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トクヴィル 「アメリカのデモクラシー」 3 連邦憲法

イギリスからの独立戦争当時、アメリカにあった植民地13州は同じ言語と宗教と習俗を持ち、1つの国家となる理由を有していた。しかし、植民地13州はそれまでに独立した存在として独立の統治を持ち独自の利害を有しており、独自性を排して堅固で完全に統合した国を作るという考えにはいずれの州でも抵抗が強かった。講和によって独立が認められた時、それぞれの植民地は独立した共和国となり完全な主権を手に入れた。このため、連邦政府は無力な存在となってしまった。第1の連邦憲法の欠陥が意識されたのだった。 そこで、連邦政府の無力を認め、第2の連邦憲法の制定の必要が宣言された。憲法制定会議にはマディソン、ハミルトン等が委員として、ワシントンが議長として参加し、長い審議の後に新しい憲法が提案された。 連邦憲法制定は、連邦の主権と州の主権とをどう扱うかという大きな困難を抱えていた。州内部の問題には州政府が自治を続け、しかも連邦政府によって国全体が一体性を失わないように、均衡をとること、これは難題であった。連邦と州のそれぞれが持つ主権をどう分割するか、憲法制定時に将来を予見して、連邦と州の権限分割を完璧に規定することは不可能であった。 州の権限に関すること、つまり国民生活に関わるあらゆる細部を予見することは不可能であった。しかし、連邦政府の権利義務であれば、単純で定義しやすいものであった。連邦は重大な一般的必要に応えるために制定されるからである。そこで、連邦政府の所管事項が丹念に規定され、この連邦政府の規定に属さないものが州政府の管轄とされた。連邦政府の権限が規定されたわけであるが、実際の運用では連邦の権限がどこまで及ぶか、つまり権限の境界がどこにあるのかは、疑問が生じることが予想され、この疑問を解決するために連邦最高裁判所が制定された。連邦最高裁判所は、連邦政府と州政府の間の権力分割を、憲法が定めた通りに維持することが権能の1つである。 連邦政府には、宣戦、講和、通商条約の締結、徴兵、艦隊の編成について排他的な権限が与えられた。社会生活に関わることは一般的に州政府に任されたが、一部、通貨に関する権限は連邦政府に任された。一般に州政府は州内部に於いて自由である。しかし、州政府がこの自由を乱用し連邦の維持を危うくするような場合には、連邦政府は州政府に介入することができた。例えば、連邦憲法は

トクヴィル 「アメリカのデモクラシー」 2 アメリカの出発点

アメリカは、社会の自然な成長をその始まりから直接に観察することのできた唯一の国である。それは、アメリカへと移住したヨーロッパ人達が様々な記録を残しているからである。トクヴィルは、アメリカ史を研究した上で、アメリカの法律、習慣などありとあらゆる物が国の出発点によって説明できないものはないと述べている。 トクヴィルの時代までに、アメリカでは南部と北部が別々に成長していた。イギリスの最初のアメリカ植民地が開かれたのは南部ヴァージニアであった。当時のヨーロッパ人は、黄金こそが国を富ませるという考えに染まっていたことも起因し、アメリカへ最初に送られた人々は黄金を探す人々であった。これらの人々は資金も規律も持たぬ人々で、こうした雰囲気がもたらした影響によってヴァージニアの成長は不確かなように見えた。その後に移ってきた人々はおとなしい製造業者や農耕民であったため、社会規律や高い理想によって国家建設が確立されることは無かった。しかもすぐに奴隷制が導入された。奴隷制こそが、南部の性格や法律やその将来全てに計り知れぬ影響を与えた決定的な要因であった。奴隷制は、労働の尊厳を汚し、社会に無為を侵入させ、無知と傲慢、貧困と奢侈をも導き入れる。 一方北部では正反対の性格を持つ社会が成長して行った。北部ニューイングランドの建設は、植民地建設という観点から見ると、全てが新しいことばかりで異例で独特なものであった。それまで開かれた植民地ではどこでも最初の住民は、貧困のため祖国で生きていけなくなった人々や、犯罪や素行の悪さから国を追われた人々で、財産も教育もないのが常であった。しかし、ニューイングランドに移住してきた人々は、祖国イギリスに於いて余裕のある中産階級に属していた。ニューイングランドに現れた社会には大領主も下層民もなく貧乏人も富豪もいなかった。この社会に属する人々はヨーロッパに於いて相当の教育を受けた人々で社会的規律も持っていた。彼らは貧困で国を出たわけではなく、イギリスでの社会的な地位や生活手段を捨てて、自らの理想を追及する場を求めて祖国イギリスを捨てたのである。彼ら(ピルグリムファーザーズ)は清教徒に属し、イギリス政府からの迫害を逃れるために、アメリカへと渡ったのである。 ニューイングランドへの最初の移民の後も、イギリスでの宗教的な圧迫はやまず、年毎に新たな移民者が続いた

トクヴィル 「アメリカのデモクラシー」 偉大なる平等の思想家

アレクシ・ド・トクヴィルは、1805年にフランス貴族の家系に生まれた政治家・政治思想家で、フランス革命やナポレオン帝政とその後に現れる王政復古など、フランス政治体制が激動に大きく波打った時代に生きた人である。貴族制から民主制へ進む時代の流れは変えられないと早い時期から認識し、民主制の時代に貴族の末裔としていかに生きるべきかを真剣に考えた人であった。 しかしながら、当時のフランスは革命によって民主政へ移行した経緯やその後の動乱の影響もあり、階層間の激しい憎しみ合いや政治的な混乱などがあって、フランス社会における民主制の先行きは不透明であった。 一方、まだ建国から数十年しか経たないアメリカは繁栄への道を着実に歩んでいた。トクヴィルは民主制の行く末はアメリカにこそ見出せると見抜き、友人ギュスターヴ・ド・ボモンとともに数ヶ月のアメリカ視察を行い、当時のアメリカ著名人のほとんどとも会談をして、まだ20代前半であったが、この名著を著した。(因みにボモンも名著を著している。) 第1巻では、アメリカの繁栄に対して、境遇の平等がいかに大きく影響しているのかをいくつもの例を挙げながら丁寧に説明している。トクヴィルは貴族制社会の中で貴族の血筋を受けた人であり、民主制を外から観察するように分析していく。 民主制がいかなるものかということを改めて認識し直したが、併せて、貴族制とはいかなるものかということも初めて分かったような気がした。  第2巻は、平等が精神にいかなる影響を与えるかということが分析される。第1巻では、アメリカ視察から帰った後の興奮が間近に感じられる位に、アメリカのことが好意的に書かれていましたが、数年後に書かれた第2巻では、アメリカ・イギリス・フランスの冷静な比較分析が行われている。 例えば、貴族は生活の心配がないから名誉を獲得できる大志を望みそれを実現することに専心する。貴族は家系こそが偉大さの源泉であり、家系の名誉を守るためには生命をも犠牲にささげる。民主制の人民は、常に生活の心配をしているから大志を抱く余裕がなく、民主制の時代には偉大な人物は現れなくなる。自分の生命が大切で、他人のことは全く気に掛けなくなる。そういった比較分析がなされている。 第1巻は読んでいて楽しく大変面白いが、第2巻は地味ではあるが、深く考えさせられる内容に満ち溢れて

オルテガ 「大衆の反逆」 

オルテガは、ヨーロッパ社会で大衆が完全に社会的権力の座についている事実を指摘した上で、大衆は自分自身を指導することもできず、まして社会を支配することなど到底無理であるのだから、この事実は社会が危機に見舞われていることを意味していると警告している。 オルテガは、大衆という言葉を「平均人」という意味で使っており、今の社会に生きるほとんど全ての人はこの部類に含まれてしまうと思う。オルテガは社会を構成する人々を優れた少数者と大衆とに分けて考えている。優れた少数者は自らに多くのことを課して困難や義務を負う人々であるのに対して、大衆は自らに特別なことは課さず、与えられた生をただ保持するだけで自己完成の努力をしない人々である。これは、貴族と平民という分け方とも異なっている。 世が大衆化するまでは、政治は優れた少数者によって舵取りがなされてきた。しかし、大衆化した世界では大衆が政治の座にもついているのである。しかも、自ら社会を支配することは無理だというのにである。 大衆とは何者であろうか。オルテガは、大衆の典型を近代の知識人の代表である科学者に見るのである。 科学者は大衆人の典型ということになるのだが、それは偶然のせいでもなければ、めいめいの科学者の個人的欠陥によるものでもなく、科学、それは近代文明の基盤であるが、そのものが、科学者を自動的に大衆に変えていくのだという。 科学者は近代の原始人、近代の野蛮人になってしまっている。 ガリレオなどの数世紀前の科学者は別として、近代の科学者は、良識ある人間になるために知っておくべきことのうち、ただ一つの特定科学を知っているだけで、しかもその科学についても、自分が実際に研究している分野にしか通じていない。 近代は科学によって物質的な豊かさを実現したが、同じ科学によって人が大衆化されてしまったのだという。 「大衆の反逆」 白水社 ホセ・オルテガ・イガセット著 桑名一博訳