コンラッド 「闇の奥」 7 クルツと二人の女

クルツを巡って二人の対照的な女性が登場する。アフリカの奥地に住む原始的な女と、ヨーロッパでクルツの帰りを一人待っていた許嫁であるが、クルツの住む二つの世界を象徴している。

クルツを連れ帰るために船へと運び入れ休ませた時、その女は現れた。クルツが引き込まれていった闇黒に住む女性は、原始的な強い生命力と自我を感じさせた。

なにか縁飾りのある縞模様の布片をゆるやかに纏い、昂然とした足取りで歩いている、ーー一定のリズムに乗って足を運ぶ度に、いかにも野性を思わせる装身具が、かすかに音を立ててキラキラ光る。昂然と頭をもたげ頭髪はヘルメットのような形に結い上げている。膝には真鍮の脛当、肱には同じ真鍮製の肱当、渋色の頬には深紅の頬紅をさし、頸には無数のガラス玉を頸飾りに下げている。(p126)


すばらしい野性を帯びた絢爛さ、狂暴な光を湛えた華麗さだった。一歩一歩悠然と踏むその歩調には、なにか不吉な、それでいて一種荘重な威厳さえ感じられた。茫漠たる悲しみの荒野を、突如として領した沈黙の中に、今や豊饒と神秘の巨大な生命の一団が、まるで彼等自身の闇黒の情熱の姿を目の当たりに見るかのように、粛然として彼女を注視しているのであった。(p126)

アフリカから戻って1年が過ぎた頃、マーロウは許嫁の許を訪れてクルツの最期を語るのである。許嫁はいつまでもクルツを慕い、喪服を着て暮らしていた。

血の気のない顔をした黒装束の女が、まるで揺曳するように薄闇の中を入って来た。喪服だった。彼が死んでから、そしてその報知があってから、もう一年以上経っていた。だが、彼女は永久に憶え、永久に嘆いているかのように見えた。(p154)

彼女にとってクルツの死は過去のものではなく、今もその悲しみの中に生きていた。クルツの死は永遠のものとなったのであった。

彼女にとっては、クルツの死はまだほんの昨日の出来事だったのだ。僕は激しい感動を覚えた、そして僕にもまた彼の死が昨日ーーいや、今この瞬間の出来事のように思えてきた。彼女と彼ーー彼の死と彼女の悲しみとを、僕は同一瞬間の中に見たとも言えれば、ーーまた彼女の悲しみを彼の死の瞬間においてみたともいえよう。諸君にはわかるだろうか?僕はそれらを同時に見、ーー同時に聞いたのだ。女は大きく一つ息を呑んだかと思うと、「私は取り残されました、」と呻くように言った。その時の僕の張りつめた耳は、彼女のこの絶望的な悲しみの調べと入り交じって、彼が最後に呟いたあの永遠の滅亡の宣告を、ふたたびはっきりと聞いたような気がした。僕は思わず自問した、俺はここで何をしようとしているだ?と。そしてなにかまるで人間の眼の見てはならない、残忍、怪奇な秘密の場にでも紛れ込んだ男のように異様な動揺を心の奥深く感じた。(p154)


彼女はクルツの荒廃も最後の言葉も知らない。彼女が「取り残されました」というとき、取り残された世界がクルツの言うように地獄であるとすると、なんと厳しい現実であろうか。マーロウは、現実のあまりの暗さ故に彼女にクルツの荒廃のことも最後の言葉も伝えることができなかった。マーロウは、クルツが直面したと同じ闇黒の苦しみと直面し一人生きて行かねばならなかった。


「闇の奥」 岩波書店 コンラッド著 中野好夫訳





コメント

このブログの人気の投稿

フレイザー 「金枝篇」 ネミの祭司と神殺し

ヴォルテール 「カンディード」 自分の庭を耕すこと

安部公房 「デンドロカカリヤ」 意味の喪失