魔の山 21 人物 ペーペルコルン氏

ベルクホーフに、マダム・ショーシャが戻ってきた。ピーター・ペーペルコルンというオランダの実業家と一緒であった。ペーペルコルンは、インドネシアのコーヒー事業で成功した実業家らしいということであった。

ペーペルコルンは、ハンス・カストルプの周囲にいた精神的な人達セテムブリーニとナフタとは違う次元で生きている「人物」であった。論理的でも言語明晰でもないが、印象強く、人間的に大きな人物、王者的人物、魁偉な人物とも言えるのであった。ペーペルコルンの「人物」については、ハンス・カストルプだけでなく周囲にいるすべての人が感じ、畏怖の念を持った。

ペーペルコルンの話し方は断片的で意味も雨量蒙昧としているのだが、相手に大きな印象を与えた。
「あなた」とペーペルコルンはいった、「ーーだんぜん。いや失礼ですが、ーーだんぜん!今晩こうしてあなたとお近づきになれて、ーー信頼できる若いあなたとお近づきにーー、私は意識して、あなた、全力を傾けてお近づきになるのです。私はあなたが気に入りました、あなた、私はーーそうです!決着。あなたは私の気持ちをとらえました」(下巻p376)
「旧約聖書的」なスケールを持っている、まことに言い得て妙の表現である。

「世の終わり」ーーこの言葉はペーペルコルンになんと似つかわしかったことだろう!ハンス・カストルプは、宗教の時間のほかにはその言葉をだれかが口にするのをきいたおぼえがなかったが、これは偶然ではないと、考えた。彼が知っていたすべての人たちのなかで、だれがこの霹靂のような言葉を口にする資格があったろうか、ーー正しくいえば、だれがそれだけのスケールを持っていたろうか?小男のナフタはそれを口にすることがあったであろうが、彼の場合はそれは借りもので、辛辣なおしゃべりにすぎなかったのに反して、ペーペルコルンが口にすると、その霹靂の言葉は粉砕的で、最後の審判の日のラッパの音に取りまかれたような重み、一言でいうと、旧約聖書的な大きさをおびた。「ああーー人物だ」と、ハンス・カストルプは百度も感じたことをふたたび感じた。(下巻p387)

ペーペルコルンの前では、セテムブリーニもナフタも色あせてしまうのだった。それを感じたことは、ハンス・カストルプの成長をも意味していたのではないか。セテムブリーニが象徴している知恵でもなく、ナフタが象徴している宗教でもなく、如何に人生を真剣に生きているかが人間を決めているのである。それをカストルプ青年は体で感じることができた。

二人がほとんど二人だけで議論を引きうけ、二人の議論がつづいているあいだ、そこにいる「人物」はいわば中和され、額の皺を引きあげて驚嘆したり、不明瞭な嘲笑的な尻切れとんぼの言葉をつぶやいたりしていた。しかし、そういう場合にも、「人物」は圧力を感じさせ、議論をかげらせ、議論からかがやきをうばうようにみえ、議論をなんとなく空虚にし、ペーペルコルン自身は意識していなかったにちがいないが、それとも、どの程度まで意識していたかは知らないが、ほかのだれもが感じたように、論争する二人のどちらの主張にとってもありがたくない空気がかもしだされて、その空気のために議論は決定的な重要さを感じさせなくなり、いや、議論はーーいうのがためらわれるがーーむだ話という感じを持ちはじめるのであった。(下巻p422)

ショーシャ夫人と常に一緒にいるということで、ハンス・カストルプはペーペルコルンに嫉妬を感じつつも、彼の人物の大きさに惹かれていく。


「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳




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