スペードの女王 3 ゲルマンと伯爵夫人

リザヴェータに近づいた上で伯爵夫人と話をする機会を窺うため、ゲルマンはリザヴェータに恋文を送り始める。「一日も欠かさぬ手紙が、手を変え品を変えてリザヴェータに送られた。それはもうドイツ小説の引き写しではなかった。」ゲルマンの手紙に宿る尋常ならざる強い気持ちに動かされてリザヴェータはとうとう逢い引きの手はずを相手に伝える。

大使の舞踏会に伯爵夫人とリザヴェータが出かけた後、奉公人たちが羽を伸ばしている隙を見て、ゲルマンが屋敷の中に忍び込みリザヴェータの部屋に隠れる算段であった。しかし、実際にはゲルマンは、リザヴェータの部屋ではなく伯爵夫人の部屋に隠れた。

時は徐(おもむろ)に過ぎた。闃(げき)として物音もない。客間の時計が夜半を報ずると、遠近の間の時計も次々に十二を打ったが、軈てものと静寂に帰った。ゲルマンは火の無い暖炉に凭れていた。彼は全く平静であった。避け得られぬ危難を覚悟した人のように、その心臓は正しい響きを伝えた。(第3章)

夜会を終えて伯爵夫人は帰宅し、夫人の着替えを手伝うために出た女中たちも自分たちの部屋へ引き下がった頃、ゲルマンは夫人の前に進み出た。そして、ゲルマンは三枚の札を教えて欲しいと願った。夫人は、あれは冗談だったと返事をしたのだが、ゲルマンは聞かず、さらに迫った。
「たといその為、怖ろしい罪咎をお着になろうと、至福とお別れになろうと、悪魔とどんな取引をなさろうと、まあ考えても御覧なさいーー貴女はもう御老体です。この先の生命もお長くはありますまい。貴女の罪咎は私の魂にお引き受けします。ですから秘伝をお明かし下さい。」(第3章)

なんと冷たく非情な考え方であろうか。自分の欲望のために、相手に悪魔とでも取引をせよと迫っているのである。しかも、気が狂ったわけではなく、冷静で計算ずくめの考えである。人間の怖ろしい一面を覗かせている。
終いにはピストルまで出して脅したのだが、夫人は何も話さないどころか、ショックのため「見れば彼女は死んでいた。」伯爵夫人の部屋を出ると、ゲルマンはリザヴェータの許へ向かい、今までの出来事を告白する。

彼女は今は及ばぬ後悔に咽び泣いた。ゲルマンは無言で女を見詰めていた。その胸もやはり引きちぎられる思いであった。とはいえ彼の冷たい心を騒がせるのは、哀れな娘の涙ではない。嘆き悶える有様のひとしお美しい姿でもない。現に目の前で息絶えた老媼の姿を思ってさえ、彼の良心は疼きはせぬ。巨富を夢みたあの秘伝が、今となっては手に入れる術もない、それを思うと胸が張り裂けた。(第4章)

このような場面になってさえ、ゲルマンの良心は疼きもせず、自分の欲望が果たされなかったことを悔やんでいるのである。プーシキンが描き出している人物の激しさに驚かされる。

「スペードの女王・ベールキン物語」 岩波文庫 プーシキン著 神西清訳



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