投稿

2月, 2007の投稿を表示しています

魔の山 23 人物の死 ペーペルコルン氏 3

ハンス・カストルプとペーペルコルン、ショーシャ、その他4人は瀑布への遠足を計画した。訪れた瀑布は、夥しい量の水が轟音と共に流れ落ち、霧が吹き、飛沫が舞い、水煙につつまれ、一行は恐怖を覚えるほどであった。瀑布の傍にいると轟音のために、自分自身の声でさえ耳に聞こえないほどであった。そんな中で、ペーペルコルンは立ち上がると、誰にも聞こえない声で何か話し始めた。 不思議な男!彼自身さえ自分の声を聞くことはできなかったのだから、彼のしゃべっている聞こえない言葉がまわりの人々に一言もわかるはずがなかった。(下巻p484) 彼は、何を語りかけたのだろうか。友へのさよなら。この世へのさよなら。 その日の夜であった。ハンス・カストルプは眠りが浅く、いつもと違う気配、ざわめきのようなものを感じていた。午前二時を過ぎた頃、彼の部屋をノックする音が聞こえ、彼はペーペルコルンの部屋へと案内された。ペーペルコルンが自殺をしていたのだった。 自らの力の減退と感情の減退を知り絶望して、自らを死に至らしめたのだった。 「人生への感情の減退を、宇宙の終局、神の汚辱と感じるほどのスケールを持つ人物でした。つまり、彼は自分を神が合歓するための器官だと考えていたのです、あなた。王者らしい妄想でした。‥‥いまの僕のように感動してしまうと、不作法で不謹慎に聞こえても世間なみの悔みの言葉よりも荘重な言葉を口にする勇気が出るものです」 「彼ハ棄権シタノデス」と彼女はいった。(下巻p492) 如何に人物といえども終わりの時が訪れることから免れ得なかった。人物よ、さよなら。 「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳

魔の山 22 人物 ペーペルコルン氏 2

セテムブリーニやナフタが立派な理論を口にしたとしても、それは頭の中で考えただけのものだった、しかし、ペーペルコルンはすべてを、そして神をも、感じて生きていた、そこに人物としての大きさがあった。 「私はくりかえしていいます、だから私たちは感情燃焼の義務、宗教的義務を持っているのです。私たちの感情は、いいですか、生命を目ざます男性的な力です。生命はまどろんでいます。生命は目ざまされて、神聖な感情と陶酔的な結婚を結びたがっています。感情は、若い方、神聖です。人間は感じるから神聖なんです。人間は神の感情の器官です。神は人間によって感じようとして人間をつくりました。人間は、神が目ざまされ陶酔した生命と結婚するための器官にほかならないのです。人間が感情的に無力でしたら、神の屈辱がはじまり、神の男性的な力の敗北、宇宙のおわり、想像を絶する恐怖になりますーー。」(下巻p452) 実は後でわかるのだが、ペーペルコルンは最初の晩にハンス・カストルプがペーペルコルン同様にショーシャ夫人を愛していることを見抜いていた。 「ーー 完全。失礼ですがーーいや、なにもつけ加えますまい。どうぞ私と飲んでください、グラスを底まで飲みほしてください、腕を組みあってです。これはあなたに 兄弟として『あなた』と呼び合うことを提案するのではまだありません、ーーそれを提案するところだったのですが、まだ少し性急すぎはしないかと考えたんで す。」(下巻p385) しばらく経ったとき、ペーペルコルンは、ハンス・カストルプがショーシャと会うときのぎこちなさを指摘し、ハンス・カストルプがショーシャを愛していることを指摘した。ハンス・カストルプは彼女への思いを次のように説明した。 「僕がさきほどもちょっとふれました教育的牽制をふりきって、彼女に近づいた夜、ーーまえから頭にちらつきがちであった口実でーー近づいた夜は、仮装舞踏会の夜、カーニヴァルの夜、責任から解放された夜、『君』と呼びあう夜だったのですが、夜がふけるにつれてこの『君』という呼び方が夢幻的な無責任な深まりようをして完全な意味を持つようになってしまったからです。しかし、その夜はクラウディアが出発する前夜でもあったのです」(下巻p460) 魔の山で数年を過ごし、経験を積んで成長していたハンス・カストルプのことを、ペーペルコルンは男として認めてくれ

魔の山 21 人物 ペーペルコルン氏

ベルクホーフに、マダム・ショーシャが戻ってきた。ピーター・ペーペルコルンというオランダの実業家と一緒であった。ペーペルコルンは、インドネシアのコーヒー事業で成功した実業家らしいということであった。 ペーペルコルンは、ハンス・カストルプの周囲にいた精神的な人達セテムブリーニとナフタとは違う次元で生きている「人物」であった。論理的でも言語明晰でもないが、印象強く、人間的に大きな人物、王者的人物、魁偉な人物とも言えるのであった。ペーペルコルンの「人物」については、ハンス・カストルプだけでなく周囲にいるすべての人が感じ、畏怖の念を持った。 ペーペルコルンの話し方は断片的で意味も雨量蒙昧としているのだが、相手に大きな印象を与えた。 「あなた」とペーペルコルンはいった、「ーーだんぜん。いや失礼ですが、ーーだんぜん!今晩こうしてあなたとお近づきになれて、ーー信頼できる若いあなたとお近づきにーー、私は意識して、あなた、全力を傾けてお近づきになるのです。私はあなたが気に入りました、あなた、私はーーそうです!決着。あなたは私の気持ちをとらえました」(下巻p376) 「旧約聖書的」なスケールを持っている、まことに言い得て妙の表現である。 「世の終わり」ーーこの言葉はペーペルコルンになんと似つかわしかったことだろう!ハンス・カストルプは、宗教の時間のほかにはその言葉をだれかが口にするのをきいたおぼえがなかったが、これは偶然ではないと、考えた。彼が知っていたすべての人たちのなかで、だれがこの霹靂のような言葉を口にする資格があったろうか、ーー正しくいえば、だれがそれだけのスケールを持っていたろうか?小男のナフタはそれを口にすることがあったであろうが、彼の場合はそれは借りもので、辛辣なおしゃべりにすぎなかったのに反して、ペーペルコルンが口にすると、その霹靂の言葉は粉砕的で、最後の審判の日のラッパの音に取りまかれたような重み、一言でいうと、旧約聖書的な大きさをおびた。「ああーー人物だ」と、ハンス・カストルプは百度も感じたことをふたたび感じた。(下巻p387) ペーペルコルンの前では、セテムブリーニもナフタも色あせてしまうのだった。それを感じたことは、ハンス・カストルプの成長をも意味していたのではないか。セテムブリーニが象徴している知恵でもなく、ナフタが象徴している宗教でもな

魔の山 20 兵士の死

ベルクホーフに舞い戻ってきたヨーアヒムは、医師や療養者たちから暖かな気持ちを持って迎えられた。ヨーアヒムは、そのさっぱりとして、礼儀正しく几帳面で、誰にでも優しい性格から好かれていたのであった。 療養を続けていたヨーアヒムは、喉の痛みを訴えるようになってきた。ハンス・カストルプは、従兄のことが心配でベーレンス医師に問うのであるが、答は厳しいものだった。もうヨーアヒムは助かる見こみのない状態になっていた。 「彼はすべてを察しています。彼は口には出さずにすべてを察しています。おわかりですか?彼は人さまの袖にしがみついて、気やすめやなんでもないことやらを、いってもらおうとはしません。彼は平地へ帰ったことによって、なにをなし、なにを賭けたかを知っていました。彼は取りみださずに口をつぐんでいられる人物で、これこそ男らしい態度ですが、あなたのような妥協的な八方美人には、ざんねんながら真似のできない芸当です。」(下巻p321) うすすす気が付いていたハンス・カストルプは、ベーレンスの言葉で、はっきりと状況を認識し、自分へ言い聞かせ、ヨーアヒムへの愛から取り乱さず冷静な態度で最後の時を過ごすことに決心を固めた。 同じようにヨーアヒム自身も冷静に自分の死を捉えていた。彼の最後の日々がどのようにあったかを簡潔な文章が描いている。 私たちが生きているあいだは死は私たちにとって存在しないし、死んでしまえば私たちが存在しないのだから、私たちと死とのあいだには実際的なつながりはすこしもなく、死は私たちにとってだいたいなにも関係のない現象で、せいぜい宇宙と自然とにいくぶんかかわりがあるといえるだけである。ーーだから、あらゆる生きものは死をきわめて無関心な平静な無責任な利己的な無邪気な気持ちでながめているのである、とある機知に富む賢人はいったが、その言葉を引用できる人でもできない人でも、とにかくこの言葉が人間の気持ちにとって百パーセントの正しさを持っていることはみとめなくてはならない。ハンス・カストルプは、この何週間かのあいだにヨーアヒムの態度に人間のこの無邪気さと無責任さとを多分に感じた。そして、ヨーアヒムが死の近いことを知りつつも、それについてけなげに黙りつづけていることに耐えられるのは、彼にとって死ぬことが切迫した考えてはなくて観念的な考えであるためか、もしくは、実感とし

魔の山 19 雪の中の真理

ダヴォスに冬が訪れていた。あたりは大量の雪で覆われた世界に変わった。ハンス・カストルプは雪の中で「一人きりになって瞑想し」たいという願いから、スキーを始めた。 冬山は美しかった。しかし、ただ美しいだけではなく、底知れぬ厳しさや怖ろしさを秘めていた。 冬山のふところは美しかった、ーーおだやかななごやかな美しさではなく、強い西風に荒れくるう北海の美しさと同じであった。咆哮せずに死んだように静かであったが、北海とすこしもちがわない畏敬の気持を呼びさました。(下巻p226) ハンス・カストルプは、文明人であったがために、いっそう強く自然への畏敬の念を感じた。 いや、底の知れないふかい沈黙につつまれた世界は、にこりともせず、訪れる者の責任と危険を分担してくれようともせず、訪問者をほんとうは受け入れ迎え入れるのではなく、彼がはいりこんできて立ちどまっているのを、気味のわるい突きはなした態度で黙殺しているのであって、無言でおびやかす原始的なもの、敵意すら持たない、むしろ無関心な危険なものという気持が、まわりの世界から感じられる気持であった。生まれつき野性的な自然に遠く、関係のすくない文明の子は、子供のときから自然からはなれたことがない、なれっこになった気がるさで自然と一しょに生活している自然の子よりも、自然の大きさにずっと敏感である。文明の子が眉を引きあげて自然のまえに歩みでる宗教的な畏怖の気持ちは、自然の子がほとんど知らない気持ちであるが、この畏怖は、文明の子の自然にたいする全感情の基調になっていて、消えることのない敬虔な震駭とおびえた興奮を心に持ちつづけさせるのである。(下巻p227) 自然への恐れを感じつつ、無鉄砲にも恐怖心をわざと振り切って、ハンス・カストルプは冬山の奥深いところへと進んでいく。それは、そこにある自然が、彼の思想的な考察を解決するのに相応しい思索の場となるような予感があったからである。 彼は、セテムブリーニのことを考える。 ああ、理性(ragione)と叛逆(ribellione)の教育者的悪魔め、とハンス・カストルプは考えた。しかし、僕は君が好きだ。君に弁舌家で手まわしオルガンひきだが、君には善意がある。君はあの鋭い小男のイエズス会士とテロリスト、眼鏡の玉がきらめくスペインの拷問吏と鞭刑吏よりも善意があって、僕は君のほうが好きだ。