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キルケゴール 「死にいたる病」 1

キルケゴールの思想を紹介するのに、この本の一部を抜粋することにする。この本の序章として、柏原啓一氏によって書かれた解説が、キルケゴールの紹介に都合が良いであろうと思う。 キルケゴールにとって、人間の生きている世界は、変化してやまないそのつどの状況ごとに、神の前で誠実にこれを乗り切っていくことが課題となるような、そんな舞台である。状況の変化とともに、瞬間ごとに神関係が反復されていくような世界、すなわち、聖書のキリストの言葉が今の私に語りかけて、今際会しているこの時代が繰り返しキリストとの同時代性を帯びることのできるような世界、である。このような世界をキルケゴールは「歴史」と呼ぶ。(中略)歴史とは、(中略)何が生じるか予測がきかないような、いわば自由な世界である(p.21) 世界がこのような「歴史という自由の領域」であるのは、実は、人間が自由であるからにほかならない。キルケゴールにとって、人間とは、[神の前にただひとりで立つ]単独者であり、神に対して責任を取るという仕方で、自由に自らの主体性の形成に踏み出すときに、真の人間らしさを発揮することのできる存在である。(p.22) 人間の外に自由な世界があり、その自由を根拠として人間が存在意義を有しているということ。真に人間らしいものになるためには、自由である必要があるが、自分のうちには自由は存在していない。 自由を引き受けて生きる人間の在り方を、キルケゴールは「実存」と呼んだ。人間が本当に生きているといえるのは、本質に依存する安易な生き方ではなく、自由という厳しい生き方においてのことなのである。(p.22) 自由とは、常にその瞬間ごとに本当の生き方を探して戦い続けるようなものである。厳しい生き方。 生きる上での既成の根拠を自分のうちに持っていない自由が、人間を不安に陥れる。よるべき本質を持たないがゆえに不安を生む。「不安は自由のめまいである。」この不安から逃れるために、人は日常的な惰性で日を過ごしたり、刹那的な享楽に没入したり、あるいは大方の趨勢に身をゆだねたり、客観的公共性に責任を押し付けたりするが、それは自由の道を塞ぎ、主体性を放棄することにほかならない。(p.22) 人間はこの弱点をしっかりと