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フィネガンズ・ウェイク 2 川走

読んでいると果てしなく続くように感じられる、この物語の始まりはこうなっている。 川走、イブとアダム礼盃亭を過ぎ、く寝る岸辺から輪ん曲する湾へ、今も度失せぬ巡り路を媚行し、巡り戻るは栄地四囲委蛇たるホウス城とその周円。(1巻p19) 文章の意味が取れないのだが、並んでいる言葉を眺めていると何かしら風景が感じられる。「イブとアダム」や「川」や「巡り戻る」は、人間の歴史をイメージさせるし、「川」や「湾」からは曲がりくねった川が流れ込む湾という実際の風景が浮かんでくる。 川は、多分、アイルランドのダブリンを流れるリフィ河であろう。何回もリフィの名が出てくる。リフィはアイルランド人にとっての象徴的な川で、ジョイスにとっても大切な存在であろう。 「イブとアダム」ここから物語は始まる。 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

フィネガンズ・ウェイク 1

「ユリシーズ」や「ダブリン市民」で知られるジェイムズ・ジョイスの作品。難解で翻訳は出来ないのではないかと言われていたものを柳瀬氏が日本語訳を実現し、世の中を驚かせた。 実際、読み始めてみるとさっぱりわからない。文章や文脈から描かれている物語の形を読みとれないのである。本当は物語はそこにあるはずである。 しかし、不思議なことに顕微鏡的に文章の中の言葉一つ一つをじっくりとながめていくと、そこには言葉遊びや歴史からの引用に満ちた小世界が現れてくる。これが読んでいて楽しい。多分全ての言葉は何らかの意味を持っていて、二重三重に重なった意味を持つものもあると思う。その意味を考えながら文章を辿っていくのである。 木を見て森を見ず。言葉が強烈な印象で目に飛び込んでくるが為に、物語を読みとれずにいる。しかし、言葉一つ一つを楽しみながら、まずは一通り読んでみようと思う。 難解で不思議な本、言葉が好きな人々を魅力的な力で惹き寄せる本。 「フィネガンズ・ウェイク」 河出文庫 ジェイムズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳

魔の山 28 魔の山からの帰還

ハンス・カストルプは、魔の山に7年間滞在した。地上の人々や生活から離れ、世界から離れていた彼が目覚めたのであった。世界大戦が勃発した。 そのときに天地はとどろきわたった(下巻p637) ハンス・カストルプは、生をあきらめ遠ざかっていたのではなかった。大戦のことを聞くと、身の回りの物をバッグに詰め込み、ぎゅうぎゅうに混雑する列車に飛び乗って下界へと旅立った。 世界大戦のことは何も語られない。ただ、ハンス・カストルプが学徒動員された若者達と共に砲弾の降る中を行軍し、泥に倒れる様が少し描かれているだけである。 そして、彼は混乱のなかへ、雨のなかへ、黄昏のなかへ、私たちの目から消えていった。(下巻p648) 最後に著者はこう語る。 君の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、君は肉体の世界ではほとんど経験できないことを、精神の世界で経験することができた。君は、「陣とり」によって、死と肉体の放縦のなかから、愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を経験した。世界の死の乱舞のなかからも、まわりの雨まじりの夕空を焦がしている陰惨なヒステリックな焔のなかからも、いつか愛が誕生するだろうか?(下巻p649) こうして長い物語は幕を閉じる。 「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳

魔の山 27 ヒステリー

第1次世界大戦前夜という世の背景をベルクホーフでも免れえず、下の世界と同様に、患者達もヒステリックな精神状態へと落ち込んでいった。 凄絶なのはセテムブリーニとナフタまでが争い、それが決闘へと進展し、ついには決闘の最中にナフタが自分の頭を銃で撃ち抜いて死んでしまうという事件までが起こってしまった。世の理屈を口にして暮らしていた人々までもがヒステリーになっていた。 「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳

魔の山 26 うさんなこと

医師の一人エドヒン・クロコフスキーは、ベルクホーフ内で2週に1回講演を行っていた、その講演が次第に神秘的な現象へと傾いていった。意識下の不思議な現象、読心術、正夢、千里眼、ヒステリーなどを扱い始めた。ベルクホーフの聴衆には、「生命の謎を解明するには、健康な道から近づくよりも、不気味きわまる、病的な道から近づくほうが有望のように思われた。‥‥」 神秘的な現象への関心は、患者達にも蔓延していった。降霊術までもが試された。ブラント嬢という少女に不思議な能力があると噂され、患者達でアマチュアの実験が行われ、とうとうクロコフスキーによる「科学的な」実験にまで進展した。 ブラント嬢のまとりにいるとされるホイゲルという霊を通じて、あの世の誰を呼び出そうという実験が行われ、ハンス・カストルプの申し出で、ヨーアヒムを呼び出すことになった。長い息詰まるような時間が過ぎ、部屋の片隅にヨーアヒムのような人影が現れたのであった。それは本当にヨーアヒムであったのか、あるいは違う人物がヨーアヒムの振りをしていたのか、それは物語中では明確には語られていない。しかし、この章の表題は「うさんなこと」である。 ハンス・カストルプは、雪の中での真理の発見や、人物ペーペルコルンとの出会いを通じて、精神的な成長を遂げていたため、こういう「うさんなこと」に直面しても、闇の領域へ捕らわれてしまうことはなかった。「うさんなこと」で象徴されているのも死の世界である。死には人を惹きつけて離さない力があり、克己心が無い者はその力に捕らわれてしまう。 「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳

魔の山 25 音楽

ベルクホーフに蓄音機が来た。ハンス・カストルプはレコードの虜となって聞き始めた。 彼は、楽音のとりことなった。彼の愛した音楽は、ヴェルディの歌劇「アイーダ」、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ビゼーの歌劇「カルメン」、グノーの歌劇「ファウスト」、そしてシューベルトの「菩提樹の歌」であった。 「菩提樹の歌」は、彼にとって大きな意味を持つ存在であった。 彼にとって菩提樹の歌は「意義」を持ち、一世界を意味していて、彼はその世界をも愛していたにちがいなかった。その世界を愛していなかったら、その世界を代表し象徴している歌にあのようにぞっこんではなかったろう。その歌がまことにこまやかに神秘に包括している感情の世界、ひろい意味の精神的態度の魅力にたいして、彼の気持ちがとりこになるまでに熟していなかったら、彼の運命は現在とはちがったものになっていただろう、と私たちはーーたぶんいくぶん謎めいたことをーーつけ加えるが、私たちはいいかげんなことをいっているのではない。現在の彼の運命は、彼の精神を向上させ、冒険と認識とをもたらし、彼の心に陣取りの諸問題を提起し、それによって彼は、あの歌の象徴する世界、その世界をもちろん驚嘆するほどみごとに象徴している歌、その歌にたいする愛情に、懐疑的な批判をむけ、その世界と歌と愛情の三つを良心的な懐疑をもってながめうるまでになっていた。(下巻p537) 菩提樹の歌が象徴しているのは何だろうか。 「菩提樹の歌」の背後にある世界は、彼の良心の予感によれば、禁断の愛情の世界であったが、その世界はどういう世界であったろうか? それは死の世界であった。(下巻p538) 死は人を惹きつける力を持つが故に、克己によって克服すべき対象なのである。 「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳

魔の山 24 無感覚という名の悪魔

ペーペルコルンがこの世を去り、その死に打ちひしがれたショーシャが魔の山を去り、ハンス・カストルプは無感覚に陥ってしまった。 彼自身がそういう沈滞状態に落ちこんでいただけではなく、彼にはこの世すべてが、「全体」が、同じスランプ状態に落ち込んでいるように感じられた、というよりも、このことで個人の場合と一般の場合とを切りはなして考えることが困難であるように思われた。(下巻p497) この時代、第1次世界大戦前のヨーロッパも彼と同じようなに落ち込んでいたのだった。この場面でのハンス・カストルプは、当時のヨーロッパの象徴の役割を演じている。 ベルクホーフでは、アマチュア写真に始まり、郵便切手蒐集、チョコレート、数学が流行した。世の中のことに無関心になり、個人的なことにしか興味を持てなくなっているベルクホーフの人々も、また、当時の人々の代表でもある。 ハンス・カストルプはというと、この世を動かしている何か大きな時代の流れを感じていて、その不気味な動きに恐怖を感じていた。 この転回点から、ハンス・カストルプにはこの世と人生が異様に感じられ、日ごとにグロテスクな歪んだ気がかりな状態になって行くように思われたのであった。つまり、これまでも不吉な気ちがいじみた影響を長らく深刻におよぼしていた悪魔が、ついに権力を掌握して、傲然と公然と天下に号令し、神秘な恐怖を呼びさまし、浮き足立たせるのであった、ーーその悪魔、それは無感覚という名の悪魔であった。(下巻p497) 著者は、無感覚を悪魔と呼んでいる。読者に対して著者が語りかけている。この世や人生に対して無感覚であること、それは怖ろしいことで、神秘的な恐怖をも感じさせる位に大変なことであると。現代社会でも同じことが起きているのではないか。 「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳