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ピランデッロ 「月を見つけたチャウラ ピランデッロ短編集」 生への気づき

イタリアの作家・劇作家ピランデッロの短編集。市井の人々の生活を穏やかに描いている。一つ一つの短い物語には、炭鉱夫、農民、法律家、修道士など様々な人の生き様が書かれている。 この短編集に収められている作品には、死や狂気が扱われているが、死や狂気は「生への気づき」の契機であったり裏返しであったりすると思う。 表題になっているチャウラは、炭鉱で働く少し知恵遅れの青年、あまり幸福に暮らしているとは言えない人物で、夜をひどく怖がっている。彼は炭鉱夫なので暗闇が怖いわけではなく、夜の世界が怖いのである。暗闇と夜は違う、夜は暗いだけでなく、チャウラの理解を超えた力が存在する世界なのだろう。そのようなチャウラは、ある夜炭鉱の作業をする羽目に陥ってしまった。夜が恐ろしくてたまらないチャウラは、炭鉱から夜の地上へ出るのが怖い。夜の世界には何か怖いものが待っているような気がするのである。 しかし、チャウラが出口から地上に出て見ると夜空には満月がかかっていて、彼は満月に見とれてしまう。もちろんチャウラはそれまでも満月の事は知っていたのだけれど、その日に満月を見て驚いたのである。満月の存在感、美しさ、充実感、それらに今までどうして気づかなかったのかということに驚いたとき、それはチャウラが自分が生きているということに初めて気付いた瞬間であった。「生への気づき」は、医学的に生きているという意味ではなく、人間の根源的・哲学的な意味での「生への気づき」ともいうべきものである。 生活していくことだけに必死であったり、出世や世渡りに没頭したり、毎日の生活に自己満足して生きている限り、「生への気づき」に至るのは困難なのだろう。しかし、何かの契機で、例えば不死の病を宣告された時、世界は全く異なった世界に変化し、自分の生を見つめ直すだろう。そのようなときに「生への気づき」がもたらされるのである。「貼りついた死」では、死を宣告された人の苦しみ足搔く狂気のようなものが描かれている。 感受性の高い人、深く思索する人は、自ら「生への気づき」に至る。「生への気づき」の中で、信仰が揺らいでしまい、還俗(げんぞく)した元修道士の物語「使徒書簡朗誦係」は、もの悲しくも心に響く。世界に溢れる生と、人の生の危うさや不安に気づいた彼は、自分の身をどう処していいのかわからなくなった。 「木々」では、

チェスタトン 「木曜日だった男」 

ある日の夕暮れ時、それはこの世の終わりが来たような夕焼けであった、ロンドンのサフラン・パークでガブリエル・サイムはルシアン・グレゴリーと詩的な会話をしていた。グレゴリーには誰にも明かされなかった秘密があって、サイムは誰にも言わない約束の下、その秘密を聞くことになった。グレゴリーは無政府主義者であり、彼の所属する無政府主義者組織の幹部会は、曜日で呼ばれるメンバーで構成されていたが、「木曜日」と呼ばれる人物が亡くなった。欠員となった「木曜日」の新任者をこれから決めるのだという。無政府主義者達は秘密裏に武器を準備し社会を暴力で覆そうとしている。サイムは、その場に立ち会うことになり、サイムの新しい冒険が始まった。 荒唐無稽ともファンタジーとも言えるような冒険活劇で、次から次に新しい事実が現れては状況が一転する。息をつかせぬ展開に身を任せると、一気に巻末まで読み進められる。 しかし、物語の中央は冒険活劇であるが、冒頭と終わりの部分は詩的で思想的な雰囲気に満ちていて、何かを暗示している。一通り読み終わった後に、冒頭に置かれた友人ベントリーに宛てた詩を読む時、著者の心の底の感情が微妙に伝わってくるようである。 エドマンド・クレヒュー・ベントリーに   雲が人々の心にかかり、空は泣いていた。   そう、魂にいやらしい雲がかかっていた――僕らが二人とも少年だった頃には。   科学は非在を宣言し、芸術は頽廃を称め賛え、   (中略)   これは今は昔語りとなった恐怖の物語、空っぽになった地獄の物語だ。   それが語る真実を君以外の誰も理解するまい――   いかなる恥辱の巨神が人々を脅かし、だが圧しつぶし、   いかなる途方もない悪魔が星々を隠し、だがピストルの閃光に倒れたか、   追うにはあまりにも明白で、耐えるにはあまりにも恐ろしい疑問――   ああ、それを君以外の誰に理解できよう。そうとも、誰に理解できよう。   僕らはああした疑問を語り合いながら、夜通し歩き、   朝日は頭に閃くよりも先に、街路にさした。   僕らは今二人の間で、神の平和にかけて、真実を語ることができる。   そうだ、根を下ろすことには力があり、年をとることにも良さがある。   僕らはやっとあたりまえのものを見つけた――そして結婚と信条を

ヘンリー・ジェイムズ 「ねじの回転」

19世紀イギリスでエセックスにある貴族館での出来事。両親を亡くした幼い兄妹が伯父の館に身を寄せることになったが、伯父の貴族はロンドンで独身の放縦な生活をしており子供の面倒を見るのが嫌で、代わりにエセックスの館で子供を養育してくれる家庭教師を探す。幼い兄妹の家庭教師として雇われた若い女性がエセックスの館で遭遇した奇怪で悲惨な出来事を記した手紙が、数十年後に読まれるという形で物語は綴(つづ)られている。 エセックスの館には二人の亡霊が出た。二人の亡霊は、一人は身分の低い男性使用人、もう一人は前任の中産階級出身の女性家庭教師であった。二人は、生前に兄妹と共に館で暮らしていたが、主人公の家庭教師が雇われる前に死んでいた。この二人の亡霊は生前に邪悪な生き方をして身を滅ぼしたのであるが、死んだ後も兄妹を自分たちと同じ邪悪な道へ引きずり込もうとして兄妹の前に現れるのである。何か謎が隠されていて、謎を取り巻くように物語は流れていく。 この作品は、極めて巧緻を尽くした技法によって描かれている。物語は家庭教師の手紙を通じて描かれるのだから、家庭教師の目を通してのみ様々なものが読者へ提示される。つまり間接的にしか家庭教師以外の登場人物の会話は聞けないし、主観を通した後にしか登場人物の行動は見ることができない。薄曇りの窓硝子越しに物事を見ている、あるいは影絵を見ている感じであるが、逆に家庭教師の心理は直接的に読者の目や心に訴えてくる。2重の意味で家庭教師の心理を受け止めながら、起こっていることを自分で補いながら組み立てていく必要がある。 また、手紙は別の面でも読者に努力を強いる。作品が書かれたビクトリア朝時代、教育を受けた人は不品行な恥知らずな事を口には決して出さないので、事の核心となる肝心なことが婉曲的にしか言及されない。例えば、二人の亡霊が染まった邪悪なこととは何であるかは明言されていない。このことは、登場人物の一人で家庭教師を助けるメイドのグロースさんは、邪悪なこととして盗みを口にしたことからも時代背景がわかる。邪悪なこと、実は手紙の中で明言されていないが、しかし、それは性的不品行であることが知れるのである。 卑しい身分の使用人と中産階級の家庭教師という身分の違う二人が、性的な不品行を行っただけでも当時のイギリス社会では問題であったらしい。しかも、幼い兄妹が巻き

レイモンド・スマリヤン 「哲学ファンタジー」 

数学者レイモンド・スマリヤンによる哲学コンテである。哲学に関する話題を少し滑稽な味わいで会話にして、哲学のことが身近に楽しめる本になっている。著者は、一般人を読者として据えて、哲学の教科書にあるような厳密性は敢えて無くして、一般人が容易に理解できるような表現や説明方法を心がけている。一般的な知識と論理的な思考方法が身についていれば、他の参考書を参照することも必要なく哲学を楽しむことができる。 楽しいばかりではない。著者は、哲学問題を真剣に扱っているので、一つ一つの話は読後にゆっくりと瞑想すると実は深い知的な内容であることが知れる。つまり、知的に味わい深い本でもある。 第1章に「あなたはなぜ正直なのか」という正直をテーマにした会話形式の哲学コンテである。場面は、道徳家が主催するシンポジウムで、司会(道徳家)が正直と言われている人々に何故あなたは正直なのかを問うのである。見かけは単純な問いであるが、意味の深い問いであるので、真剣に生きている人々からは様々な答えが返ってくる。 聖書を信じており、聖書に正直であるように書かれているから。  徳の高い人間でありたい。そのためには正直である必要があるから。  哲学者カントの倫理学を信じており、カントの道徳的な見解を受け容れているから。  社会のために尽くしたい、正直であることは社会のためになるから。  自分の名前がフランク(正直)であるから。  自分は利己的で嫌な奴だ。しかし、利己的にふるまうとトラブルに巻き込まれるが、トラブルは嫌いだ。正直にするとトラブルに巻き込まれず静かに生きられるから。  人生における自分の喜びが最大になるように生きている。正直であることは、長期的に見て自分が幸福でいられるというり理性的な根拠があるから。(彼は理性的な快楽主義者)  (前の人は快楽主義者であったが、)自分は神秘的な快楽主義者である。正直であることが自分を幸福にすると自分は知っているから。理性的な理由はなく、直感的にそうであることを知っているというところが神秘的である。自分では、合理的には嘘をついた方が幸福になれると考えているが、神秘的な理由で正直に生きている。  自分が正直であるのは、偶然のことであるから。一般的に人が嘘をつくのは嫌な相手に会ったり困った状況に陥ったりするからだが、自分は幸運

ジョルジュ・バタイユ 「ニーチェ覚書」 

本書は、ジョルジュ・バタイユが選んだニーチェの言葉を集めた覚書である。序論の冒頭でバタイユは以下のように書いている。 私は本書を、息の長い、ゆっくりした瞑想へ差し向ける。 まさにその通りだ。ニーチェの言葉の断片は、神秘的な声の響きを以て我々を思索へと誘(いざな)う。何かがきらりと輝いたのを垣間見たような気分になって、改めて見直すとそれが何なのかは判然としない、だが、何かが確かに隠れているのは感じられる。追い求めようとしても捕まえられない。その隠れている真理らしきものは、我々に深く深く考えることを求めている。答えを見つけられない思索は際限ない反芻となり、いつしか瞑想へと誘(いざな)われる。 ニーチェの思想は最良の事や最も必要とされる事を目指していて、最良に向かうことへの拒絶や躊躇すらをも一切否定しているように思える。それは、キリスト教の道徳やプラトンの思想に関してさえ、同じ態度を取っている。 本質的に、ニーチェの思想は、波頭へ人を高める。波頭とは最も悲劇的なものが笑いをそそるものになる地点のことだ。この高みに留まっていることは難しい(おそらく不可能だ)。 人生は苦難や悲しみに満ちているが、その人生をありのままに受け容れ肯定的に生きること、それが 悲劇的に生きることである。ニーチェにとって、悲劇的な生き方こそ人生肯定の最高の形式であった。そういう生き方は誰にでもできるものではない、有り余るほどの余剰の生きるエネルギーを持った者にこそ到達できる高みである。悲劇の極限に至った時に、笑いで以て人生を肯定できる者がいるとは。 「神の死」を扱った箇所、すなわち、「神の死」の恐ろしさを語る狂人を広場に集まった神を信じない人たちが嘲笑するという断章がある。神を信じない人たち、つまり無神論者達は、「神の死」が意味することを皮相的にしか理解していない。無神論者は、神は存在しないが世界はこれまで通り存在し続けるのだから何が問題であろうか、という態度である。 しかし、ニーチェは事の重大さに気づいて警鐘を鳴らしていた。「神の死」は、キリスト教の神の消滅だけを意味しているのではなく、国家、民族、人間、道徳など、我々が生きる上でその上に立脚している基盤の消滅を意味するとニーチェは気づいていた。人間の尊厳、価値判断の規範さえ消滅するというのである。基盤の存在しない

小林秀雄 「悲劇について」

ニーチェによればギリシャ悲劇に代表される悲劇こそは最高の人生肯定の形式であり、逆説的ではあるが、悲劇的に生きることこそ人生肯定の最高の生き方である。 悲劇は、人に何かが不足しているから起きるのではなく、人に何かが過剰であるからこそ起きるのである。人生は人が自身の力で動かすことのできない災いだとか不幸だとか死などに満ちている。人生を否定したり逃避したりして生きる者は悲劇人たりえない。嫌悪すべきことから逃げるのではなく、自身で全てを引き受けて肯定的に力強く生きる時、その人生は真の意味で悲劇的なものとなる。人生の充実があって初めて悲劇的に生きられる。 こうした運命の思想においてニーチェは、運命から目を逸らさないことを主張した以上に、運命を愛さなければならないという考えに到達した。 こうした生き方は合理的に説明がつくものではないのであり、直覚によって掴むしかない。そうであるからニーチェの思想は誤解され無視されるのかもしれない。 悲劇を観る者の感動は、人間の挫折や失敗に共感するところから生まれる。それは、悲劇の中で生じる挫折や失敗が必然のものであると感じるところにある。ここでいう必然とは、人間の自由や意志が存在しないという意味ではない。悲劇を観る者の中では、人間の挫折や失敗に外的な必然性が順応しているという感情を抱くのである。不幸も死も、そうあるべきと望まれたものとして受け取られる。自分自身の不幸を自ら創っていくということである。 「考えるヒント3」 文春文庫 小林秀雄著

Umberto Eco "The name of the rose" (ウンベルト・エーコ 「薔薇の名前」)

14世紀イタリアのある修道院にイギリス人William of Baskervilleという修道士が派遣された。Williamの目的は、神聖ローマ帝国皇帝とアビニョンにいる教皇の和解交渉の場を準備することであり、両者との中立性を理由に選ばれたその修道院で教皇側使節と事前交渉を行う使命を帯びていた。ところが、修道院に到着したときWilliamは失踪した馬について見事な推理を披露したことから、修道院内で直前に起きた若い修道士の不可解な死についての捜査を修道院長から依頼されたのである。Williamによる捜査は7日間に渡ったが、その間にも修道士が次々と命を落としていく。 Williamは、ドイツ人Adso of Melkという名の若き見習い修道士を伴っていたが、物語は後年Adsoがラテン語で羊皮紙に書き残したものを現代の著者が発見して翻訳したという設定になっている。Adsoは物語の中で重要な役を受け持っており、Williamでは近づきえない非聖職者や下層の民との自然な交流を物語に持ち込んでくれるのである。社会の下層に生まれキリスト教の異端派に属した者たちが宗教の名で社会に対して暴力をふるう姿や、すでに修道士という立場にありながら呪術を使う姿などが描かれていく。 修道院には荘厳な造りの図書館があった。三角形の窓、4つの塔、7角形や12角形がちりばめられた構造、それはキリスト教で重要視される、3(三位一体)、4(福音書)および3と4の和や積を表していた。幾何学的な美とともに神学的な意味を重ね合わせた完璧で荘厳な建造物である。 当時、化学・数学・哲学など先端の学問は、アラビアや古代ギリシャの文献からもたらされおり、修道士たちはアラビア語やギリシャ語からラテン語へ翻訳しながら写本していた。この修道院でもアラビア語やギリシャ語から最先端の学問が導入され知識が蓄積されていった。その写本蓄積はヨーロッパ世界に名を馳せており、各地から学問を志す修道士たちが集まってきていた。現実世界と同様に、この物語でも書物、図書館は重要な役割を果たしている。 Williamが調べてみると、死んだ修道士たちは写本作業に従事しており、そのうちの一人は奇妙な挿絵さえ書き残していた。修道院にある図書館に何か事件を解明する鍵が隠されていると思われたが、図書館の書庫は正副の図書館員2名以外には入るこ

キケロ 「老年について」

キケロ(キケロー)は、古代ローマの共和制期末の政治家でラテン語の名文筆家としても名を残した。キケロの活躍した時期は、丁度カエサル(シーザー)が混乱していた共和制の政治を帝政によって治めようと体制移行を進めつつあった時期とも重なっている。 共和制を支持してきたキケロは政治的には失脚し、失意の中自らを慰めようとこの作品をまとめたかもしれないという。 この作品で、キケロは、キケロが敬愛する共和制政治家大カトーを主人公に据えて雄弁に語らせた。大カトーが生きていた時代に舞台は設定され、聴き手に小スキピオ(スキーピオー)とラエリウスという有能な若い武人でもある政治家が置かれている。小スキピオは、大カトーと義理の親子の関係にもある。  小スキピオとラエリウスは、老年という重荷は人に共通の悩みであるというのに、大カトーは老年を少しも苦としていないように見受けられるがその理由は何か教えてほしいと問うのである。  大カトーは、人が老年に至ろうとも、徳を実践していれば人生は充実し活力あるものにすることが可能であることを力強く語る。そして、老年が苦痛に感じられる理由を4つ挙げて、それを一つ一つ反駁していく。 老年は、第一に公の活動から遠ざけること、第二に肉体を弱くすること、第三にほとんど全ての快楽を奪うこと、第四に死に近いこと、が重荷の理由として挙げられる。  第一の理由には、老年に至っても経験と見識では若いものより優れたものを保てるのであるから、老年と雖(いえど)も公の活動に携われるのであると。  第二の理由には、病に対すると同じように老年に対しても戦うという。老年はある日突如として現れるのではなく、何十年も前から訪れるのがわかっているのだから、良く準備を怠らずに置くべきだという。  第三の理由には、快楽は人にとって有害なものであり、また知恵と理性では退けることができないものでもあるが、老年によって快楽が遠ざけられるとしたら、それは良きことであると。  第四の理由には、青年にも老年と同じく死は臨んでいるのだが、青年はそれに気づかない、また老年は自らの役割を少しずつ終わらせ機が熟すのを待つのであると。 生きるべく与えられただけの時に満足しなければならぬ。 しかし、大カトーによって語られた老年は誰にでも訪れるのではない。青年期に志を持っ

ペトラルカ 「無知について」 人間中心主義へ

ペトラルカが活躍したのは、中世が終わろうとし、 ルネサンスが芽吹き始めた時期である。 ルネサンスの芽吹きの一つがペトラルカだと言っても過言では無い 。 中世ヨーロッパにはアリストテレスの著作が広く知られ、 知識人にとって学問中の学問と云えばアリストテレスを基にしたス コラ哲学を指していた。 彼ら中世知識人はアリストテレスを神を扱うように高い位置に置い て、アリストテレスを無批判に盲信していた。 アリストテレスの名前だけ唱え、 アリストテレスの考えから逸脱したことを話して自分でも気づかず にいるようなことさえあった。 ペトラルカは、早くからプラトンの著作を知り、 プラトン哲学の素晴らしさを理解していた。プラトンを重んじ、 アリストテレスを神のようには扱わないペトラルカは、 当時の知識人から見れば、「無知」な人間であった。 ペトラルカは、友人4名に「無知」であると訴えられ、 その反論のためにこの書簡を認(したた)めた。 友人たちはベネチア市民であって大学で学問を修め知識人を標榜し ていたようだが、 ペトラルカのような深い知性に裏打ちされた学識を持っていたわけ でもなかった。ペトラルカの勝ち得ていた名声の点でも、 彼らに望むは難しく、嫉妬を感じていたようで、ペトラルカを貶( おとし)めようとしたのがことの発端のようである。 ペトラルカは友人たちから訴えられた点について反論を書いたが、 それは容易(たやす)いことであった。そうであるから、 書簡は当初の目的である友人への反論を超え出て、 知識とは知性とは何かと言う議論へと展開されて行く。 ペトラルカの知性を目の当たりにできる。 ペトラルカは、 アリストテレスを否定しているわけではなくその優秀性を認めさえ しているが、 神のような高い位置から降ろして他の思想と同等に批判的に吟味し ようとしている。 アリストテレスは、徳は何であるかを定義し教えてくれるが、 徳をなすべく学ぶ者の心を励まし燃え立たせてはくれないと、 ペトラルカは言う。いくら知識が増えたとしても、 意志も魂も元のままでは意味が無いのではないかと言うのである。 徳とはなにかを知っても、知ったその徳を愛さないなら、 なんの役に立つでしょう。罪とはなにかを知っても、 知ったその罪を憎まないなら、なんの役に立つでしょう。 知識中心、 権威中

プラトン 「ソクラテスの弁明」 真直ぐに生きること

哲学者プラトンは、彼に対して強い影響を与えた師ソクラテスがいかに断固とした決意で裁判に臨み力強く自己の信念を貫いたかを記している。アテナイ(アテネ)市民から告発されたソクラテスは、裁判において毅然として反論し、自分自身が一生を賭けて貫き通してきた信念を曲げようとはしない。ソクラテスの弁明の言葉のみが記されているだけであるが、読む者の目の前には、ソクラテスという傑出した人物の確固として揺るぎない人格が現出する。 そもそも、ソクラテスは何故アテナイ市民に告発されたのであろうか。 ソクラテスの友カレイフォンはデルフォイに赴き巫女より神託を受けた。すなわち、その神託によればソクラテス以上の賢者はこの世にいないというのである。この神託を聞いたソクラテスは、自分がそれほど賢明でないことを自覚していたのであるから、この神託の意味するところが何か他にあるのではないかとひたすらに自問した。そして、神託の反証を確認することで自分を納得させる手段と考え付いた。それは、世に賢者と言われる人々を一人一人訪ね歩き、ソクラテスよりも賢明な者を探し当てれば、神託の反証となるというわけであった。 人々には賢者と見え自分自身でも賢者だと思い込んでいる者たちにソクラテスは会って対話するのだが、彼らが賢者ではないことに気づきそのことを本人に気づかせようと試みるのであるが、この結果、ソクラテスは賢者と思われている人々(それはアテナイの有力者でもあった)から憎悪を受けるのである。ソクラテスは詩人や識者や工芸家の許をも歴訪するが、さらに憎悪を受けるのみであった。詩人や工芸家は、その技とする技芸に熟練しているが、その作品の真義を知らなかったのである。こうして、ソクラテスは多くの者から憎悪を受け危険な敵を作ってしまった。それが告発に至るのである。訴状には、「 ソクラテスは不正を行い、また無益なことに従事する、彼は地下ならびに天上の事象を探究し、悪事をまげて善事となし、かつ他人にもこれらの事を教授するが故に 」と書かれていた。 ソクラテスは、この穿鑿から何を得たのか。神託は正しかったように見えるが、ソクラテスは次のように解釈した。すなわち、人間はソクラテスのような賢明でない者よりも更に劣る存在であり、神のみが真に賢明であるのだということである。 「人間達よ、汝らのうち最大の賢者は、たとえばソク

マイケル・サンデル 「これからの正義の話をしよう」

正義とは何であろうか。誰もが何かしらのイメージを持っていると思うが、それを言葉で形にするのは難しいのではないか。また、思弁的に論理的思考によって、正義を考えることはできるであろう。しかし、その方法では、毎日個人が体験する自身の周囲で起きている複雑で泥臭くて奥深い人生そのものからは遠く離れてしまっている。自身は安全な場所に身を隠しながら、高尚かもしれぬが意味を失ってしまいがちな問いをしているに過ぎなくなる。正義とは何かという人生にとって非常に大切な問いが、輝きを失ってしまうのである。正義とは、根源的なものでもあり、我々の日常の行為にも深く関わっているものでもあるのだろう。 この著作では、正義とは何かという探求が、我々が身を委ね又構成もしている社会はどうあるべきかという形で深められていく。例えば、2004年アメリカでハリケーン・チャーリーによって甚大な被害がもたらされたとき、一部では便乗値上げが行われ、自由市場はどうあるべきかという議論が巻き起こった。被害にあって困窮する人々を狙って法外な価格を請求するなどの行為が見られ、そういう便乗値上げは法律で禁ずるべきだという意見と、あくまでも自由市場を守るべきで便乗値上げは自由市場の一つの形であるという意見に分かれ大きな議論になった。 法律はいかにあるべきか、社会はいかに組み立てられるべきかというテーマにもかかわっている。つまり、これは「正義」にかかわる問題なのだ。これに答えるためには正義の探求をしなければならない。 (中略) 便乗値上げをめぐる論争を詳しく見てみれば、便乗値上げ禁止法への賛成論と反対論が三つの理念を中心に展開されていることがわかる。つまり、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の促進である。これら三つの理念は、正義に対して異なる考え方を提示している。(第1章) 例えば便乗値上げの問題を考えるとき、我々は正義のことを直接意識しながら議論はしていないかもしれない。それよりは、被害者の幸福のことを第一に考えるべきだとか、自由市場原理はいかなるときでも守られるべきだ、というようなことを考えているだろう。 便乗値上げによって、社会全体の幸福が向上しているようには見えない。高い価格が設定されたことで、商売の機会を感じた業者による供給の増加が社会へメリ

菊池良生 「神聖ローマ帝国」 王の霊威

神聖ローマ帝国とは何かという問いに答えるのは非常に難解である。神聖ローマ帝国を定義するのは難しい。そもそも「神聖」とは何に由来するのか、国土がドイツにありながら「ローマ」が国名に冠されているのは何故であろうか。この難解な問いへ解りやすく答えようとする一つの試みが本書である。軽いタッチで、史劇のように描写されており、神聖ローマ帝国と呼ばれた地域の歴史の大きな流れを把握できる。 19世紀後半のドイツ歴史学派によると、古代ローマ帝国の後継国家である「神聖ローマ帝国」は、962年オットー大帝によって開かれ、千年に渡りドイツ民族が支配してきた輝かしい国であるとされた。19世紀後半といえば、多くの小国家や自由都市に分裂状態にあったドイツがプロイセンによって統一されようとしていた、ドイツ民族主義の高揚していた時期であった。 ところが、ドイツ歴史学派による主張は誤りであるという批判が20世紀初頭に起こった。ツォイマーという学者が「神聖ローマ帝国」における帝国称号の変遷史を丁寧に調べ、歴史学派の主張がいかに非歴史的であるかを暴いている。 たとえ、神聖ローマ帝国が歴史学派が言うような確固とした国でなかったとしても、神聖ローマ帝国の歴史を辿ることは、ドイツを中心とした中央ヨーロッパを知る上で重要なことだと思う。 神聖ローマ帝国の歴史を本書に従って辿っていくと、国政の変遷というよりも、国王に名を連ねた幾人もの英雄達の苦闘を見ていくことになる。神聖ローマ帝国の前身から数えると、ピピン(カロリング朝)、カール大帝(西ローマ帝国復興)、コンラート1世、オットー大帝、ハインリッヒ4世(カノッサの屈辱)、フリードリッヒ1世(バルバロッサ)、フリードリッヒ2世、カール4世(金印勅書)、カール5世(ハプスブルク家)などが挙げられる。いずれも歴史に名を残している英傑である。 神聖ローマ帝国を知ろうとすると、ローマ帝国滅亡後のフランク王国にまで時代を遡ることになる。フランク王国は、現在のフランスを中心とした地域にゲルマン系のフランク族が建てた国で、メロビング家(メロビング朝)が代々王の座を襲ってきた。しかし、次第にメロビング家の力は衰退し、実際の権力は宮宰のカロリング家へと移っていったが、751年カロリング家のピピンは正式に王権を手にしカロリング朝を建てたのである。ピピンの長男カー

トッド&クルバージュ 「文明の接近」

「文明の衝突」、つまりイスラム圏は本質的に世界のその他の文化圏と相容れない性質を持ち近代化を拒絶して分離され衝突を繰り返しているという考え方であるが、本書は「文明の衝突」を否定し、イスラム圏といえども近代化を受け入れやがては世界のその他の地域と収斂していくという考え、「文明の接近」(「文明の収斂」と言った方が適切かもしれない。)を提示するものである。イスラム圏が近代化していくという非常に興味深い分析は、人口学的な方法論によって論証される。 イスラム教の影響にも関わらずイスラム圏が近代化するということは、世界はいずれ同質な方向へと収斂していくのではないか、というのが著者等の主張である。これは全く同質の社会が現れるということではなく、ヨーロッパ社会のように、細かく見ると多様であるが、しかし大きな意味では同質である社会、そのような社会が到来することを著者等は予想している。 人口学的には近代化とは出生率(合計特殊出生率、一人の女性が一生に産む子供の数)の低下を意味する。近代化が完了したヨーロッパや日本などの国々を見ると、以前は出生率が6を超えるような高い数字であったものが、近代化のプロセスを経て出生率が2あるいはそれ以下の数字に落ち着いている。 地球上のイスラム圏全体にわたって人口学的な調査をした著者等の研究によると、イスラム圏では程度の差はあるせよ人口学的な近代化が始まっている。イランなどに至っては出生率が2に近い値になっている。本書では、地球上のイスラム圏全体(中東、南アジア、東アジア、ロシア圏、アフリカなど)を地域ごとに詳細な統計データを出して、どの国でどの程度の人口学的な近代化が進んでいるか、その進展度の理由は何かを綿密に分析している。 出生率の下落は単なる数字の問題ではない。近代化プロセスによって社会的、文化的な変革と個人の心的な変革が起こり、その結果として近代化の移行期にある国々では社会的な混乱(移行期危機)が生じやすい。 ヨーロッパ社会の近代化は人口学的にどのように理解されるのであろうか。ヨーロッパでは、非常に長い時間がかかって識字化、脱キリスト教化、出生率の低下が起こったが、これらが原因となって当初はキリスト教宗派別(特にカトリックとプロテスタント)の各地域間の差異が際立つのであるが、次第にヨーロッパ全体が収斂に向かっていくというプロ