ヴォルテール 「カンディード」 自分の庭を耕すこと

この作品は、ヴォルテール(ボルテール)の哲学コンテである。哲学的な主題を素描したものであり、物語は御伽噺のように破天荒な部分があるが、直接的な表現によってヴォルテールの人生観が色濃く現されているのだと思う。

主人公カンディードは純真な青年であるが、運命に翻弄され、故郷を追われ、世界各地を転々としながらも、人生とは何かという問いを追い求めていく。カンディードが辿る旅路は、故郷ウェストファリアを出発点として、プロイセン、ポルトガル、スペイン、アルゼンチン、パラグアイ、エルドラド、スリナム、それからヨーロッパへ再び戻りフランス、イギリス、ヴェニス、そして終着点コンスタンチノープルへと続く。

この世ではすべては最善の状態にある(p.277)

哲学の恩師パングロス博士から教えられたライプニッツの最善説を純真なカンディードは純粋に信じているのだが、現実は悲惨さや苦難ばかりが続き、辛く厳しい事件で埋め尽くされている。故郷を追われ、恩師パングロスや愛するキュネゴンドとは死に別れてしまう。いったい最善説が教えてくれる最善の状態とは何なのだろうか。このような苦しく厳しい現実であっても最善と呼べるのであろうか。時には、好いことが巡りくる。死に別れたと思った恩師や愛人に再会するのである。しかし、それは束の間で、すぐに生き別れてしまう。

主人公やその周囲にいる人物ばかりでなく、物語に登場する王侯貴族、聖職者、軍人、市民などの人物たちも、自分自身のエゴからくる悪意に操られているか、運命によって翻弄されているかで、幸せな者などはいない。宮廷の腐敗、宗教裁判、戦争、海賊、裏切り、詐欺、梅毒など数えたらきりが無いヨーロッパ社会の暗い面の現実を訴えている。

しかし、一つだけ例外の場所がある。南米奥地にあるエルドラドである。エルドラドは伝説の理想境であるが、カンディードはここに偶然から迷い込んでしまう。そこでは、金銀宝石が地に満ち溢れるが、人々は見向きもしない。食べ物は豊富に行き渡り、人々の心は豊かで慈悲深い。このように夢のような理想境であるにも関わらず、カンディードはエルドラドに留まらないで、厳しい現実が待つヨーロッパへと戻っていくのである。夢や幻ではなく現実を直視して、そこで力強く生きよというヴォルテールのメッセージが感じられる。実際、カンディードは、エルドラドを除くとほとんどの場所で過酷な現実と向き合うのだが、くじけることなく前に進み続けるのである。

物語も終わりに近づく頃、ヴォルテールの意見が暗示される。コンスタンチノープルに近づいた頃、トルコ随一のイスラム教修道僧とカンディード一行の問答があった。

(僧) 「余計なことに首を突っ込んではならぬ それはお前に何の関わりがあろうか」
(パングロス) 「この世にはひどく悪がはびこっています。」
(僧) 「悪が存在しようと善が存在しようと、どうでもよいではないか。」
(パングロス) 「では、どうすべきなのでしょう」
(僧) 「沈黙することだ」(p.454)

だが、カンディードは、修道僧の答えに満足しなかった。現実から目を逸らして生きることは、人生への答えとは思えなかった。

次にトルコ人の農民と出会った。

「私の土地はわずか二十アルパンにすぎません」と、トルコ人は答えた。「その土地を子供たちと耕しております。労働はわたしたちから三つの大きな不幸、つまり退屈と不品行と貧乏をとおざけてくれますからね」(p.456)

この話を聞いてカンディードは深く考え込んだ。これまで出会った誰よりもこの農民が好ましい境遇を自らの手で切り開いているように感じられたからだった。多分、農民の生き方が最善では無いだろう。しかし、善い生き方をする指針を与えてくれるのだと思う。物語はカンディードの次の言葉で終わる。

「ぼくたちの庭を耕さなければなりません」(p.459)

最善説のように無邪気で無責任に人生を扱うのではなく、さりとて人生を厭世的に悲観するのでもなく、現実を直視し自分に与えられた場所で自分の力でもって人生を前向きに生きていること、これがヴォルテールの答えではないかと思う。これは好ましい態度だと感じる。

自分の庭とは何か、そのことについては何も語られていないが、それは自らの心であり言葉(思想)でではないかと思う。

「カンディード」 岩波文庫 ヴォルテール著 植田祐次訳



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