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E.H.カー 「歴史とは何か」 2 歴史の中の個人

社会を離れて個人は存在しうるのか。人間は生まれたときから社会の中に存在し、孤立した存在であることは不可能である。空想の中では社会から孤立した人間を想像することは可能であるが、そのような存在はありえない。そうであるとすれば、歴史において個人をどう扱えばいいのだろうか。 社会は少数の個人によって動かされているという見方をする人もあるが、著者はそういう立場を取っていない。社会は多数の個人が作る集団によって動かされている。その一例として20世紀の世界大戦について、簡単ではあるが、著者の態度を鮮明にしている。 二十世紀の二つの大戦をヴィルヘルム二世やヒトラーの個人的な悪意の結果と考える方が、国際関係のシステムにおけるある根本的な崩壊の結果と考えるより容易なのです。(p.65) ヒットラーの悪意が大戦を起こしたのではない、国際システムが崩壊したことが大戦の真の原因だというのである。 社会への叛逆者は、一見、社会と対立しているように見えるが、叛逆者もある社会の産物であり、時代を反映したものである。特にニーチェについて記された部分は、非常に興味深い。その社会や時代に対して急進的に叛逆した者が、実はいかにその時代や社会を体現し、反映したものであったかを説明している。 その時代およびその国の社会に対して荒々しく急進的に反抗した点では、ニーチェの上に出るものはありませんでした。しかし、ニーチェは、ヨーロッパの社会の、というより、特にドイツの社会の生粋の産物であって、中国やペルーには現れようのない人物でありました。この個人が身を持って表現していた社会的な力がいかに強くヨーロッパ的なもの、特にドイツ的なものであったかは、ニーチェの同時代者たち」にとってよりも、彼の死後の世代に至って益々明らかになって参りましたため、彼自身の世代にとってよりも、その後の世代にとって重要な人物になったのであります。(p.74) 偉人といえども個人に過ぎないのだが、卓越しているが故に社会的な現象と言える。しかし、逆に社会的な現象であるということは、その時代においてでは偉人となりえたが、他の時代に生まれたなら社会に埋もれていたかもしれないということである。歴史家のギボンはこう言っているという。 「その時代が桁はずれの人物に適合して

E.H.カー 「歴史とは何か」 1 歴史とは

歴史とは何か。歴史は過去の事実の記録ではなかろうかと余り深く考えもしないで信じているのに気づかされる。 19世紀は事実尊重の時代であったと著者は書いている。ランケという人は、歴史家は 「ただ本当の事実を言うだけである」(p.4) と述べたとあるが、これは現代でも普通に見受けられる歴史への態度を代表しているように思える。誰の眼に見ても同じに見える歴史を書かなくてはいけないし、それは書くことができると、19世紀の歴史家たちは考えていたそうである。サー・ジョージ・クラークという人は、 「事実という堅い芯」 と 「それをつつむ解釈という疑わしい果実」 という言い方で、事実尊重の態度を示し、歴史家による解釈を軽視した。 しかし、よく考えてみると「本当の事実」とは何かということは非常に難しい。著者は、シーザーがルビコン河を渡ったという事実と、部屋にテーブルがあるという事実は、両方とも事実ではあるが歴史家の観点では同列には扱えないという言い方で、歴史における「本当の事実」という論点を浮き彫りにしてくれる。歴史における「本当の事実」となるには、歴史家による評価と批判をくぐり抜ける必要がある。その事実を歴史家たちが歴史的に重要だと認識する必要がある。 事実というのは、歴史家が事実に呼びかけた時にだけ語るものなのです。いかなる事実に、又、いかなる順序、いかなる文脈で発言を許すかを決めるのは歴史家なのです。(p.8) また、「本当の事実」に関する別の困難さをも教えてくれる。例えば、紀元前5世紀にギリシャとペルシャが戦ったペルシャ戦争について、我々は多くのことを知っている。しかし、ペルシャ戦争当時のギリシャは、アテネ市民によって書かれたアテネ市民の観点からの姿しかわかららない。スパルタ人やテーベ人、奴隷などの目に、当時のギリシャがどういうように映っていたかは殆ど知ることができないのである。記録が失われたもの、あるいは書かれなかったものからは何も知ることができない。 逆に、現代へ近づけば近づくほど、記録された事実は膨大なものへとなっていく。これらの中から歴史的な事実を拾い上げることも非常な困難を伴う。解釈をやめた歴史家は、事実の蒐集家となってしまうという言い方を著者はしている。 歴史は、事実だけをただ列挙するだ

小林秀雄 「本居宣長」(上)(下) 5 古事記

古事記は、神代のことを伝える書であり、それゆえに源氏物語のような物語とは異なる。しかも、この点が古事記を読む者たちを混乱させる。理性では理解し得ない神代の伝説(つたえごと)を如何に扱うべきか、あるいはどう折り合いをつけるべきか、それは宣長と同時代の学者たちにとっても同じであった。神代の伝説を真実として受け入れるべきか、それは理性とどう折り合いがつくのか、神代の伝説を真実として受け入れられないとすれば古事記自体をどう受け入れるべきか。古事記は、読む者の理性に解けぬ謎を出して来る。学者自らが頼りとする自身の「さかしら」な理性に足を取られ、古事記の世界へ入っていくことができなくなるのである。「さかしら」が学者と古事記との間に介在し、学者が古事記に直に近づくことを阻むのである。 宣長は、源氏物語を通して会得した道を真直ぐに歩いて、行ける所まで行ってみた。その様子が以下のように説明されている。 彼は、神の物語の呈する、分別を超えた趣を「あはれ」と見て、この外へは、決して出ようとはしなかった。忍耐強い古言の分析は、すべてこの「あはれ」の眺めの内部で行われ、その結果、「あはれ」という言葉の漠とした語感は、この語の源泉に立ち還るという風に純化され、鋭い形をとり、言わばあやしい光をあげ、古代人の生活を領していた「神(あや)しき」経験を描き出すに到ったのである。(p.155) ここに言われる「古代人の生活を領していた『神(あや)しき』経験」という深い感覚を掴めないと、先へ進むことができない。著者はこの古代人の経験について、以下のようなヒントを与えてくれる。 上古の人々は、神に直に触れているという確かな感じを、誰でも心に抱いていたであろう。恐らく、この各人各様の感じは、非常に強い、圧倒的なものだったに相違なく、誰の心も、それぞれ己の直観に捕らえられ、これから逃れ去る事など思いもよらなかったとすれば、その直観の内容を、ひたすら内部から明らめようとする努力で、誰の心も一ぱいだったであろう。この努力こそ、神の名を得ようとする行為そのものに他ならなかった。そして、この行為が立ち会ったもの、又、立ち会う事によって身につけたものは、神の名とは、取りも直さず、神という物の内部に入り込み、神の意(こころ)を引出して見せ、神を見る肉眼とは、同時に

小林秀雄 「本居宣長」(上)(下) 4 歌の姿

本居宣長の歌論に、歌の「姿は似せ難く、意は似せ易し」というのがあるという。これは意外に感じられることであろう。少なくとも私にとっては、受け取る者に非常な驚きを与えながら心に飛び込んでくる言葉であった。一般には、言葉の意味を掴むのは難しいが、口真似をするのは子供にでもできる、だから、意は似せ難く、姿は似せ易いと信じられているのではないか。宣長の言うことと反対のことを人は信じているのではないか。 このことは、言葉とは何なのかという本質を掴まぬ限り理解できないことのように感じられる。宣長の歌論に驚かされる者は、言葉を、ある意味を伝えるための単なる道具としてか捉えてはいないのではないか。意味を伝えるための道具であるから、道具は人まねでも使えよう、わけがわからぬ者でも道具は使えよう、そういう思い込みがあるのかもしれない。 ある歌が麗しいとは、歌の姿が麗しいと感ずることではないか。そこでは、麗しいとはっきり感知できる姿を、言葉が作り上げている。それなら、言葉は実体でないが、単なる符牒とも言えまい。言葉が作り上げる姿とは、肉眼に見える姿ではないが、心にはまざまざと映ずる像には違いない。万葉歌の働きは、読む者の創造裡に、万葉人の命の姿を持ち込むというのに尽きる。(p.317) 意味を伝えるための道具でしかないのであれば、目的が達せられてしまえば、言葉の美しさや巧みさは重要性を失ってしまう。自然科学の論文や教科書に対して感じる無機質感は、このことを現しているように思われる。 「万葉」の秀歌は、言わばその絶対的な姿で立ち、一人歩きをしている。(p.317) 非常な驚きをもって受け止められるかもしれないが、言葉はそれ自体で自立して存在できるのである。言葉というものが持つ何という奥深さであろうか。 言葉は、歌の上だけで、姿を創り出すのではない、世の常の生活の間で、交されている談話にも、その姿というものはあるのであり、その作用は絶大である(p.318) 我々は言葉の姿を感じられているだろうか。 「本居宣長」上・下 新潮文庫 小林秀雄著