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大野晋 「日本語練習帳」 一生に一度の為に

日本語約3000語の語彙があれば、生活していく上ではことが足りるのだという。では、3000語の語彙の生活でいいのであろうか、そうではないと著者は断言する。 言語生活という言い方をしているが、文章の調子、文体のかすかな違いを感じられる、そういう深く豊かな原語経験を体験するためには、3000語程度の語彙では不可能であり、少なくとも3万~5万の語彙が必要なようである。しかし、3万~5万という語彙を持っていたとしても、そのうちの半分は1年間に1度しか目にしないものばかりである。 一生に一度しかお目にかからないかもしれない。しかし、その一年に一度、一生に一度しか出あわないような単語が、ここというときに適切に使えるかどうか。使えて初めて、初めてよい言語生活が営めるのです。そこが大事です。語彙を七万も十万ももっていたって使用度数1、あるいは一生で一度も使わないかもしれない。だからいらないのではなくて、その一回のための単語を蓄えておくこと。 著者の日本語に対する美意識が明確に現された文章だと思うし、強く心を動かされる言葉だと思う。言葉を多く知っていて何の役に立つのか。それは、一生に一度の舞台に適切で見事な表現をしたり、そのことを感じたりできるかどうか、更にはそのことに価値を感じられるかどうか、それにかかっていると思う。 一期一会。一生に一度お目にかかれるかどうかわからない、そういう緊張感の漲る瞬間を待ちながら、そういう言語経験を出来るだけの能力を蓄えるために言葉の力を磨くことを改めて考えさせられた。 「日本語練習帳」 岩波新書 大野晋著

E.H.カー 「歴史とは何か」 3 広がる地平

時の流れを、自然的過程としてではなく、人間が意識的に関与していくものとして捉えるところから歴史は始まると著者は言っている。 歴史とは、人間がその理性を働かせて、環境を理解しようとし、環境に働きかけようとした長い間の奮闘のことなのです。ところが現代はこの奮闘を革命的に広げてしまいました。現代の人間が理解しようとし、働きかけようとしているのは、彼の環境だけでなく、彼自身なのです。(p.200) 歴史が始まって以来、現代に至るまで、上記の意味での理性の対象は環境であった。しかし、現在、人間が理解し働きかけようとしているものは、人間自身そのものになっているという。ここで著者が言わんとするところは何処にあるのだろうか。現代までの歴史では、人間が環境に働きかけ時代が変化した、しかし、現代では人間が環境と同じく人間自身にも働きかけ時代を変化させる、そういうようなことを言っているように思われる。思想家が歴史に大きな影響を与える。 著者は、歴史という観点で影響を与えた3人の思想家を登場させ、これを説明してくれる。ヘーゲル、マルクス、フロイトである。 著者によると、ヘーゲルは、歴史の変化とは、人間の自己意識の発展が本質であると認識した最初の哲学者であったのだという。自己意識が発展することで歴史の変化が起きると言うのである。しかし、ヘーゲルは政治的には何もなさなかった人で、彼の哲学は、当時の実社会には殆ど影響を与えなかった。次にマルクスは、ヘーゲルの考え方を実際の具体的な形態に推し進めた。革命の理論である。 マルクスは、世界は、人間の革命的なイニシアティヴに応じて合理的過程を辿って発展する法則によって支配されているものだ、というものの見方への転換を成し遂げたのです。マルクスの最後的な総合では、歴史というのは三つのもの---これらは互いに不可分で、一貫した合理的な全体を形作っているのですが---を意味しておりました。第一は、客観的な、主として経済的な法則に合致した事件の動き、第二は弁証法的過程を通して行われる思惟の、これに対応する発展、第三は、これに対応する、階級闘争という形態の行動で、これが革命の理論と実践とを調和し統一するのです。(p.204) 著者が挙げるもう一人の思想家、フロイトであるが、彼が行った意識、無意