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アルビン・トフラー 「第三の波」 

現在、世界では長期に渡って社会構造(産業、政治、家庭にいたるまであらゆる構造)を変革する大変動が起こっている。それは、農業によってもたらされた農業文明、産業革命によってもたらされた産業文明に匹敵する新しい文明の創造であるとトフラーは言う。 農業文明、産業文明をそれぞれ第一の波、第二の波と呼び、現在創造されつつある新しい文明を第三の波と呼んでいる。新しい文明の波が社会へと押し寄せ、社会構造は根本から造りかえられる、そういう比喩的な視点での説明が与えられる。勿論、人類の歴史をそういう大雑把な括りによって説明することには無理があるだろうが、現在起こりつつある社会の大変動を長期的な視点で見るとき、この波のイメージは我々に明快な説明を与えてくれると思う。本書は、読者がこの大変動の真っ只中で様々な矛盾に満ちた激しい経験をする時、雑多で全く関係ないと見える事象に貫かれた大きな流れを読者へ見せてくれる。本書は、大変動の行く末や結論を与えてはくれないが、大変動を如何に見るべきかという視座を与えてくれるのである。 産業文明は1650年~1750年頃に始まりを見せ、それまで支配的であった農業文明と入れ替わった。産業文明が始まったとはいえ、農業文明によって特徴付けられる社会が無くなったわけではないし、農業文明以前の社会に生きる人々(アマゾンの奥地など)もいないわけでもない。しかし、波という比喩はわかりやすいイメージを与えてくれる。いくつもの波が1つの社会に押し寄せてきてもいいわけである。いずれの波が支配的かが問題であって、排他的に波が存在するわけではない。 第二の波の産業主義は、農業文明にある社会との間で長期に渡る苛酷な軋轢を引き起こした。それまでの農村が主体の社会は崩壊して、工場が集積する大都市へと人は流れ込み新しい都市型の社会が形成された。第二の波は、第一の波の社会を徹底的に破壊して新しい構造を造りなおしたといってもいいだろう。それは、政治制度、産業構造、家庭にいたるまで全ての分野に及んだ。 経済的な面を見てみる。トフラーは、経済活動を2つのセクターA、セクターBに分けている。セクターAは自分で消費するために生産する活動、セクターBは商業や交換のために生産する活動である。第一の波の社会では圧倒的にセクターAの比率が大きく、セクターBはほとんどなかった。社会に属する人々

プルタルコス 「英雄伝」 ギリシャ民主制とペリクレス

古代ギリシャ アテナイ(アテネ)の黄金期(紀元前5世紀中頃)を支えたのがペリクレス(紀元前495年頃~紀元前429年)であった。 ペリクレスはギリシャで一流の家系に生まれた。父クサンティッポスは、ペルシャ戦争時にミュカレでペルシャ軍の将軍達を打ち破った人であり、母アガリステは、クレイステネスの孫娘に当たる人であった。このクレイステネスは、僭主ペイシストラトスおよび一族を追い出して僭主支配を終わらせ、崇高な精神で法を制定して、協和と秩序に満ちた国政を樹立した人である。ペリクレスは、生まれたときから頭が大きすぎて釣り合いが悪かったそうで、彼の彫像がほとんど全て兜をかぶっているのは、彫刻家達がその不釣合いな頭の大きさに配慮したためだという。 ペリクレスが偉大な人となった1つの要因として彼の教師であるクラゾメナイの人アナクサゴラスを挙げている。アナクサゴラスは、当時の人々から「ヌース(理性)」と呼ばれたが、これは自然学に造詣が深く、また、宇宙秩序の原理として、「偶然」や「必然」ではなく「理性」を挙げた人であったからだという。アナクサゴラスの薫陶を受けたペリクレスは、気位は高く、言葉付きも崇高で、まげても笑わない顔の構え、立ち居振る舞いの穏やかさ、よどみ無い発声方法など、全ての人々を感服させる資質を持っていた。また、アナクサゴラスの影響で、彼は迷信からも超越していたという。 ペリクレスは、若い頃、政治に全く携わらないでいた。というのも、ペリクレスは、富や有力者の知人もあり、またペイシストラトスに姿や話し振りが似ていたため、民衆から僭主の嫌疑をかけられて陶片追放にあうのを恐れたためであった。しかし、アテナイの有力者であった人々、アリステイデスが死に、テミストクレスが国外追放となり、キモンが遠征のために国外へ留め置かれると、ペリクレスは政治を担うようになる。 ペリクレスは、貴族派キモンへの対抗として民衆派となったが、常に民衆と接触することで軽く見られるのを避けるために民衆とは間を設けようとし、自らに紀律を課して、往来では自邸と評議会場に通じる道しか歩まず、食事の招待や親睦の会を全て断ったのである。ペリクレスは民衆派と言われるが、トゥキュディデスは、貴族派に属し長くペリクレスの政敵であった人であるが、ペロポネソス戦争を記した有名な著書「歴史」の中で、ペリクレスの政治

プルタルコス 「英雄伝」 サラミスの海戦とテミストクレス

テミストクレスは、古代ギリシャの人で、ペルシャ戦争におけるサラミスの海戦を勝利に導いたギリシャの政治家・軍人である。 マラトンの戦いでのペルシャ軍の敗北により、多くのギリシャ人はペルシャ戦争は最早終結したと判断していた。しかし、テミストクレスは、マラトンの戦いはその後に続く更に大きな戦いの前哨戦に過ぎないとして、一人、来る戦いを予見した。 テミストクレスは、来るペルシャとの戦いには海戦が重要になると見抜き、船の建造を画策した。そのころ、ラウレイオン銀山から出る銀の収益はアテナイ市民の間で分配される慣わしであったのだが、テミストクレスは、民会に於いてアテナイに対抗する海洋都市アイギナへの戦いを口実として、銀山の収益で三段櫂船を建造すべきだと民衆を説きふせた。こうして、十分な時間的余裕のある時期に、100隻の三段櫂船を建造して、ペルシャとの戦いに準備することができたのである。また、アテナイの民衆を訓練し、海戦にも備えた。 ペルシャ王クセルクセスがペルシャ軍を率いて進軍を開始したとき、アテナイ市民は対抗する将軍を選ぼうとしたが、有望な者がしり込みをしたため、口が達者でも性根が座らぬ民衆指導者エピキュデスが将軍の職に選ばれそうになった。この時、テミストクレスは、エピキュデスではギリシャ軍の統帥はできぬと見て、エピキュデスを金で買収して辞退させ、テミストクレス自らが統帥権を手中にしたのである。 ペルシャ王から遣わされたギリシャに降伏を促す使節を、ペルシャのような野蛮な者の命令を伝えるのにギリシャ語を以ってしたのは遺憾であるという理由で、テミストクレスは処刑してしまったという。これはギリシャで賞賛を受けることになった。こうしたペルシャ戦争にまつわる話はいくつも残っているが、ペルシャ戦争時のテミストクレスの最大の功績は、それまで互いに敵対しあっていたギリシャ人を説得して和解させギリシャ内の戦争を終結に導き、ペルシャに対して一致団結させたことであるという。 いざペルシャとの戦いが始まると、艦数で他よりも多いアテナイ軍はギリシャ連合軍の中に入って指揮を受けることを潔しとしなかった。しかし、テミストクレスは、スパルタのエウリュビアデスが指揮するギリシャ連合軍に入るようにアテナイ軍を説き伏せた。このことで、アテナイ軍は、勇気の点では敵軍に勝り、思慮分別の点では同盟軍に