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エラスムス 「痴愚神礼讃」 愚かな者が真理を語る

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エラスムスは、15~16世紀にかけて活躍した人文主義者、神学者、司祭である。「ユートピア」を著したトマス・モアと終生の友として交流し、トマス・モアの「ユートピア」にも大きな影響を与えているという。また、同じく同時代の人であったマルチン・ルターとの間で論争を行ったことでも知られている。 本書に解説を記している宮下士郎氏によれば、人文主義とは、古代ギリシャ・ローマの研究を通じて、人間存在や社会を、神ではなく人間の視点から見つめなおす動きであるという。それは、神を無視することを意味するのではない。人間存在は神の被造物であり、人間を探求することは神の働きを知ることと通じるとされていた。そうであるから、エラスムスの持つ人文主義者と神学者、司祭という立場は矛盾しないのである。「汝自身を知れ」というソクラテスの言葉は人文主義者の立場を良く示す言葉だと言える。 「痴愚神礼讃」は、痴愚の女神が自らを褒め称える(礼讃)言葉を記したものである。痴愚女神は、愚かさの象徴であり、著者は愚かさの仮面を被り、世の中の人々の愚かさを滑稽味を持って嘲笑している。皮肉さと滑稽さを伴った風刺、それがギリシャ・ローマの古典知識を背景としたものとなっている。風刺の対象は、市井の人々に始まり、哲学者、法律学者、王侯貴族、キリスト教の僧侶に至るまで、様々な人々が嘲笑されている。読者は、丁寧に加えられた注釈を見て、優しくも軽妙に語られる辛辣な言葉を読み解くことができるのだから、すんなりと著者の後をついていくことであろう。 一見するとギリシャ・ローマ古典に依拠する知的な戯れにも思えてくるが、しかし、そういう見方では本書の本質を見失ってしまう。本書も最後に差し掛かる部分、65章あたりからの内容はパウロの言葉を扱っているのだが、痴愚を装いながらキリスト教の神髄を見事に語りきっている。 パウロはさらに一歩進めて、痴愚こそ救いに不可欠であると断じて、「あなたがたのうち、みずから知者だと思っている者は、知者となるためにおろかな者となりなさい」といっていますよ。(p224) 人間の善なる行為によってもいかなる罪も赦されない、ただ神への信仰によってのみ罪は赦される。そのことをエラスムスは痴愚神の口を借りて語っているのではなかろうか。愚かさ故に救われる、すぐには飲み込むことがで

マルチン・ルター 「新約聖書への序言」

ルターが全生涯をかけて成し遂げたドイツ語訳聖書の序言であるが、ルターのキリスト教に対する神学観が極めて明瞭に端的に述べられていて非常に面白い。教会に関わる者は、普通であれば、非難や誤解を恐れて聖書中の福音書や書簡に序列などをつけたりはしないだろうが、ルターはそれを見事に歯切れよい口調できっぱりと述べているのである。 すなわち、新約聖書中で最も大切で、キリスト者が常に繰り返して読み自分の血肉となるまでにするべきものは、 「ヨハネによる福音書」、 「ヨハネの第一の手紙」、 パウロの手紙なかでも「ローマ人への手紙」と「ガラテヤ人への手紙」と「エペソ人への手紙」、 「ペテロの第一の手紙」 であるという。 「ローマ人への手紙」に対してルターが書いた序言は、実に素晴らしいものである。この序言だけを抜き出して読むだけでも、キリスト教の最も大切な核の部分に触れることができるのではないかと思う。それは、「ローマ人への手紙」において展開されるパウロの神学が素晴らしいものでキリスト教の根幹を成しているからであり、また、ルターの解釈が明快で歯切れよく核心をついた説明になっているからである。さらにルターの激しいまでにほとばしり出る情熱や神に対する誠心誠意を感じるのである。 聖パウロのローマ人へあたえたこの手紙は新約聖書のうちでもまことの主要部をなし、最も純真な福音であって、キリスト者がこれを一言一句暗記するどころではなく、たましいの日毎の糧として日常これに親しむに足りるだけの品位と価値とをそなえている。 ルターの序言に触発されて「ローマ人への手紙」にだけでも触れてみるのは良いことだと思う。理路整然として壮大な建築物を思わせるような神学が築かれているのが感じられるであろう。 ルターの考え方や解釈が、キリスト教世界で必ずしも正しいと認められているわけではないだろうが、何が大切なことで、それをどう考えるべきなのかということを教えてくれている。 「キリスト者の自由・聖書への序言」 岩波文庫 マルチン・ルター著 石原謙訳

マルチン・ルター 「キリスト者の自由」

宗教改革で有名なマルチン・ルターの著作。短い論文の中にルターのキリスト教神学に対する真髄が強い熱情でもって語られている。全身全霊を言葉に込めて書き上げている。その口調に触れるだけでも、彼の人となりを推し量ることができる。 キリスト者の自由を語るときに、ルターは次の2つの矛盾するように見える命題を掲げる。 キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。 人間は、「霊的な」ものと「身体的」なものという2つの性質を持っている。たましいの面から見ると霊的な新しい「内的な人」と呼ばれるし、血肉の面から見ると身体的な古い「外的な人」と言われる。 この「霊的な内的な人」こそが、義しい自由なキリスト者なのである。「内的な」ものが義しく自由であるのだが、それは「外的な」ものが関与して義しく自由なものとなったのではない。では何によって義しく自由となるのか、それは福音すなわちキリストについて説教された神の言によってであるとルターは言う。 「わたしは生命でありよみがえりである。わたしを信ずるものはとこしえに生きる。」(ヨハネによる福音書第11章) 「わたしは道であり、真理であり、生命である」(ヨハネによる福音書第14章) では、神の言はどこにあるのか、それは聖書の中で語られるキリストの説教であるとルターは言う。 「義とされたキリスト者はただその信仰によって生きる」(パウロ ローマ人への手紙第1章) さらに聖パウロがいうように、神の言と信仰により、「霊的な内的な人」はあらゆることから自由とされる。 神の言と信仰によって、キリスト者が義しく自由となっているとしたら、何故その上に善行を重ねていく必要があるのかという疑問が出てくる。当然出てくるこの疑問(躓き)にルターはルターは答える。 否、愛する人よ、そうではない。もしあなた方が単に内なる人であって、全然霊的且つ内的になったとしたらそうであるかも知れないが、それは終末の日に至るまではむずかしいであろう。(p32) 我々人間は、神から祝福された「霊的で内的な」部分を持っているが、「身体的で外的な」部分を背負っている限り、本当の完成には到