魔の山 19 雪の中の真理

ダヴォスに冬が訪れていた。あたりは大量の雪で覆われた世界に変わった。ハンス・カストルプは雪の中で「一人きりになって瞑想し」たいという願いから、スキーを始めた。

冬山は美しかった。しかし、ただ美しいだけではなく、底知れぬ厳しさや怖ろしさを秘めていた。
冬山のふところは美しかった、ーーおだやかななごやかな美しさではなく、強い西風に荒れくるう北海の美しさと同じであった。咆哮せずに死んだように静かであったが、北海とすこしもちがわない畏敬の気持を呼びさました。(下巻p226)
ハンス・カストルプは、文明人であったがために、いっそう強く自然への畏敬の念を感じた。
いや、底の知れないふかい沈黙につつまれた世界は、にこりともせず、訪れる者の責任と危険を分担してくれようともせず、訪問者をほんとうは受け入れ迎え入れるのではなく、彼がはいりこんできて立ちどまっているのを、気味のわるい突きはなした態度で黙殺しているのであって、無言でおびやかす原始的なもの、敵意すら持たない、むしろ無関心な危険なものという気持が、まわりの世界から感じられる気持であった。生まれつき野性的な自然に遠く、関係のすくない文明の子は、子供のときから自然からはなれたことがない、なれっこになった気がるさで自然と一しょに生活している自然の子よりも、自然の大きさにずっと敏感である。文明の子が眉を引きあげて自然のまえに歩みでる宗教的な畏怖の気持ちは、自然の子がほとんど知らない気持ちであるが、この畏怖は、文明の子の自然にたいする全感情の基調になっていて、消えることのない敬虔な震駭とおびえた興奮を心に持ちつづけさせるのである。(下巻p227)
自然への恐れを感じつつ、無鉄砲にも恐怖心をわざと振り切って、ハンス・カストルプは冬山の奥深いところへと進んでいく。それは、そこにある自然が、彼の思想的な考察を解決するのに相応しい思索の場となるような予感があったからである。

彼は、セテムブリーニのことを考える。
ああ、理性(ragione)と叛逆(ribellione)の教育者的悪魔め、とハンス・カストルプは考えた。しかし、僕は君が好きだ。君に弁舌家で手まわしオルガンひきだが、君には善意がある。君はあの鋭い小男のイエズス会士とテロリスト、眼鏡の玉がきらめくスペインの拷問吏と鞭刑吏よりも善意があって、僕は君のほうが好きだ。もっとも、君たちが口論をするとき、・・・中世に神と悪魔が人間の魂を争いあったように、君たちが僕のあわれな魂を争いあうたびに、ほとんどいつも彼のいうことのほうが正しいのだが。・・・(下巻p230)
あたりはガスで白く霞み、暗い雲が近づき、とうとう山に吹雪が訪れた。彼は雪山の中で咆哮を見失い遭難しかける。さんざん歩き回った末に進むのを断念した彼は山小屋の軒下で体を休ませながら吹雪が静まるのを待つことにする。軒下で彼は眠ってしまい、夢を見る。初めは美しい風景が広がり幸福なものであったが、次第に変化し、最後は醜悪なひどい情景となり、目が覚める。凍死寸前での目覚め、死からの復活であった。
僕たちは自分の魂だけで夢を作るのではなくて、それぞれ形はちがっていても、無名で共同で夢みるのだ、と僕はいいたい。一つの大きな魂が存在していて、僕たちはその魂の一部分であり、その大きな魂が僕たちを通して、僕たちのそれぞれの形で、その魂がいつもひそかに夢みている対象を夢みるのだ、ーーその魂の青春を、希望を、幸福と平和を、・・・そして、血なまぐさい饗宴を。僕はこうして石柱の下に横たわり、魂のなかに夢の本当ののこりがまだのこっている。血なまぐさい饗宴のぞっとする恐怖、そしてまた、それに先きだった心からの喜び、太陽の子らの幸福とつつましい作法とにおぼえた喜びが、まだ」のこっている。僕にはその資格があるのだ、と僕は主張する、僕はここに横たわって、そういうことを夢みる免許状と資格を持っているのだ。僕はこの上の人たちのところで冒険と理性とについていろいろと経験をしたのだ。(下巻p260)
彼は更に思索を深めていく。
僕はナフタとセテムブリーニと一しょに危険きわまる山々をあるきまわったのだ。僕は人間について全てを知っているのだ。僕は人間の肉と血を味わい、病めるクラウディアにプリビスラウ・ヒッペの鉛筆を返したのだ。そして、肉と生を味わった者は、死をも味わったのだ。しかし、それだけでは全部でなく、ーー教育的に考えると、むしろそれは初めにすぎないのだ。それへほかの半分、反対の半分が付け加わらなくてはならない。なぜなら死と病気とへの興味は生への興味の一形態に他ならないからだ。(下巻p261)
ハンス・カストルプは、夢の中で何か新しい考え方に導かれた。セテムブリーニの民主的な考え方、ナフタの非合理主義的な考え方でもない、この世界を肯定的に生きていく考え方。死を受け入れつつも生を肯定的に生きていく姿勢に辿り着いた。

太陽の子らは、血の饗宴のおそろしさがひそかに頭にあるから、あのように礼儀正しく、優しくいたわり合うのだろうか?そうだとしたら、かれらは優雅な、ほんとうに優美な結論を導きだしたというべきである!(下巻p261)


夢から覚めたハンス・カストルプは、吹雪の収まった山を後にして、ベルクホーフへと無事に生還することができた。
ハンス・カストルプは、冬山という無が支配する世界へ彷徨い込み、思索をし、そしてまた人の世界へと舞い戻ることができた。現実から逃避せず、人生を真摯に生きる姿勢、これは、彼の人生を暗示するようなエピソードであった。

「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳




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