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マルクス、エンゲルス 「共産党宣言」

マルクスとエンゲルスによるプロレタリアートによる共産主義の宣言。 階級闘争という歴史観を通じて、当時の経済社会の分析がなされ、ブルジョア階級による社会支配の問題が明らかにされる。ブルジョアによる資本主義の分析は、簡単に述べられているだけで一端が垣間見られるばかりであるが、それでもその洞察力の鋭さには驚かされる。現代の経済状況を振り返るとき、マルクス、エンゲルスの言っていることがあちらこちらに現れているように思う。 近代工業による経済活動が活発になるにつれ封建社会の枠組みが崩されていき、封建的な支配者階級は没落し押しのけられる。代わってブルジョア階級が伸張していく。ブルジョア階級によって経済的な社会支配のみならず、政治的な社会支配までもが勝ち取られていく。結果として、社会は資本を持つブルジョア階級と労働者からなるプロレタリアート階級に分断される。 「ブルジョア階級は、すべての生産用具の急速な改良によって、無制限に容易になった交通によって、すべての民族を、どんなに未開な民族をも、文明のなかへ引きいれる。かれらの商品の安い価格は重砲隊であり、これを打ち出せば万里の長城も破壊され、未開人のどんなに頑固な異国人嫌いも降伏をよぎなくされる。」 ブルジョア階級による社会では、繰り返し起きる恐慌という疫病がはびこる。過剰生産が起こり、社会全体の生産手段が破壊されたようになる。社会が必要とする以上の発達を遂げた大資本による生産活動が、行き場を無くしてしまうためである。これを克服するには、新しい市場の開拓と古い市場の徹底的な搾取が必要とされる。しかし、根本的な原因が解決されたわけではなく、より強大な恐慌が準備されていくのである。 このブルジョア社会の進行、深化に伴い、封建社会で中産階級にあった小工業者、商人、農民等はプロレタリアート階級に次々と転落する。ある者は自身の持つ小資本が大資本に競争に勝てなかったからであり、ある者はそれまで強みとして有してきた技能・技術が技術革新により陳腐化されて競争に勝てなくなったからである。こうして、プロレタリアート階級は、ブルジョア階級によって打ち負かされた者を吸収して、その数が膨張していく。プロレタリアート階級は搾取され、飢えずに食べていける最低限の賃金以外は支払われず、ブルジョア階級の奴僕と

チェーホフ 「桜の園」 わたしの命、わたしの青春、わたしの幸せ

「チェーホフ最後の、そして最も愛されてきた劇曲」。郷愁を帯びた感傷的なテーマを持ち、そのテーマを明るく描く喜劇的な会話、劇中には知性的な雰囲気が醸し出され、味わい深い戯曲になっていると思う。大切な様々なものが詰まっていて、少しずつ色々な気持ちを味あわせてくれる、何回でも読み直してみたい作品。 主人公のラネーフスカヤ夫人はロシア貴族の出自であったが、平民の弁護士と結婚し、夫に死に別れると愛人とパリへ出奔してしまっていた。手元に最後に残った財産、「桜の園」、を処分するために故郷へと戻ってきたのだった。そこには、兄ガーエフ、娘アーニャ、養女ワーリャ、老従僕フィールス等が待っていた。 時は、ロシアで農奴解放令が発布され、時代が大きくうねり社会が激しく変貌している頃である。農奴からの年貢で生計をなしていたロシア貴族たちは、それまで拠り所としてきた基盤を失いあえいでいる。大土地を所有しているとはいえ、土地を経営する才覚無くしては土地の所有も意味が無く、次第に土地を切り売りして生活費を工面し、土地は人手へと移っていくばかりであった。ラネーフスカヤ夫人も兄のガーエフにも経営能力は無に等しく、彼らにあるのはただ血筋の良さ、人の良さだけであったから、最後に残った「桜の園」を保全することはできない。 劇中には、古き良き時代への郷愁と惜別の感情が漂う中で、新しい時代の足音が遠くの方から聞こえてくる。ラネーフスカヤ夫人の家に、代々農奴となってきたが、親の代に解放されて自由民となったロパーヒンは、学問は無いが実業家として財を成している。アーニャと恋仲にある大学生トロフィーモフの発言からは共産主義的なものが感じられ、新しい世の中を自ら作り出そうと考えているのがわかる。やがて来るロシア革命を彷彿とさせる。第二幕では、遠くの方から炭鉱の爆発音がかすかに聞こえてくる。ドンバス炭田であろうか、すでに近代重工業が始まっているのである。 「桜の園」と、それに隣接する幼年時代の子供部屋こそが、ラネーフスカヤ夫人と兄ガーエフにとって最も大切なものの象徴であり、しかも心の拠り所でもあった。第四幕で、故郷を離れるために旅立つラネーフスカヤと兄ガーエフは、最後に子供部屋に残り、抱き合いながら涙を流す。 ああ、わたしのいとしい、なつかしい、美しい桜の園!わたしの命、わたしの青