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志賀浩二 「現代数学への招待」 多様体の魅力

現代数学は、多様体という場の上で展開されているのだという。本書は多様体とは何かを説明しながら、現代数学あるいは数学そのものの意味を考えていく。普通の数学書では、意味を取り上げることは少ない。それは、意味を考えることには著者の主観や意思が入り込む余地があるため、厳密さや客観性を失うことを専門家が気にするためである。しかし、本書は数学の入門者向けに書かれたものであり、著者は大胆に自分が考える多様体や現代数学の意味を簡明に伝えていく。客観性や厳密さが失われることによって誤解や曖昧さを与えてしまう危険があるが、それ以上に入門者に道標を与え数学の深さ面白さや楽しさを知ってもらうことに、著者は重要性を見出している。その精神に本書の一番のがあると思う。 実数の説明から数直線という1次元空間が導かれる。空間は、点の間の距離が導入されることによって、その構造が考察できる。距離が導入されたことで、点の近くにある集合が定義され、集合によって連続やコンパクト性など空間の性質を明らかにできるのである。 距離を抽象化した近さの概念(位相)が説明される。歴史的には長い時間と多くの人々の努力が必要であったようであるが、空間内での距離はいかにして測られるのか、空間内に含まれる開集合こそが距離を与える基本構造とされた。この抽象化の考え方を進めていくと、ある基本性質を満足する開集合によって近さの概念が導入できる。こうして得られた抽象的な空間を位相空間という。位相空間の概念は、幾何学的な概念というよりも、集合の概念に近い。抽象化された要素からなる集合にも近さの概念が導入できて、要素間の遠い近いを定義できるのである。 位相空間は、距離という概念を抽象化しているので、幾何学的な距離空間(ユークリッド空間)以外の多様な集合を含んでおり、それ自体で興味深いものであるが、更にユークリッド空間を考察しようとした場合には位相空間の概念だけでは不足するのである。ユークリッド空間は、単なる近さの概念だけは語れず、もっと深い世界がそこには存在している。 ユークリッド空間を解析しようとするときに近さの概念以外に必要なもの、それは、微分の概念である。著者が直感的な言葉で語っているのだが、距離は空間内のある点の周りに近さの概念を与えるが、微分はそれに加えてある点の周りの深さのようなものを与える。微分で測れるの

コンラッド 「闇の奥」 心の闇

ロンドンのテームズ川で、船上で暇つぶしをする男たちに、船乗りマーロウは自身が過去に行ったアフリカ奥地の話を始める。 著者コンラッドの分身とも言える主人公マーロウは、帝国主義時代のベルギーが支配するアフリカ奥地コンゴを訪れたのだった。 マーロウが雇われた会社は、象牙をアフリカの奥地から集めて売りさばいていた。マーロウが最初に着いた中央出張所では、原住民の黒人たちが会社の労働力として使われ、搾取されていた。黒人たちは周辺の村から徴集されて、容赦なく酷使され、体が弱るとそのまま道ばたに放っておかれた。彼らは、ヨーロッパ人に酷使され疲弊した体を藪の中に横たえ死を待っていた。 さらに奥地へと出発するまでの中央出張所で過ごす日々。 「アフリカ奥地の静寂は、穏和で平和なものではなく、神秘的で測り難い奥深さがあり、その静寂は、マーロウに自分自身への内面へと思いを向かわせる力を持っていた。「闇の奥」という題名がアフリカの奥地を示していると同時に、心の奥をも暗示していることがわかる。アフリカの過酷な自然の中では原住民でさえ健康な状態でいられないし、ましてやヨーロッパから来たような男たちは1、2年で病に倒れてしまう。過酷な環境に体が順応できる男でさえ、文明的なものの一片もない人の姿も見えない完全な静寂の中では正気を失ってしまいがちである。 出張所の支配人は、クルツという男のことをしばしば口にした。中央出張所から「さらに奥地へと行ったところにある出張所の責任者で、会社の上層部が一目をおく有能な人物であった。そのクルツのことを心配しているのである。 マーロウは、自身の内面を見つめると同時に、クルツという男への関心も高まっていった。アフリカにまで流れてくる金目当ての男たちとは違い、クルツが有能であるばかりか志さえも優れた人間であったからである。 マーロウや中央出張所支配人たちは、船で河を遡り、クルツが支配する奥地出張所へとたどり着いた。途中、船は河岸の叢林から矢で攻撃してくる原住民たちに襲われ死者まで出す犠牲を出しての到達であった。 奥地出張所では、クルツに心酔するロシア人青年が待ち構えていて、マーロウたちを出迎えてくれた。ロシアの青年は、病で小屋に伏せているクルツについて語り出す。彼の語るクルツ像は、恋愛や思想を語る高邁な姿から、人間性が荒廃

成井透 「罪の量(かさ)」 人の罪の重さ

四日市公害訴訟の様子を企業の側にいた人間の視点から描いた作品。四日市公害は、石油コンビナートにある化学系工場から排出される有害ガスの影響で、周辺住民に喘息をもたらした被害である。喘息は悪化すると呼吸困難に陥り、死に至ることもあるし、呼吸困難の症状があまりにもひどいので自ら死を選択する人さえ出たのである。 著者成井透はキリスト者であり、公害を出した企業の内部にいた人間でもある。物語に出てくる様々な立場の人間の気持ち一つ一つ全てが、著者が当時抱いていた複雑な心境を反映したもので、著者の偽らざる気持ちが登場人物全てを通じて著されているように感じられた。 企業の中にいて法律に従って業務を遂行していた多くの者に罪の意識は無かった。しかし、自分たちの企業が原因で多くの人々が病に侵され死に至る事実を知ったとき、ある者はその現実を否定し、ある者は現実から目を背け、ある者は良心から企業や自分自身の責任を責める。経営者として出世を狙う者には、問題を先送りし、その場をしのぎきることしか眼中にない。法律を守っていれば自らの起こしたことに責任にはないと信じている、あるいは信じようとしている。企業に勤める者の家族は、現実を認めようとしない。 企業の中で内部告発をしようとする者は、すでに企業から監視されており労務対策と称して圧力がかかったり遠方へ転勤になったりして、除外されていく。物語の中では、内部告発候補者が企業の下請け企業を介して殺害される事件さえ起きる。 被害にあった者達は、自分には一切何の落ち度もないという姿勢で企業を厳しく責めたてる。被害者を救済するという立場で参加する弁護士や共産党系活動家は、公害を起こした者には一切の人権はないとでもいうように、企業の担当者を締め上げる。中には精神障害を起こして病院へ送られる者すら出てくる。それでも責め立てた弁護士や活動家は何も問われないのである。 ここに登場する者たち全て(それは被害者も含めてである)の行動は、狂っていて、どこかに間違った点があるように感じられる。生きる者全ては何かの罪を背負っているということであろうか。 それは、読者である自分自身にも例外ではなく、自分も何かの罪を背負っている。石油コンビナートの恩恵を受けているのは自分たちである。恩恵だけ受け、苦難は人に押し付けて、公害を起こした企業を責める側に回って平気

プラトン 「プロタゴラス」 徳

プラトンの師ソクラテスとソフィストのプロタゴラスとの対話が描かれている。舞台は、紀元前5世紀ペルシャ戦争がギリシャ側の勝利で終結し、黄金時代を迎えたアテネである。政治的にも経済的にも最盛期を迎えたアテネには、古代ギリシャを取り巻く世界各地から先進的知識人が集まってきており、その中にはソフィストと呼ばれた人々も含まれていた。 ソフィストは、知識人であり、啓蒙活動を行い、先進的な教育をアテネの人々に施していた。啓蒙活動を真面目に行っていたわけだからプラスの面もあり、我々が抱く詭弁家というマイナスのイメージは、ソフィストの活動の一面に過ぎないのだという。 古代ギリシャ人たちは、人の持つべき優れた能力を徳(アレテー)と呼び、徳を身につけることを望んでいた。ここでいう徳とは、ものが持つ固有の優れた性質を意味している。人以外も徳は持っており、例を挙げれば、馬が速く走れる能力や、ナイフの切れ味のことである。人に当てはめると、道徳的な高尚さ以外にも、勇敢さ、知性なども含まれていた。 アテネは直接民主制を実現しており、この社会や政治制度で成功するためには優れた徳を有する必要があった。このため、アテネの人々は徳(アレテー)を学び優れた人物になって、社会的に成功しようと欲していた。中でも民衆を動かす弁論や演説の能力は重要視されていた。ソフィストは、徳は教えることができるとし、人々に教育を施していたのである。 ソフィストが自ら賢者を名乗り、自分が持っている知恵を授けることで高い授業料を人々から取っていたのに対し、ソクラテスは自らが無知であることを自覚していて、人々との対話によって知恵を求めようとしていた。ソクラテスの姿勢は、ソフィストの姿勢とは全く異なっていたのである。 ソクラテスは、徳は簡単に教え伝えることができるものなのか疑問を持っていた。また、もしも徳が簡単に教えられないとすると、一体ソフィストとは何をしているのか、ソフィストは何者であるのか、と疑問を持っていた。そこで、ソクラテスは友人とともにプロタゴラスを訪ね議論を始めるのである。 人間が共通に持つ徳(アレテー)というのは存在するのだろうか。古代ギリシャ人は知恵、勇気、節度、正義、敬虔が徳であると考えていた。ソクラテスは、徳は教えることができるのか、徳とは何かをプロタゴラスとの対話によって探究していく。

上野修 「スピノザ『神学政治論』を読む」 

スピノザ(1632-1677)はオランダに生まれたユダヤ系(家族はスペイン絶対主義のユダヤ人迫害から逃げてきた)の人で、「エチカ」の著者として知られている。本書は、スピノザが著した「神学政治論」を概説している。「神学政治論」は、発表当時のオランダ共和国において大きな論争を引き起こし、キリスト教会からは「前代未聞の悪質かつ冒涜的な書物」とののしられ売買禁止になっている。 スピノザは、著書「エチカ」において、聖書の人格的な神とは全く異なる神の存在、「神あるいは自然」と言われる、を考えていた。「 われわれのいるこの世界がそっくり『神』であって、銀河も地球も人間も石ころも、みなこの『神あるいは自然』の具現である 」。スピノザの考えは、神という言葉が出てくるにも関わらず、唯物論や無神論のような印象を人々に与えずにはおかない。 そういう「神あるいは自然」を説くスピノザが書くのであるから、「神学政治論」は無神論の主張かというと、そうではなく、聖書の権威を擁護しているように読めるのである。得体のしれない作品である。その得体のしれない不気味さは発表当時オランダにおいても知識人たちに感じられ、この作品は計算された偽装による無神論の擁護ではないかと攻撃もされている。 神学政治論を議論するためには、当時の社会状況を理解しておく必要がある。オランダは16世紀半ばにスペインと独立戦争を戦い、16世紀後半にはオランダ共和国(ネーデルランド連邦共和国)の成立を宣言し、17世紀はオランダの最盛期であった。首都アムステルダムは、世界の金融・商業の中心地として栄え、自由と寛容はオランダ共和国の理念となった。オランダは、複数のブロックや集団に分かれて、主流派が存在しない連合国家になっていたこともあり、自由が許されていた。 しかし、過度の自由を敵視する人々も存在した。キリスト教プロテスタントのカルヴァン派教会でも、正統派とリベラル派に分かれて論争をしていたが、正統派の人々は過度の自由を敵視していた。カルヴァン派は予定説と言って、神によってあらかじめ決められているという教説を取っていたが、リベラル派は人間の自由はある程度許されるとしており、両派は対立していたのだった。 人間の自由は、理性の自由な活動につながるが、理性によって探究され発見された結果が聖書に書かれた内容と矛盾する事が出てくる

メルヴィル 「ビリー・バッド」 正と悪

物語は、フランス革命の後、海はまだ帆船が走る時代の話である。 ビリー・バッドは、商船ライツ・オブ・マン号(「人間の権利」という意味)の船員であったが、戦艦ベリポテント号(戦闘に強いという意味)に強制徴用され、フォアトップ・マン(フォアトップ・マストを操作する船員)として英国海軍の水兵となった。ビリーは、容姿美しく逞しく性格良好な青年で、商船においても人気者であったが、戦艦に移ってからも同様に船員達から好感を持って迎えられた。 しかし、戦艦には、ビリーを快く思わない者、先任衛兵長ジョン・クラガードがいた。先任衛兵長の役割は、古い時代には長剣・短剣の指導であったが、銃や大砲の時代となって元の役割は終わり、代わって船の警察署長のようなものになっていた。クラガードは、その地位に物を言わせて目に見えない影響力を行使しては部下を操り、平水夫に不快感を与えるような人物であった。そんなクラガードがビリーを嫌ったのである。 クラガードは、表向きはビリーに対して物柔らかで好意を示す態度で接していたが、裏では部下を使って陰謀を企て、ビリーを徹底的に陥れる機会を窺っていた。時はフランス革命の後である、叛乱は怖れられ嫌われていた。クラガードは、ビリーを叛乱の首謀者に仕立て上げ、上官に密告して軍による裁きを受けさせる積りである。実際、クラガードは、ビリーが叛乱の首謀者であるとして艦長ヴィラへ報告した。 ヴィラという人は海軍軍人としての才能を持った上に、軍人としては珍しく知性的でもあったが、彼が艦長として1個の軍艦を統率できたのは相当の人格者でもあったからである。つまりヴィラは、人徳の人であり、理性的な判断ができる人でもあった。 艦長ヴィラは、クラガードからビリーが叛乱を起こそうとしていると報告を受けたとき、その言葉を信じなかった。それで、ヴィラは、ビリーを艦長室へ呼び、ヴィラとビリーの目の前でクラガードに告発の説明をさせたのであった。艦長の前でクラガードは告発を繰り返した。ビリーは、純粋無垢な青年であるが知性的ではない。最初その告発が理解できなかった。ビリーは次第に自分の置かれた立場がわかってきたが、能弁でない、いやむしろ言葉に詰まるタイプであった彼は告発に対する反論の言葉が口から出てこなかった。ビリーはクラガードを殴り倒し、クラガードはそこで息絶えた。 ヴィラは、目の

トーマス・マン 「詐欺師フェーリクス・クルルの告白」(下) 

トーマス・マンは、自己の人間洞察の目を通して、表からは窺い知れない心の奥底に深く沈んでいる心情の機微を掬(すく)い上げて、主人公フェーリクス・クルルに人間とは何を考えているかを見事に語らせている。卓越した語りの力強さ、人間洞察の奥深さに圧倒されつつも語りの世界へと引き込まれていく作品である。 フェーリクス・クルルは、パリの高級ホテルのエレベータボーイとして働き始めたが、典雅な身のこなしと人を扱う才能、人に好感を与えずにはおかない輝くような容姿をマネージャに認められ、ホテルのレストランで給仕するボーイに昇格した。フェーリクスの持つ才能がこれまで以上に発揮された。 仕事の合間にサーカスを見に行ったことがあった。サーカスの中心は、空中ブランコを演じる若い女性アンドロマシュであり、フェーリクスは彼女に心を奪われ崇拝に近い感情さえ抱いた。彼女の超人的な業(わざ)、彼女は地面に安全ネットを張らないままに空中ブランコを演じ続けた。1つのブランコで飛び出していくと空中で別の方向から来るブランコに寸分違わず飛び移り戻ってくる、微小な狂いや気持ちの揺れさえ許されない業であり、もしブランコの代わりに空を掴んだら死が待っている。とても人間が成していることとは思われなかった。 果たしてアンドロマシュ(それはつまり人間の中で、超人的な技能をなしたり、死と隣り合わせに生きる者達)は、人間的なのだろうか、とフェーリクスは問うている。彼女が普通の母や娘として生活しているのを想像するのは愚かしいことだという。母や娘として生きる人は、空中ブランコはしないものだし、多分できないのだろう。普通の者が愛や生活に使うエネルギーを、こういう超人的な者達は、彼らの業(わざ)の中で使い果たしてしまうから、普通の生活はできないないのである。 レストランで紳士淑女あるいは貴族の家柄の人々と給仕として会話しサービスをするようになってから、一人のルクセンブルクから来た青年侯爵ルイ・ヴェノスタと知り合った。ヴェノスタ侯爵は、ソルボンヌでの法律の勉強を途中で投げ出し、パリに絵の勉強をしにきていた。ルイ・ヴェノスタは、パリでザザという女優と身分違いの恋愛関係に落ちていて、そのことをルクセンブルクの両親に咎められ、ザザをパリに残して(貴族の子弟が世間勉強のために行う)世界周遊旅行に出ることを強要されて困惑してい

トーマス・マン 「詐欺師フェーリクス・クルルの告白」(上) 人間を語る魅力

題名から想像しがちであるが、この作品は、詐欺師が人を騙(だま)して生きる華麗な生活と挫折を綴った物語ではない。詐欺師とは、他人を騙(かた)って自分以外に成りすまし生きる者であるが、その行為故に自分自身のアイデンティティが希薄あるいは空虚であり、自己のアイデンティティを求めて生きる存在を象徴している。トーマス・マンは、自己の人間洞察の目を通して、表からは窺い知れない心の奥底に深く沈んでいる心情の機微を掬(すく)い上げて、主人公フェーリクス・クルルに人間とは何かを見事に語らせている。卓越した語りの力強さ、人間洞察の奥深さに圧倒されつつも語りの世界へと引き込まれていく作品である。 フェーリクスの容姿は、生まれながらにして人間的魅力に満ち溢れ、それは内面から輝く光に照らされているようで、高貴な雰囲気さえ漂わせている。しかし、フェーリクスは家族の誰とも似ていないし、一族の先祖に似た者はおらず、彼一人が突然こうした恵まれた姿を与えられたのであった。 容姿だけでなく、心の目も鋭く人生の真実を見抜き、自分自身が貴顕を有していることにも気付いていた。 私はもっとも繊細な木から刻み出された 自分が貴顕の存在であることを知っているフェーリクスは、自分自身にこう問うている。世界を小さいものと見るべきか、大きいものと見るべきか。世界を小さいものと考える態度は、他人の幸不幸を顧みず自らの描いた計画の通りに無慈悲にことを進める支配者や征服者に見られる。彼らは、世界をチェス盤のようにしか見ず、自分のことしか考えていない。 逆に世界を大きいものと見る態度は、人間を小さな存在と見做し、人生で何かを成す事を早くから諦めさせてしまう。無関心と怠惰に沈み、世界へ働きかけるよりも隠遁生活を好むようになる。 フェーリクスは、世界を大きいものと見ながら肯定的に生きる。世界は大きいのであるから、多くの魅力あることや多くの可能性に溢れている、それに働きかけて生きようとするのである。 愛についても問いかける。動物的な愛は、大きな快楽を味わう粗雑なやり方で、人を徹底的に満足させることで人を麻痺させるのだと。それは、世界から輝きと魔力を奪い、人間的な魅力も奪い、世界をつまらないものへと変えてしまうのだ。人間らしく生きるとはどういうことなのだろうか。トーマス・マンは次のように答えている。

フレイザー 「金枝篇」 ネミの祭司と神殺し

イタリアの中部アリキアの町(現在のアリッチャ)から3マイルほど離れたアルバの山麓に、小さな森の湖ネミ、昔の人が「ディアナの鏡」と呼んだ湖、に聖所と聖なる木立とがあった。この古代イタリアの聖所に仕える祭司は、祭司であると同時に殺人者でもあった。 ネミの祭司は前任者を殺して祭司に就いたのであるが、自分も祭司職を狙う者に殺される運命にあった。祭司を殺す者は「黄金の枝(金枝)」を折り取ることで、祭司と闘う権利を得られ、勝てば新しい祭司となった。 アリキアの木々の下に   眠る 鏡のように穏やかな湖   その木々のほの暗い影の中で   治世を司るのは恐ろしい祭司   人殺しを殺した祭司であり   彼もまた殺されることだろう       マコーリー しかし、祭司になる者は人を殺さなければならない、祭司になった者は人に殺されなければならないという掟は、神事を司る者に相応しくない奇異なものに思われる。 フレイザーは、次のように問いかける。祭司は何故前任者を殺さねばならないのか。殺す前に「黄金の枝」を折り取らねばならないのか。 ネミの祭司の掟に関して、古典古代ギリシャ・ローマに比較すべきものはみつからない。フレイザーは、古典古代ギリシャ・ローマに先立つ時代つまり先史アーリア人の原始宗教が謎を解く鍵と考えている。しかし、先史アーリア人の宗教は、ほとんど文献が残っていないのである。そこで、フレイザーは、ヨーロッパ農民の風習や迷信こそが、先史アーリア人の原始宗教を明らかにする証言であると考える。文学(文献)は思想を前進させるがその速度は速く数世代で大きな変化が生じる。これに比べて非常に穏やかな速度でしか変わらない口頭の言葉による思想(風習や迷信)は数千年の伝統を保ち続ける。また、本を読まない(18,19世紀ヨーロッパの)農民は、文字による思想の革命からの影響を被らずにいられる。 フレイザーは、ヨーロッパ農民だけでなく、世界各地の神話・伝説や宗教行事・儀式の記録を綿密に調べていく。先にも述べた通り民間の人々の生活様式は、長年容易に変化せず、過去の儀式の痕跡が多く残されているからである。調査範囲は、広範囲で、民俗学者が収集したオーストラリア、南太平洋の島々、アジア、アフリカ各地の習俗の記録に始まり、古典学者が研究した古代メソポタミア、古代

スチーヴンスン 「新アラビア夜話」 心の闇

ボヘミアの王子フロリゼルが19世紀末ロンドンを舞台に活躍する冒険談。フロリゼルは、世界の首都として繁栄するロンドンの街で冒険を繰り広げる。 「自殺クラブ」、「ラージャのダイヤモンド」という大きな2つのテーマを7つの小物語で描いている。一つ一つの小物語は、前の小物語の続編ではあるけど、市井の人々が代わる代わる主人公として登場することで、視点が変わり、ストーリー描写にも微妙な起伏が現れ、読んでいて飽きのこない物語の仕掛けになっている。 19世紀末、世界の首都ロンドンは、繁栄すればするほど、闇の面も濃く暗くなっていたのである。「自殺」、「ダイヤモンド」というテーマは、それらは死や欲望となって人々の前に突きつけられるが、人間の心の闇につながっている。 フロリゼル王子は、酒場で周囲の人々にクリームタルト・パイを差し出す若い男性を見つける。彼は、薄弱な理由ではあるが、生きる気力を失って自殺を決意し、この世との別れに最後の馬鹿な真似をしていたところであった。クリームタルト・パイを配り終わると、これから「自殺クラブ」へ行くという。フロリゼル王子は好奇心を抑えることができず、お供の大佐の進言も聞かず、「自殺クラブ」へ同行し入会までしてしまう。 「自殺クラブ」は、生きる気力を失った人々が集まり、トランプ・ゲームで決まった者同士が、互いの自殺を助け合うところだった。楽な自殺を遂げられると聞いて集まってきた者は、人を殺す手伝いをすることになる。しかし、一度クラブへ入会した者は契約書に誓約しているので、クラブから抜けることも出来ず、他人を殺すことを拒否することも、クラブの存在を公にすることもできなかった。 物質面の繁栄が大きければ大きいほど、精神面の闇は底知れぬ深淵をのぞかせる。自殺願望が無いが、死の恐怖によるスリルを味わいたいがために「自殺クラブ」へ集うマルサス氏、彼こそは歪んだ社会の象徴的な存在である。 フロリゼル王子はあらゆる才芸に長け、人柄は人間の魅力に満ち、思慮深く、上下あらゆる階層の人々の人気を集めるほどであったが、そういう人物をしても「自殺」や「ダイヤモンド」によって道を誤るのである。最高の人をしても人の心の闇は依然として深く暗い。いやむしろ、生を最高に充実して生きている人であるからこそ、死の緊張感がもたらす刺激に魅せられ「自殺クラブ」へと自ら足を運んで