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キケロ 「老年について」

キケロ(キケロー)は、古代ローマの共和制期末の政治家でラテン語の名文筆家としても名を残した。キケロの活躍した時期は、丁度カエサル(シーザー)が混乱していた共和制の政治を帝政によって治めようと体制移行を進めつつあった時期とも重なっている。 共和制を支持してきたキケロは政治的には失脚し、失意の中自らを慰めようとこの作品をまとめたかもしれないという。 この作品で、キケロは、キケロが敬愛する共和制政治家大カトーを主人公に据えて雄弁に語らせた。大カトーが生きていた時代に舞台は設定され、聴き手に小スキピオ(スキーピオー)とラエリウスという有能な若い武人でもある政治家が置かれている。小スキピオは、大カトーと義理の親子の関係にもある。  小スキピオとラエリウスは、老年という重荷は人に共通の悩みであるというのに、大カトーは老年を少しも苦としていないように見受けられるがその理由は何か教えてほしいと問うのである。  大カトーは、人が老年に至ろうとも、徳を実践していれば人生は充実し活力あるものにすることが可能であることを力強く語る。そして、老年が苦痛に感じられる理由を4つ挙げて、それを一つ一つ反駁していく。 老年は、第一に公の活動から遠ざけること、第二に肉体を弱くすること、第三にほとんど全ての快楽を奪うこと、第四に死に近いこと、が重荷の理由として挙げられる。  第一の理由には、老年に至っても経験と見識では若いものより優れたものを保てるのであるから、老年と雖(いえど)も公の活動に携われるのであると。  第二の理由には、病に対すると同じように老年に対しても戦うという。老年はある日突如として現れるのではなく、何十年も前から訪れるのがわかっているのだから、良く準備を怠らずに置くべきだという。  第三の理由には、快楽は人にとって有害なものであり、また知恵と理性では退けることができないものでもあるが、老年によって快楽が遠ざけられるとしたら、それは良きことであると。  第四の理由には、青年にも老年と同じく死は臨んでいるのだが、青年はそれに気づかない、また老年は自らの役割を少しずつ終わらせ機が熟すのを待つのであると。 生きるべく与えられただけの時に満足しなければならぬ。 しかし、大カトーによって語られた老年は誰にでも訪れるのではない。青年期に志を持っ

ペトラルカ 「無知について」 人間中心主義へ

ペトラルカが活躍したのは、中世が終わろうとし、 ルネサンスが芽吹き始めた時期である。 ルネサンスの芽吹きの一つがペトラルカだと言っても過言では無い 。 中世ヨーロッパにはアリストテレスの著作が広く知られ、 知識人にとって学問中の学問と云えばアリストテレスを基にしたス コラ哲学を指していた。 彼ら中世知識人はアリストテレスを神を扱うように高い位置に置い て、アリストテレスを無批判に盲信していた。 アリストテレスの名前だけ唱え、 アリストテレスの考えから逸脱したことを話して自分でも気づかず にいるようなことさえあった。 ペトラルカは、早くからプラトンの著作を知り、 プラトン哲学の素晴らしさを理解していた。プラトンを重んじ、 アリストテレスを神のようには扱わないペトラルカは、 当時の知識人から見れば、「無知」な人間であった。 ペトラルカは、友人4名に「無知」であると訴えられ、 その反論のためにこの書簡を認(したた)めた。 友人たちはベネチア市民であって大学で学問を修め知識人を標榜し ていたようだが、 ペトラルカのような深い知性に裏打ちされた学識を持っていたわけ でもなかった。ペトラルカの勝ち得ていた名声の点でも、 彼らに望むは難しく、嫉妬を感じていたようで、ペトラルカを貶( おとし)めようとしたのがことの発端のようである。 ペトラルカは友人たちから訴えられた点について反論を書いたが、 それは容易(たやす)いことであった。そうであるから、 書簡は当初の目的である友人への反論を超え出て、 知識とは知性とは何かと言う議論へと展開されて行く。 ペトラルカの知性を目の当たりにできる。 ペトラルカは、 アリストテレスを否定しているわけではなくその優秀性を認めさえ しているが、 神のような高い位置から降ろして他の思想と同等に批判的に吟味し ようとしている。 アリストテレスは、徳は何であるかを定義し教えてくれるが、 徳をなすべく学ぶ者の心を励まし燃え立たせてはくれないと、 ペトラルカは言う。いくら知識が増えたとしても、 意志も魂も元のままでは意味が無いのではないかと言うのである。 徳とはなにかを知っても、知ったその徳を愛さないなら、 なんの役に立つでしょう。罪とはなにかを知っても、 知ったその罪を憎まないなら、なんの役に立つでしょう。 知識中心、 権威中