投稿

2016の投稿を表示しています

トーマス・ペイン 「コモン・センス」 アメリカ独立への声

アメリカ独立革命、あるいは、アメリカ独立戦争と言ったほうが通りがよいのかもしれないが、の当時にペンシルベニアで出版されたパンフレットの一つが「コモン・センス」であった。 当時、イギリスの北アメリカ大陸植民地として成長していたアメリカ東部は、現地の権利も事情も理解しないイギリス本国による支配に対して異を唱えていた。政治的な状況としては、大陸で双方の軍隊が衝突して、後に引けない緊迫したものであった。 そのような緊迫した状況下でも一般民衆の大勢は、双方の衝突が落ち着いたら和平を結び、再度イギリスの治世下に戻ることを考えていたという。トマス・ペインは、時勢を正しく把握し、アメリカ植民地は独立すべきであると主張した。それが「コモン・センス」として著され、アメリカ独立に大きな影響を与えたという。 ペインは、聖書や歴史を紐解き、古代の王政や王の世襲がいかに間違っているかを指摘し、共和政あるいは議会政への移行した意味を強調する。聖書に書かれたユダヤの王政に始まり、イギリスにおけるウィリアム征服王の武力による理のない征服やばら戦争における血を血で洗う争いまで、王政や世襲制を否定し、また王による権力の乱用に国民は反対する権利を持つという主張をしている。 また、当時イギリスでは議会(下院)に国民が代表者を送り、王や貴族らの勢力に対抗し、権力の抑止を行う立憲政治を行っていた。しかし、それも王が下院を制御して王の思うがままに政治が行われているので、立憲政治とは名ばかりであると主張している。 現状のままでは、アメリカ植民地はイギリスのための存在でしかなく、イギリスのために食料を供給し、貿易し、イギリスを富ませるだけである。アメリカの民衆は自分たちの平和と繁栄のために自分たちで政治を行うべきであると主張する。 更に、アメリカは、すでに農業生産や産業の基礎ができており、イギリス軍と互角に戦う軍事力もあり、自分たちだけで独立するだけの力を有しており、自らで政府を樹立するできるというのである。 理論的な文書ではなく、どちらかというと新聞の社説的な類の文書である。それは、一般民衆が自ら読むに適したものだったのだろう。様々な人々が手に取ったという。ペインのパンフレットによって、独立という未知の領域で歩もうとして躊躇していたアメリカの人々は勇気づけられた。自分たちの進みつつあ

チェスタトン 「ブラウン神父の無心」 読む者の心を啓く

推理小説として名高いブラウン神父シリーズであるが、奇抜で劇的で鮮やかな推理に目が行きがちであるが、その作品の大きな魅力はむしろブラウン神父が犯罪者たちに向ける言葉にあるのではないかと思う。そもそも謎を推理することが物語の目的ではなく、人間の悪を暴いて、悔悛の気づきへと導くことこそが目的ではなかろうかと思う。 後に無二の友人となるフランボーは盗賊であった。フランボーが見事な策略で、それは演劇の世界と現実の世界が交じり合って誰もが自分が劇中にいるのか現実に生きているのかわからなくなるような状況の中、宝石を盗み出した後で、トリックを見破ったブラウン神父がフランボーに語り掛けるのである。 「人間というものは 、ある 水準 の 善を保つことはできるかもしれないが 、ある水準の悪を 保つことは 、 誰にもできなかった 。 道はひたすら下り坂だ 。 」 Men may keep a sort of level of good, but no man has ever been able to keep on one level of evil. That road goes down and down. フランボーは、自らは善のために悪を働く義賊であると自認していた。しかし、ブラウン神父の言葉は厳しい。義賊と言うが悪を働いていることには変わりはない。初めのうちは善のために少しだけ悪を働いているというが、そのうちにはもっと大きな悪を為すようになる。次はもっと大きな悪という形で、悪の道はひたすら下るだけであるのだという。ただ、善を目指して日々精進をする者だけが悪から遠のいていられる。しかし、一旦怠れば、悪の道はただ下るだけである。 深い思索と多くの経験に裏打ちされた言葉ではないかと思う。ブラウン神父にはモデルとなった人物がいて、やはりカトリックの神父なのだという。 ブラウン神父は、何故犯罪者の心理を推し量り、巧妙な計略を見破って、犯罪者を出し抜くことが出来るのであろうか。彼はこう言う。 「 私 は 人間です 」 ブラウン神父 は 真面目 に こたえた 。「 それ故に 、 心 の中にあらゆる悪魔を 持っています 。 ブラウン神父は、彼自身も同じ人間であり、正直に潔く自分の心の中に悪がいることを認める。自分の中には悪人と同じ心があり、それ

キプリング 「少年キム」 自分を探して

キム(Kimball Ohara)は、アイルランド系イギリス人将校とイギリス人女性との間にインドで生まれた少年であった。幼い時に両親と死に別れたキムは、人種のるつぼインドで誰も身寄りのない中ただ一人で生き抜いてきた。 イギリス人の血を引いているが、イギリス文化には全く触れずに、インド社会にもまれて成長したキムはイギリス人でもインド人でもない不思議な存在であった。英語の読み書きはほとんどできないし、イギリス文化をほとんど何も知らなかった。逆にインドの風習やインド人の習俗については現地人と同じくらいに理解していたが、インドの文学や学問を習得していたわけでもなかった。 時は、イギリスがインドを植民地として支配し、ヨーロッパ列強と覇権争いをした帝国主義の時代であった。数多くの言語と民族が混交して出来上がっているインド社会は、イギリス軍とイギリス官僚によって支配されていた。 キムは、そんなインド社会の片隅にイギリス人孤児として、しかしインド人の貧しい子供たちと同じように、生きていた。博物館の前でインド人の子供たちと遊んでいたとき、子供の遊びでも多民族で様々なインド文化が顔を出している、キムはラマの高僧に出会った。ラマ僧は、釈迦が放った矢が刺さった地に湧き出し、そこに浸ると悟りへと導いてくれると言われる聖河を探していた。キムは、ラマ僧のことが気に入って、それまでの暮らしを投げ出してラマ僧の修行の旅に導かれていく。 二人は、ガンジス河の流れに沿ってインドを東西に走る大幹道と呼ばれる部分を旅することになる。 聖河をさがしておるのだ。すべてを浄める奇跡の聖河を。   キムは、頭の回転が速く、インド習俗も深く理解し、度胸もある子供であったから、インド支配のためにイギリスが作った秘密組織に利用された。秘密文書の運搬をそれとは知らずに託され、その有能さが実証され理解されると今度は組織の人間になるように促された。秘密組織には、ヒンズー、イスラムなど現地の有能で多様な人々が属しており、彼らが有能で魅力ある性格のキムの事を気に入ったのである。 キムが組織の修行中に、インド北部地帯を旅したことがあった。ここで、南下政策でインドを狙うロシア人と、それを助けるフランス人という、二人の諜報活動員に出会う。彼らはイギリスに反感を持つインド北部の諸国に付け入り、不穏な動きに

ハナ・アーレント 「全体主義の起原」 

アーレントは、ナツィ(ナチ)やソ連のスターリンにみられる権力構造を全体主義として扱い、そこに至る歴史的な道を反ユダヤ主義、帝国主義を通して分析し、全体主義を生み出した起源を徹底的かつ根本的に探ろうとしている。 ユダヤ人は、ヨーロッパ各地に国を作らずに遍在していた。ある者は富を勝ち得て社会を動かす影の有力者として、しかし、大多数の者は社会の下層部に厄介者として存在していた。宮廷ユダヤ人は前者の代表であり、ゲットーに住むユダヤ人は後者の代表であった。 近世には宮廷ユダヤ人という者が存在していた。封建主義が絶対主義に移るような時代であるが、国民が存立していない時期には、国の権力を握る国王は貴族など有力者から独立していたから、自分の意のままになる有能な者を必要としていた。ユダヤ人は、国の中に自分たちの社会を持たず国王とのみ関係を持ちうる存在であったし、各国に住む有力ユダヤ人同士の間に信用供与や人的ネットワークを提供できる力を有していたから、国王としては信用がおける有能な廷臣となった。 宮廷ユダヤ人たちは、ユダヤ人としての連帯を持ち、遠隔地に住むユダヤ人との間で信用を請け負いあった。必要となれば人的資源の提供もできた。だから、国際的な金融信用ネットワークができるまで、国際取引をユダヤ人たちが牛耳ることができたのは、各地に住むユダヤ人同士の信用の供与によることが大きかった。有名なユダヤ人金融業者ロスチャイルドは、自分たちが社会という基盤を持たないのであればその代わりに自分の一族で基盤を維持できるとして、当時フランクフルトにいた彼は子供たちをヨーロッパ各国の主要金融都市に移住させて、一族だけで金融を制御しようとした。 ヨーロッパ内での戦争で、戦争後の講和条約の交渉をしたり賠償金の額を決めてその金を肩代わりするのも、各国に住むユダヤ人であった。自分たちの国も社会も持たないユダヤ人は、愛国心とは無関係に冷徹に現実主義的な交渉を行った。勝利国が多額の賠償金を要求しようとも、敗戦国に支払う能力がなければそれは何らかの妥協を必要とした。敗戦国を代表して出てくるユダヤ人は、その国に対して愛国心から交渉を行っているのではなく、現実に即した交渉を行ったのである。それは交渉jの外側にいる他の者から見れば、ユダヤ人たちが勝手に条件を変えて、自分の国に不利な条約を締結しているよう

ローレンス・レッシグ 「フリー・カルチャー」

アメリカの法学者ローレンス・レッシグが書いた「フリー・カルチャー」は、著作権やそれに関する法律は何を目的に作られたのかということを根本から考え直し、現在の行き過ぎた著作権保護の実態に再考を促している。 フリーとは何か。フリーというと、金銭的にただであることを思い浮かべる人もあるかもしれないかが、ここで問われているのは、自由に意見を述べられること、自由に作品を作り発表できること、そういう意味でのフリーである。そして、この自由な意見を主張し、自由に作品を作り発表するという権利が保障されることで、自由な政治制度の基盤は提供されるし、豊かな文化創造の基盤が提供される。著作権はそのような重要な役割を担っているのである。 財産としての著作権を保護するのは良いけれども、過度の保護は、文化の創造性の力を奪ってしまうのではと言っている。我々の文化の歴史を見れば、古い作品を下敷きにして、新しいアイディアが付加されて新しい作品が創造されていることがわかるし、こうした過程を通じて文化は、誰かに搾取されるのではなく、全体として豊かな稔りを文化全体で享受している。つまり、古い作品をいつまでも誰かの財産として守り続けると、古い作品に新しいものを加えて次から次へと実り豊かに創造されていくはずの文化活動が阻害されるのではないかというのである。 レッシグは、著作権による規制の様子を法、規範(社会規範)、市場、アーキテクチャ(技術)の要素で説明を試みている。4つの要素はそれぞれ独立なものではなく、互いに影響を与えている。その中でも法律の影響力は大きい。また、時代の変化に伴い環境は変化するし、それぞれの要素のバランスも変わる。特に時代による変化が大きいのがアーキテクチャすなわち技術である。活版印刷技術や産業革命によって知的財産に影響を与える技術が登場してきた。例えば、活版印刷技術はその代表例であろう。時代によって4つの要素のバランスが崩れた時に、それを調整するのが政治の役割である。 財産は守るべきである。しかし、財産とは一種の独占権であり、著作物のようなものに永続的な独占権を与えるのは問題がある。独占権というものは社会の公正さ、社会の健全な発展に対して害をなす可能性がある権利だからである。だれかの独占権を守るために、守る必要がなく、また社会全体で共有することで、社会全体が利益

プラトン 「メノン」 考える術(すべ)

ギリシャ北部の国テッサリアの名門出の若者メノンが、「徳(アレテー)は教えらるものでしょうか?」とソクラテスに問うた時、メノンは何を考えていたのであろうか。メノンには自らの実力や有能さに自負がありそれを誇りたい気持ちがあっただろうし、自分の血筋が有能さを決めたのかそれとも勉学によって実力が築かれたのか知りたいと思ったのかもしれない。メノンにとっての徳は社会における自分の実力のようなものであった。 問われたソクラテスは直接に答えず、徳とは何か知らないのに徳が教えられるものかどうかを答えることはできないと言い、逆にメノンに徳とは何かと問うのである。メノンは、徳とは国を支配する政治家の有能さであるとほんやりと考えているだけであったから、いざ徳とは何かと言われたときに、答えられなかったし、何故徳の意味を探究せねばならないのかもわからなかったのだろう。 当時のギリシャ人にとって徳(アレテー)という概念は、人以外にも適用できて、そのものの能力を発揮させている源のようなものと考えられていた。例えば馬の徳(アレテー)は速く走ることである。だからメノンが人の徳(アレテー)を社会を支配する力と答えたとき、当時のギリシャ人の多くが考えていたものに近かったのであろう。 しかし、ソクラテスはその答えに満足しなかった。人の徳(アレテー)は、政治家だけでなく、男も女も市民も奴隷も人であれば全て共通に持っている優れた性質、真に本質的なものであるとソクラテスは考えていた。名門の生まれのメノンにはこの考えも理解できていないようである。 二人は対話をしながら徳とは何かを探究して行きながら、人が共通に持つ優れた性質として正義、勇気や節度も徳であると見つける。するとメノンは、徳とは正義のようなものであると言い出す。これでは徳は正義によって表され、正義は徳によって言われるから、循環に陥っている。 ところで、このように徳の中に含まれるものを正義、勇気、節度といったように列挙していくのでは、徳は何かを言いえない。そもそも、ソクラテスは徳を知らないと言っているわけで、知らないものを探究する方法はあるのだろうか。探究のパラドクスと呼ばれるものが提示される。 「人間には、知っていることも知らないことも、探究することはできない。 知っていることであれば、人は探究しないだろう。その人はそのことを

チェスタトン 「ナポレオン奇譚」 英雄の歌

本作品はチェスタトンが1904年に発表した長編作品だが、80年後のイギリス政治を人を食ったような破天荒な奇抜さで描いている。1984年のイギリスは、中世・近世に逆戻りしたかのように国王による専制君主制となっていて、しかも、国王は籤(くじ)引きで選ばれるのである。 オーベロン・クウィンは、友人たちの間では奇矯な行動で知られていたが、その彼が国王に選ばれた。オーベロンは、国王になると自己の奇想さ奇矯さを誇示するかのように、ロンドンの各地区を中世都市の佇(たたず)まいへと変えさせた。それぞれの地区に旗を持つ衛兵の姿が現れ、領主が据えられた。中世の儀式の世界の復活である。オーベロンにはユーモア以上の考えはなかった。オーベロンの姿には、この世に真実なるものはない、真面目に生きる必要はない、そうであるなら全ては諧謔と笑いでおどけた振りしてやり過ごそう、そういう精神が窺える。 そのようなオーベロン国王による冗談のような命令を真剣に受け止めて、旗を掲げて国王に心から忠誠を誓い、古めかしい儀式に生命を吹き込む者が現れた。ノッティング・ヒルのアダム・ウェインという若者であった。国王は自分の冗談に真剣に付き合う者が出てきたと喜ぶのであるが、実際は、アダム・ウェインは国王の言葉を語られるままに受け取って国王に忠誠を誓うのである。アダムには人の冗談に付き合っているつもりは微塵もないし、そもそも国王の命令が冗談であると微塵も考えていない。ある意味、天才と天才の邂逅(かいこう)、それは、人の及びもつかぬことを考え付く者と、徹底した真面目さで自分の信念を生き抜く者の出会い。 そこへ、ノッティング・ヒルをめぐる闘いが起きる。ノッティング・ヒルを買収して都市開発しようとする勢力が現れるが、アダムはノッティング・ヒルの神聖さを信じており都市開発など眼中にないからその買収提案を拒否したところ、交渉や裁判や国王の裁定によらず、力づくでの解決、つまり剣と剣、拳(こぶし)と拳によって土地を奪う市民同士の内戦が始まった。国王は、自分の戯れが闘いの儀式で盛大に飾られることに満悦である。 しかし、オーベロンの旧友や周囲の者は、国王に抗議し反対しつつも、話が通じないアダムを軍隊の数で押さえつけようとするのだが、アダムの知略によって狭い街路へとおびき寄せられ、逆に打ち負かされ、次第に正気を失って内戦の中に

カール・ポランニー 「経済と文明」 ダホメ王国と子安貝貨幣

西アフリカのギニア湾にベナンという国があるが、ここにかつてダホメ王国が存在していた。経済人類学者カール・ポランニーは、18世紀ダホメ王国の経済を分析し、非市場経済の制度を明らかにしている。 西アフリカのギニア湾地方は、熱帯気候に属し、大量の降雨によって密林に覆われているのだが、ベナン地方のごく狭い一部だけは、降雨が穏やかになり密林から逃れて耕作に適した地帯となっている。ここにダホメ王国は位置していた。18世紀に成立したあと19世紀末の帝国主義の時代に植民地化されるまで王国は存続していた。 西アフリカでは一般的であるが、ギニア湾一帯には細かく分かれた種族グループが入り混じって居住しており、種族グループ間の争いは絶えなかった。ダホメ王国は、防衛のために西ヨーロッパからの武器を必要としたが、武器の支払いに充てるために、近隣種族へ戦争をしかけて捕虜を捕らえて奴隷としてヨーロッパ人へ売っていた。争いに勝つために武器を必要とし、武器の代金を支払うために奴隷となる捕虜を捕まえ、捕虜を捕まえるために争いを起こすという循環が繰り返されていたことになる。 ベナン地方だけは密林が開けて海岸へ通じるため、海外との交易に向いた場所であった。西アフリカの人々は海をタブーとしていたため、内陸部に国は位置しているが、ヨーロッパ人との交易所を確保するためにダホメ王国は海岸地帯を占領していた。 ダホメ王国の経済は、再配分と互酬性、家族経済から成り立っていた。 近接するニジェール地方では頻繁に飢饉が生じているのだが、ダホメ王国では飢饉が起きた記録がない。それは農業政策が成功している証拠であるのだろう。王は全領地が耕作されるように監視し強制していたのである。豚が飼われていたが、豚の数は厳しく管理され、毎年の飼育数に応じて輸出数が管理されていた。同様に余剰穀物も近隣への輸出に向けられたが、国内での不足が生じると、輸出は抑制された。このように行政的な管理が行われていたのである。 耕作地から収穫された穀物は貢租として王へ集められた後、臣民へは子安貝の形で再配分された。子安貝は食料を買うのに使われていて、臣民は食料にかかる費用を国から支給されていたのである。ダホメ王国内には貨幣経済でいう意味の市場はなく、食料を子安貝で交換する場所があるというだけだった。食料には子安貝の数という価格は