戴いてメガラ人との戦いを再開し、サラミス島を勝ち取った。ソロンがサラミス島を占領したことについては、逸話が残されている。ソロンの計略で、女性に扮装した若い男性でメガラ人兵士を呼び寄せ皆殺しにしたのだという。サラミス島占領には他にも説がある。事前にメガラ人の船を拿捕したソロンは、メガラ人の船にアテナイ人を乗り込ませ、陸上でアテナイとメガラ人が戦っている最中にメガラ人の船を相手の国へ向かわせメガラ市を占領したのだという。プルタルコスは後者の説を取っている。 その後もアテナイ人とメガラ人との戦いは続いたので、ラケダイモン人を仲介者に立てて、調停が行われた。調停の際に、ソロンはその知略を十分に発揮し、アテナイ人に有利に調停を終わらせた。調停の結果もさることながら、調停の際にギリシャ人全体に対してデルフォイの神殿のために意見を言ったことでソロンは称賛された。ソロンの主張とは、デルフォイを援けるべきであり、キュラの人々が神託の場で乱暴を働いているのを傍観してはならない、神のためにデルフォイを援けよ、というものであった。 キュロン事件の穢れという問題がアテナイ市を騒がせていた。貴族のキュロンが権力争奪を図ったが、ことは失敗に終わった。その後、キュロンと仲間がアテナイ女神を頼りに命乞いをした際に、アルコン(最高官職)のメガクレスは、キュロンに対してアクロポリスから下って裁判を受けるようにと説得した。それに応じてキュロンたちがアクロポリスの丘から畏敬すべき女神達の祠まで降ってきた時、メガクレスと同僚のアルコンたちは、キュロンたちを祠の中

プルタルコス 「英雄伝」 立法者リュクルゴス

ローマ帝国の五賢帝時代に生きたデルフォイの最高神官プルタルコスは、ローマとギリシャの偉大な人物を対比的に描いた。リュクルゴスもその中の1人である。 古代ギリシャでアテネと並び立つ強国スパルタにおいて、政治制度や社会制度の基礎を築いたのがリュクルゴス(前700年頃~前630年)であった。リュクルゴスは、エウリュポン家の血を引いている。父王エウノモスが亡くなった後に、兄ポリュデクテスが跡を継いだが、この人もすぐに死んだので、リュクルゴスが王位に就いた。しかし、兄王の妻が身ごもっていることがわかったので、甥が生まれるとその子を王位につけてリュクルゴスは後見人として王位からは退いた。甥王を支持する者たちからねたまれることを嫌ったリュクルゴスは、争いを避けるために、甥が成長するまでは国外へ出て見聞を広げることにした。 リュクルゴスは指導者的天分と人を引っ張る力とを備えていたので、スパルタの人々は度々リュクルゴスに国へ帰るように説得した。そこでリュクルゴスは、帰国して国の政治を変革することを始めたのである。 リュクルゴスの第一の改革は、長老制の導入であった。28人の長老が選ばれ、王と大衆との政治的な力のバランスを取るように、一方では僭主が現れるのを妨げ、一方では大衆に迎合する民主制を阻むように調節機能がうまく働いた。 リュクルゴスの第二の改革は、土地の再分配であった。富の不均衡が恐るべき状態になり、無産・貧困にある大多数の者は国家の重荷となり、富める少数者の傲慢と悪意と贅沢は目に余るものとなっていた。リュクルゴスは、この貧困と富という両方の悪を国家から追い出そうとしたのである。 周辺地はペリオイコイと呼ばれるスパルタの市民権を持たない人々に与え、スパルタの町の中心部は九千に分割してそれぞれを市民に分け与えた。 リュクルゴスの不均衡と不平等を改める改革は徹底していた。動の再分配を試み、それがうまくいかないと、今度は貨幣制度を変更して貨幣の流通を不可能に近い形にした。それまであった金貨銀貨を廃止し、大きな重量と体積を持ちしかも価値の低い鉄の貨幣を導入した。しかも用心深く、鉄は酢によって化学処理が施されており、脆(もろ)くて鋳直せずが武器などに転用できないように図られていた。鉄の貨幣は流通せず、貨幣は無くなったも同然で、国外との貿易さえもできなかった。こうして

モンテスキュー 「ローマ人盛衰原因論」 

ルイ14世のフランス王制時代に生きたモンテスキューは、古代ローマの盛衰に関する歴史を持って自らの政治への姿勢を語っている。 ローマが大国へと成長することに導いた政治的制度は何であったのか、ローマの成長期に戦った国々はローマの成長にいかなる意味があったのか。 ロムルスによって作られたと伝説が語るローマは、草創期には王によって治められていた。王の地位は世襲されず、代々選ばれて王となった。 ローマは、人民や土地や女性を得るために常に近隣の民族と戦いを続けた。 最後の王となったタルクィニウスは元老院にも人民にも推薦されず王となったが、息子の不祥事で失脚したとされる。この後、ローマは、王制の危うさに気付いて政体を変え、 貴族による共和制を敷いて、任期1年の執政官(コンスル)を置いた。モンテスキューはこの政治制度改革がローマをあのような偉大な地位に押し上げた原因として 高く評価している。 王など永年に渡ってその地位にある君主は、生涯のある時期は野心的で旺盛に政治活動したとしても、ある時期には他の情熱や怠惰にさえ襲われてしまうものである。一方、任期1年の執政官はその任期中に成果を上げて次の官職を得ようと必死に政治へ情熱を傾けるし、毎年野心的な人材がその地位を占め、政治が1年と無駄に為されることはなかった。 共和制には政治的な自由が必要である。こうしたことが、ローマを強大化させる原動力の一つとなった。 ローマは商業を持たず、略奪が個々人に富をもたらす唯一といってもいい手段となった。戦利品は共有物として分配された。戦争によってしか国を維持できないローマは、 共和制に移行した後も、近隣の民族(エトルリア人、アエクイイ人、ウォルスキ人、ラテン人、ヘルニキ人、サムニウム人など)と戦い続け領土を拡大させていった。 ローマ人は、戦った相手が制度の恩恵からあれ自然の恵みからであれ有している特殊な利点を見つけると、それらの利点を自分達に取り込んでいった。ヌミディアの馬、クレタの射手、ロドスの船などである。こうして戦いながら更に強くなっていったのである。 ローマでは土地が均等分配されていたことも見過ごせない。社会には規律が生まれ、市民は祖国の防衛に強い関心を持って軍隊に参加した。モンテスキューの時代には軍隊は人口の100分の1の割合であったが、ローマでは8分の1と

ニーチェ 「道徳の系譜学」 

ニーチェは、本著に於いて、我々が行為をなす際に価値の基準となるもの、つまり道徳のことであるが、道徳という価値観を批判的に考察している。人間は認識者である。認識すること、判断すること、それらは哲学の中心的問題である。認識して判断する際に、人間が持つ価値観は重要な役割を果たす。 ニーチェの師ショーペンハウアーは、「非利己主義的なもの」、つまり同情の本能、自己否定の本能、自己犠牲など、を美化し神化したため、ショーペンハウアーにとって「非利己主義的なもの」は価値そのものとなった。このため、自分自身を見つめその中に存在する生が如何にその価値から離れた存在かをわかっていた彼は、生に対して、自己自身に対して、否と言ったのだという。しかし、ニーチェにとって、「非利己主義的なもの」による価値は、人間を自己否定へと追い込むものであり、虚無へと誘い込むものに見え、ニーチェは道徳という価値観に懐疑的である。ニーチェから見ると、道徳という価値観は疑うことなく判断の基準とされており、哲学者といえどもその呪縛から逃れられていない。ニーチェは、道徳の起源を探究することで道徳の価値という問題に迫っていく。こうした批判の裏には、道徳が否定された後に、ニーチェは新しい価値観の創造を目指そうとしているのである。 3つの論文によって、ニーチェは考察を進めていく。 第一論文: 「善と悪」と「良いと悪い」 道徳、つまり良いことと悪いことの概念、は如何にして生まれたのであろうか。ニーチェは、古代社会で支配層にいた高貴な人々、力の強い人々、高位にある人々、高邁な人々が自らの行動を肯定し、低位にある人々、卑賤な人々、心情の下劣な者たち、粗野な人々の行動との違いを第一級のものと感じ評価したことから生じたと仮説している。彼ら高位にある人々が良いことと悪いことの貴族的な価値を作り出していったのである。 しかし、ユダヤ人は、こうした「 貴族的な価値の方程式を(すなわち良い=高貴な=力強い=美しい=幸福な=神に愛された)、凄まじいまでの一貫性をもって転倒させようと試みた 」。ユダヤ人にとっては、「 惨めな者たちだけが善き者である。貧しき者、無力な者、卑しき者だけが善き者である。苦悩する者、とぼしき者、病める者、醜き者だけが敬虔なる者であり、神を信じる者である。 」これとは逆に、「 高貴な者、力をふるう

タキトゥス 「ゲルマーニア」

古代ローマ帝制期の人タキトゥス(55頃~120?)はローマの執政官(首相のような位置)まで勤めた人物で、その著書『ゲルマーニア』は、一流の歴史家でもあり一流の政治家でもあった著者が知りえたゲルマン民族の有り様を簡潔ではあるが正確な筆致で描いた著作である。『ゲルマーニア』は単なる地誌、民族誌ではない。ローマへの直接的な言及は無く、ただゲルマン人の政治・社会が記されるだけにもかかわらず、ローマの政治・社会への警鐘を記した一種の文明論として読めるのである。 当時のローマは地中海世界を統一して西はイベリア半島から東はユーフラテス河まで北はブリテン島から南は北アフリカ沿岸部までも版図に組み入れ、世界の中心的な存在となっていた。国は繁栄を謳歌し、ローマは文化の中心として頂点を極めていたが、ローマに頽廃のきざしがあるようにタキトゥスには感じられたのではないだろうか。ローマ社会は、発展拡張した時期の共和制から、大きな領土と様々な民族を治める帝制へと移行していた。タキトゥスは、共和制末期に起こったローマにおける政治的混乱や実力者同士による内乱は帝制によってしか収められなかったことを理解していたが、それでも、共和制における政治的自由を理想としていたのである。 ガリアは比較的順調に征服されローマ化が進んだのに対して、ゲルマーニアはローマを受け付けなかった。ローマの大軍がゲルマーニアへ進出して作戦が成功裏に終わったとしても、時間の経過とともにローマは跳ね返され、ゲルマーニアは元のままに戻るのである。ローマ人とは対照的に、ゲルマン民族はライン河、ドナウ河を挟んで帝国の北方に位置する蛮族とも見られがちである。しかし、タキトゥスの描くゲルマーニアを読めば、そこには、若々しくも活力に満ちた国がこれから成長せんとする国が歴然として存在することが見て取れる。活力のある国であるからこそ、世界の覇者ローマを跳ね返す力をも有しえたのであり、後代にローマ滅亡の一因にもなりえたのであろう。タキトゥスの慧眼は、ローマ最盛期という時代にあって早くもローマ滅亡とゲルマン人の影響とを予見していた。 第13章において、ゲルマン人社会において青年が初めて資格を認められて武装を許されることを描いているが、ここに於いて、 civitas (市民団体)や res pubulica (市民社会)などの言葉を使って

渡邊二郎 「構造と解釈」 構造主義と解釈学

「構造主義」と「解釈学」という考え方が、今日の代表的思想のひとつとして注目を浴びている。 構造とは、物事を成り立たせているいろいろな部分の組み合わされ方であり仕組みである。片や、解釈は、物事の意味を受けての側から理解することである。この説明には、構造という場合には何か「客観的な」仕組みが含意され、解釈といった場合には人間による「主観的」な理解が前提とされているように感じられる。 「構造」と「解釈」を別々に考えたときには、上述のように、「客観的」と「主観的」という対立が見られるのであるが、「構造と解釈」という両者の連関を考える場合には見え方が違ってくる。実際両者は密接に関連しているのである。客観的な「構造」も、人間的な主観によって発見され理解され把握されなければ意味を持たないであろうし、主観的な「解釈」もなんらかの普遍的なものの上に成り立っているのである。つまり、「構造」は「解釈」されることによって存在し、「解釈」は「構造」を理解することによって成り立つのであって、両社は密接に関連している。本書では、このような両者が連関する視点で、「構造主義」と「解釈学」とは何かを見ていくのである。 「構造主義」は第二次大戦後にフランスで起こった思想運動で、中心的な役割を果たしたレヴィ・ストロースによる構造人類学にその特徴が看取できる。構造主義は、言語学上のモデルを人類学や人間科学へと適用することで生じてきたもので、社会の中の下部構造に目を向け、要素ではなく要素間の関係を捉え、体系を把握するものである。 レヴィ・ストロースによって研究された「母方のおじ(伯父・叔父)と親族構造」は、構造主義の特徴を良く示していて興味深いものである。イギリスの社会人類学者ラドクリフ・ブラウンによって指摘されていたのだが、ある社会では「母方のおじ」は「甥」に恐れられ(この場合には甥は自分の父と親しい間柄となる)、別の社会では「母方のおじ」は「甥」から親しく振舞われる(この場合には甥は自分の父を疎遠にする)。ブラウンは、この現象を父系家族、母系家族という見方で解釈していたが、レヴィ・ストロースはこの家族関係を「父と子(親子)」、「父と母(夫婦)」「母とおじ(兄弟姉妹)」、「おじと甥」という4項関係の構造によって解釈すべきだと主張した。 「父と母」の夫婦関係が親しいときには、「父と子」の関

野矢茂樹 「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」 哲学問題の全ては解決されたのか

ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』の序文に於いて、次のように記している。 問題はその本質において最終的に解決された。 ここで「問題」と言っているのは、哲学問題の全てのことを指しており、哲学問題の全てが解決されたとウィトゲンシュタインは主張しているのである。 では、どうすれば哲学問題の全てが解決されたと主張できるのであろうか。それは、次のような論理の流れになる。「われわれはどれだけのことを考えられるか」という問いに対して、答えることができ、更に、その答えの中で哲学の全問題は思考不可能であることが明らかになったら、哲学問題は解決(解消)されたことになるというのである。 思考不可能なことは考えることはできない。しかし、「これは思考不可能だ」と言うことはできる。だが、これはナンセンスな文章である。言語の上では、有意味と無意味(ナンセンス)という言語の境界を引く事ができるというのである。 どれほどのことを考えることが出来るかという思考の限界と、どれほどのことを語りうるかという言語の限界とが一致するとウィトゲンシュタインは主張する。こうして、思考可能性の限界を画定しようとする試みがなされるのである。 ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』の序文で自ら次のように記している。 本書は思考に対して限界を引く。いや、むしろ、思考に対してではなく、思考されたことの表現に対してと言うべきだろう。というのも、思考に限界を引くにはわれわれはその限界の両側を思考できねばならない(それゆえ思考不可能なことを思考できるのでなければならない)からである。 したがって限界は言語においてのみ引かれうる。そして限界の向こう側は、ただナンセンスなのである。 本当にそのようなことができるのであろうか。本書を読んで真偽を確かめてもらいたい。 思考が言語によって語られる(画定される)というのは、非常な驚きであった。しかし、カントのカテゴリー表を見たときに文法書のようであるという印象を受けたことを思い起こすと、思考と言語は密接な関係にあるのだと感じる。 認識論を軸として考察されてきた哲学が、言語論を軸とした考察へと転換する、そういう時代にウィトゲンシュタインは生きていた。フレーゲによって開かれた言語論による哲学の扉から一歩踏み出したのはウィトゲンシュタインであった

ポール・クルーグマン 「さっさと不況を終わらせろ」

本著に於いて、クルーグマンは、2008年金融危機を端緒としたアメリカの長期経済停滞をいかに脱してあるべき経済成長へと回復させるべきかを説いている。 経済停滞は様々な苦痛をもたらすが、もっとも深刻なものが失業問題である。職が無い人は、所得が無いからだけでなく、職業に就けないことを自分の価値の低下に感じることから、非常な苦しみを強いられる。人は職業を通じて、自らの社会における存在価値を確認して生きている。だからこそ、大量の失業は、大きな悲劇である。 本人の問題でなく経済停滞が原因であったとしても、長期の失業は、職業的なスキルを低下させ、また長期に職に就いていないという理由から雇うに不適当な者と見做されてしまうこともある。特に若者の失業は深刻である。長期経済停滞で、一度も職に就けないまま、スキルを身につけることもできず、雇うに不適当な存在と見做され、これが一生続くのである。好況と不況の時期に社会に出た若者の人生を調査すると、好況の時期に社会に出たものの方が出世し経済的にも裕福な生活を送っているのである。 では、長期経済停滞の理由は何かというと、それは消費者、事業者、政府が十分なお金を使っていないことからきているのである。技術も生産能力もあるのに、需要が不足しているというのである。そして対策はというと、需要を十分に大きい規模に増やせば、社会全体は技術も生産能力も有しているので自然に回り始めるというのである。そして、需要を増やすのは政府の役目である。これは、ケインズが20世紀初頭に説いた話と同じである。 この意見に対する態度は、様々であるが、当たり前すぎて不況への解答になっていないとか、不十分な需要で世界全体が苦しむのはありえないと否定する。そもそも人々は自らの所得を何かに使わざるを得ないのであるから、需要不足が起きる筈が無いというのである。 この意見に対してクルーグマンの出した「子守り協同組合」のアナロジーは、社会経済構造の要点を的確に説明しており面白い。社会全体の心理が悪化すると需要が不足するのである。: 若い議会職員(約150組)が、ベビーシッター代を節約するために、交代でお互いの子供の面倒を見る仕組みを作ったのである。互いが公平に子守を受け持つように、クーポン制にしてあった。子守をしてもらうときにクーポンを相手に渡し、自分が子守をするとクーポン

バウムガルトナー 「カント入門講義」 『純粋理性批判』読解のために

カントの『純粋理性批判』は近代哲学の基本的な書物である。『純粋理性批判』において、カントは、人間理性の可能性と限界を探究し、新しい哲学的な尺度を与えたのだった。しかも、人間の自由の可能性の哲学的な基礎をも明らかにしている。つまり、人間は自然法則に支配されながらも、如何にして自由に行為できるかという問いへの哲学的な答えを与えているのである。 カントは、感性を通した経験に基づいた概念は経験的と呼ばれ、一方理性に起因する概念であるときに純粋と呼ばれる。つまり、『純粋理性批判』は、感性によらず、理性に起因する概念と原理を扱うのである。では批判とは何か。精選され区別されたものが、果たして正当性を持ちうるかを問うことにある。純粋理性に関する精選され区別された概念や原理が哲学的な意義を持っているか。この概念を使って、我々は理性的な行為(認識すること)をなしうるのか。また、この概念を用いてもいいのか。これらの問いを批判的に探究していくのである。 カントが『純粋理性批判』を著した時期(第1版1781年、第2版1787年)は、複雑な時代であった。啓蒙の時代と言われ、ついにはフランス革命へと至る社会的政治的な機運があった。逆に啓蒙思想に反対して、心情や敬虔さや内面的平安に重点をおいた敬虔主義の宗教的な世界もあった。コペルニクス、ガリレオ、ニュートンなどに代表される自然科学の大きな流れもあった。 この時代に、哲学に於いては、ベーコンの経験論に対してデカルトの合理論が対立していた。合理論は、デカルトが哲学を「私は考える」ということに立脚して基礎づけをして以来、スピノザ、ライプニッツへと受け継がれていった。一方ベーコンの流れを汲む経験論は、ホッブズ、ジョン・ロックを経て、ヒュームへと至っていた。 カントの『純粋理性批判』は、合理論と経験論の対立という課題と、懐疑論の課題の大きな2つの課題に対して肯定的な解答を与えた。 経験論に於いては、我々の認識は全て感性的である。それは、目や耳などの感官を通じて認識が始まるだけでなく、感官に認識が留まり続けるのである。我々が反省し熟考する全ての概念は、認識は感性的な材料に関係する限りに於いてのみ意味を持ち、感性的な材料から離れれば意味を持たなくなるという理論であった。我々の理性は知覚を認識し、ざまざまな知覚を互いに関連付けて、等しいか異

トクヴィル 「アメリカのデモクラシー」 3 連邦憲法

イギリスからの独立戦争当時、アメリカにあった植民地13州は同じ言語と宗教と習俗を持ち、1つの国家となる理由を有していた。しかし、植民地13州はそれまでに独立した存在として独立の統治を持ち独自の利害を有しており、独自性を排して堅固で完全に統合した国を作るという考えにはいずれの州でも抵抗が強かった。講和によって独立が認められた時、それぞれの植民地は独立した共和国となり完全な主権を手に入れた。このため、連邦政府は無力な存在となってしまった。第1の連邦憲法の欠陥が意識されたのだった。 そこで、連邦政府の無力を認め、第2の連邦憲法の制定の必要が宣言された。憲法制定会議にはマディソン、ハミルトン等が委員として、ワシントンが議長として参加し、長い審議の後に新しい憲法が提案された。 連邦憲法制定は、連邦の主権と州の主権とをどう扱うかという大きな困難を抱えていた。州内部の問題には州政府が自治を続け、しかも連邦政府によって国全体が一体性を失わないように、均衡をとること、これは難題であった。連邦と州のそれぞれが持つ主権をどう分割するか、憲法制定時に将来を予見して、連邦と州の権限分割を完璧に規定することは不可能であった。 州の権限に関すること、つまり国民生活に関わるあらゆる細部を予見することは不可能であった。しかし、連邦政府の権利義務であれば、単純で定義しやすいものであった。連邦は重大な一般的必要に応えるために制定されるからである。そこで、連邦政府の所管事項が丹念に規定され、この連邦政府の規定に属さないものが州政府の管轄とされた。連邦政府の権限が規定されたわけであるが、実際の運用では連邦の権限がどこまで及ぶか、つまり権限の境界がどこにあるのかは、疑問が生じることが予想され、この疑問を解決するために連邦最高裁判所が制定された。連邦最高裁判所は、連邦政府と州政府の間の権力分割を、憲法が定めた通りに維持することが権能の1つである。 連邦政府には、宣戦、講和、通商条約の締結、徴兵、艦隊の編成について排他的な権限が与えられた。社会生活に関わることは一般的に州政府に任されたが、一部、通貨に関する権限は連邦政府に任された。一般に州政府は州内部に於いて自由である。しかし、州政府がこの自由を乱用し連邦の維持を危うくするような場合には、連邦政府は州政府に介入することができた。例えば、連邦憲法は

トクヴィル 「アメリカのデモクラシー」 2 アメリカの出発点

アメリカは、社会の自然な成長をその始まりから直接に観察することのできた唯一の国である。それは、アメリカへと移住したヨーロッパ人達が様々な記録を残しているからである。トクヴィルは、アメリカ史を研究した上で、アメリカの法律、習慣などありとあらゆる物が国の出発点によって説明できないものはないと述べている。 トクヴィルの時代までに、アメリカでは南部と北部が別々に成長していた。イギリスの最初のアメリカ植民地が開かれたのは南部ヴァージニアであった。当時のヨーロッパ人は、黄金こそが国を富ませるという考えに染まっていたことも起因し、アメリカへ最初に送られた人々は黄金を探す人々であった。これらの人々は資金も規律も持たぬ人々で、こうした雰囲気がもたらした影響によってヴァージニアの成長は不確かなように見えた。その後に移ってきた人々はおとなしい製造業者や農耕民であったため、社会規律や高い理想によって国家建設が確立されることは無かった。しかもすぐに奴隷制が導入された。奴隷制こそが、南部の性格や法律やその将来全てに計り知れぬ影響を与えた決定的な要因であった。奴隷制は、労働の尊厳を汚し、社会に無為を侵入させ、無知と傲慢、貧困と奢侈をも導き入れる。 一方北部では正反対の性格を持つ社会が成長して行った。北部ニューイングランドの建設は、植民地建設という観点から見ると、全てが新しいことばかりで異例で独特なものであった。それまで開かれた植民地ではどこでも最初の住民は、貧困のため祖国で生きていけなくなった人々や、犯罪や素行の悪さから国を追われた人々で、財産も教育もないのが常であった。しかし、ニューイングランドに移住してきた人々は、祖国イギリスに於いて余裕のある中産階級に属していた。ニューイングランドに現れた社会には大領主も下層民もなく貧乏人も富豪もいなかった。この社会に属する人々はヨーロッパに於いて相当の教育を受けた人々で社会的規律も持っていた。彼らは貧困で国を出たわけではなく、イギリスでの社会的な地位や生活手段を捨てて、自らの理想を追及する場を求めて祖国イギリスを捨てたのである。彼ら(ピルグリムファーザーズ)は清教徒に属し、イギリス政府からの迫害を逃れるために、アメリカへと渡ったのである。 ニューイングランドへの最初の移民の後も、イギリスでの宗教的な圧迫はやまず、年毎に新たな移民者が続いた

トクヴィル 「アメリカのデモクラシー」 偉大なる平等の思想家

アレクシ・ド・トクヴィルは、1805年にフランス貴族の家系に生まれた政治家・政治思想家で、フランス革命やナポレオン帝政とその後に現れる王政復古など、フランス政治体制が激動に大きく波打った時代に生きた人である。貴族制から民主制へ進む時代の流れは変えられないと早い時期から認識し、民主制の時代に貴族の末裔としていかに生きるべきかを真剣に考えた人であった。 しかしながら、当時のフランスは革命によって民主政へ移行した経緯やその後の動乱の影響もあり、階層間の激しい憎しみ合いや政治的な混乱などがあって、フランス社会における民主制の先行きは不透明であった。 一方、まだ建国から数十年しか経たないアメリカは繁栄への道を着実に歩んでいた。トクヴィルは民主制の行く末はアメリカにこそ見出せると見抜き、友人ギュスターヴ・ド・ボモンとともに数ヶ月のアメリカ視察を行い、当時のアメリカ著名人のほとんどとも会談をして、まだ20代前半であったが、この名著を著した。(因みにボモンも名著を著している。) 第1巻では、アメリカの繁栄に対して、境遇の平等がいかに大きく影響しているのかをいくつもの例を挙げながら丁寧に説明している。トクヴィルは貴族制社会の中で貴族の血筋を受けた人であり、民主制を外から観察するように分析していく。 民主制がいかなるものかということを改めて認識し直したが、併せて、貴族制とはいかなるものかということも初めて分かったような気がした。  第2巻は、平等が精神にいかなる影響を与えるかということが分析される。第1巻では、アメリカ視察から帰った後の興奮が間近に感じられる位に、アメリカのことが好意的に書かれていましたが、数年後に書かれた第2巻では、アメリカ・イギリス・フランスの冷静な比較分析が行われている。 例えば、貴族は生活の心配がないから名誉を獲得できる大志を望みそれを実現することに専心する。貴族は家系こそが偉大さの源泉であり、家系の名誉を守るためには生命をも犠牲にささげる。民主制の人民は、常に生活の心配をしているから大志を抱く余裕がなく、民主制の時代には偉大な人物は現れなくなる。自分の生命が大切で、他人のことは全く気に掛けなくなる。そういった比較分析がなされている。 第1巻は読んでいて楽しく大変面白いが、第2巻は地味ではあるが、深く考えさせられる内容に満ち溢れて

オルテガ 「大衆の反逆」 

オルテガは、ヨーロッパ社会で大衆が完全に社会的権力の座についている事実を指摘した上で、大衆は自分自身を指導することもできず、まして社会を支配することなど到底無理であるのだから、この事実は社会が危機に見舞われていることを意味していると警告している。 オルテガは、大衆という言葉を「平均人」という意味で使っており、今の社会に生きるほとんど全ての人はこの部類に含まれてしまうと思う。オルテガは社会を構成する人々を優れた少数者と大衆とに分けて考えている。優れた少数者は自らに多くのことを課して困難や義務を負う人々であるのに対して、大衆は自らに特別なことは課さず、与えられた生をただ保持するだけで自己完成の努力をしない人々である。これは、貴族と平民という分け方とも異なっている。 世が大衆化するまでは、政治は優れた少数者によって舵取りがなされてきた。しかし、大衆化した世界では大衆が政治の座にもついているのである。しかも、自ら社会を支配することは無理だというのにである。 大衆とは何者であろうか。オルテガは、大衆の典型を近代の知識人の代表である科学者に見るのである。 科学者は大衆人の典型ということになるのだが、それは偶然のせいでもなければ、めいめいの科学者の個人的欠陥によるものでもなく、科学、それは近代文明の基盤であるが、そのものが、科学者を自動的に大衆に変えていくのだという。 科学者は近代の原始人、近代の野蛮人になってしまっている。 ガリレオなどの数世紀前の科学者は別として、近代の科学者は、良識ある人間になるために知っておくべきことのうち、ただ一つの特定科学を知っているだけで、しかもその科学についても、自分が実際に研究している分野にしか通じていない。 近代は科学によって物質的な豊かさを実現したが、同じ科学によって人が大衆化されてしまったのだという。 「大衆の反逆」 白水社 ホセ・オルテガ・イガセット著 桑名一博訳

大野晋 「古典基礎語の世界 源氏物語もののあはれ」

源氏物語を読むことは日本文化を愛するものにとって憧れであるが、原文で読むのは研究者にとっても難しいものである。古典語には未だに言葉の意味がわからないものも数多くある。中には、紫式部がその言葉に込めた重要な意味を、研究者といえども捉えきれずに見過ごしてきたものもあるという。本著では、「モノ」という言葉を深く掘り下げているが、研究者達に見過ごされてきた言葉の一つである。 「モノ」というと現代語では「物体」のことを指して使われる。これとは異なる用法として、「彼はモノの分からない人だ。」という例があげられる。これは、「世間の道理が分からない人」ということを意味しているが、実は古典の世界で「モノ」は「物体」とは異なる意味で使われるのである。 古典の世界で、「モノ」は個人の力では変えることのできない「不可変性」を核とした意味をもつのである。著者は「不可変性」に由来する意味を次の(1)~(4)の4つに分類している。  (1)世間のきまり  (2)儀式、行事  (3)運命、動かしがたい事実・成り行き  (4)存在  (5)怨霊(おんりょう) これらの「モノ」の解釈は、「モノ」と組み合わされた複合語(例えば、「もののあわれ」など)の理解に重要な役割を果たす。なお、(5)怨霊は、(1)から(4)までの意味と由来が全く異なる見られている。 例えば、「もののあはれ」という複合語は、本居宣長以来、殊に大切な言葉だとされてきた。 まずは、言葉の元となる「あはれ」という言葉を見ると、次のように多くの意味を持っている。  (A)心に愛着を感じるさま。いとおしく思うさま。親愛の気持ち。  (B)しみじみとした風情のあるさま。情趣の深いさま。嘆賞すべきさま。  (C)しみじみと感慨深いさま。感無量のさま。  (D)気の毒なさま。同情すべきさま。哀憐(あいれん)。思いやりのあるさま。思いやりの心。  (E)もの悲しいさま。さびしいさま。悲しい気持ち。悲哀。  (F)はかなく無常なさま。無常のことわり。  (G)(神仏などの)貴いさま。ありがたいさま。  (H)殊勝なさま。感心なさま。 このように多くの意味があるのは、この言葉が現れた文章のその場その場の訳を並べてあるからで、「あはれ」という言葉の底を貫く意味があるはずだという。源氏物語で実際に使われて

小林秀雄 「考えるヒント2」 歴史

小林秀雄は、歴史を繰り返し取り上げている。一体、歴史とは何であろうか。著者にとっての歴史とは、人間の出来事の記録、記憶であるように思われる。 人間の歴史は、自然界で生じた事象、例えば地層や化石など、とはまったく別物である。両者は切り離すことはできないが、基本的には別物であるという。歴史は、人間に本質的なものである。人間はその精神世界に歴史という人類全体の遺産を受け継いで生きている。人間にとって意味があって初めて自然は人間と関わりを持ってくる。 私達の歴史に対する興味は、歴史の事実なり、歴史の事件なりのどうにもならない個性に結ばれている。(p.179) 何故であろうか。 過去は過去のまま現在のうちに生きているという、心理的事実に根を下ろしている。 我々は信長という人を歴史資料によって、生き生きとした人物として蘇らせることができる。それは、我々の中に歴史として根を下ろしたものがあって、想像したり共感したりできるのだろう。 荻生徂徠の言葉が繰り返される。 「学問は歴史に極まり候事に候」 歴史を、表面的にしか、つまり過去の客観的な記述あるいは科学的な事実というような浅薄な考えで捉えていたことに気づかされた。歴史とは何かということに結論が出せたわけではないが、少なくとも、自分の表面的な認識では、人間という複雑な存在を捉えきれないということに驚かされた。 「考えるヒント2」 文春文庫 小林秀雄著

ポール・ヴァレリー 「精神の危機」 

ヨーロッパは、ローマ帝国、キリスト教、ギリシャ文化の3つの大きな影響を受けている。ローマ帝国は、制度や法律を整備し、組織化された政治的権力機構を確立した。キリスト教によって、精神世界に大きな影響を与えられた。つまり主観的道徳観がもたらされた。ギリシャ文化には、精神の規律、つまり、あらゆる分野で完璧を追究した並外れた精神性合理性の影響を受けている。こうしてみると、ヨーロッパという概念に人々を一つに統合するものは、人種や言語や国籍といったものを超えた特徴によっていることがわかる。それは、他の地域の文明とは一線を画するものである。 その偉大なるヨーロッパ文明の一翼を担っていた者、偉大さを理解していた者、文明を築くのに気が遠くなるような年月と努力と偶然とが必要なことを理解している者、それら知識人にとって、ヨーロッパ自らが第1次世界大戦をもたらし、自らの社会を壊滅させるという野蛮な行為に至ったという事実は信じがたいことであった。これほどの文明にしても、過去の文明と同じく滅亡への道を歩かねばならないのか。これほどの文明と信じていたが、これほど未開の者のように振舞う野蛮な者であったのか。 我々文明なるものは、今や、すべて滅びる運命にあることを知っている。 ヨーロッパ文明が生み出した世界大戦は、機械的なものであった。それは、人といえども資源として扱われ、国家が持ちうる資源を総動員した国家間の総力戦となった。如何に相手よりも資源を有し、それらを有効活用できるかが問題であった。人は、軍人も哲学者も市井の人も学生も同じ人的資源として扱われ、戦線へと投入されていった。戦争を何故戦うのかという精神性を失い、戦争は持ちうる資源を使い尽くすまで機械的に戦われるものとなった。人間が生み出した文明という機械が人間を資源として消耗しながら互いに戦いあう世界、まさにそのような驚愕の現実が現れたのであった。文明の動きの中枢に精神性が失われたこと、これが一番の衝撃だったのではないだろうか。まさに精神の危機に陥ってしまったのである。文明の中で、精神とその他一切の活動は切り離され勝ちであった。 そこには問いかけしか与えられていない。文明の活動において唯物的な考え方が支配的であり、物質的なものだけが対象となり精神的なものは物質の影のように扱われる世界において、精神の危機は続いており、我々

岡倉覚三 「茶の本」 不完全なものを崇拝すること

岡倉覚三(岡倉天心)は、東京美術学校の設立に深く関わり、また、日本美術院を創設した、明治期日本における美術の開拓者である。岡倉天心は、英文によって美術評論を発表している。本書は、岡倉天心が英語で書いた"The book of tea"を村岡博が訳したものであり、茶会のことに触れながら人道を語り、老荘思想を説き、その筆は芸術鑑賞にまで広く及ぶのである。 茶には不思議な魅力があって、人はこの味を愛さずにはいられない。しかし、真に茶を愛でるには、深い精神性が必要なのである。古代中国において茶は薬用飲料として知られていたが、茶が粗野な状態から洗練された域へと達するには、唐の時代精神を必要とした。8世紀に出た陸羽という人が茶道を開いたという。この当時の唐朝では、仏教、道教、儒教の考えが社会に溢れていて、汎神論的な物の見方が支配的であった。「 詩人陸羽は、茶の湯に万有を支配していると同一の調和と秩序を認めた。 」このようにして、陸羽は著書「茶経」に於いて茶道を体系立てたのである。 宋代には抹茶が流行し、新しい茶の流派が生まれたが、茶道として確立するには、道教や禅宗の教えを必要とした。その思想の真に肝要なる事は、完成することであって、完成したものではないという思想である。宋代の流派は、モンゴル帝国による侵略で中国では失われてしまったが、日本に受け継がれていく。 茶は、南宋へ禅を学びに行った栄西禅師によって1191年日本へと伝えられた。禅とともに茶の儀式も日本中へと広がっていく。中国ではモンゴル襲来で、茶道を追究する文化運動は中断していたが、日本において継続発展された。茶は単なる飲む形式の理想化という枠を超え、生きる術に関する精神性を追究する道となった。 岡倉は茶道の奥義を「不完全なもの」を崇拝することだと言い切っている。 茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。 「不完全なもの」とは何であろうか。茶会に於いて、参加者たちによって何か完全に近いものを成就しようと試みられることのようである。道教に於いては、「完全そのもの」ではなく、完全を求める過程に重きをおいている。例えば次のようなことを考えてみる。茶道に於いて「完全そのもの」を目