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ポール・ヴァレリー 「精神の危機」 

ヨーロッパは、ローマ帝国、キリスト教、ギリシャ文化の3つの大きな影響を受けている。ローマ帝国は、制度や法律を整備し、組織化された政治的権力機構を確立した。キリスト教によって、精神世界に大きな影響を与えられた。つまり主観的道徳観がもたらされた。ギリシャ文化には、精神の規律、つまり、あらゆる分野で完璧を追究した並外れた精神性合理性の影響を受けている。こうしてみると、ヨーロッパという概念に人々を一つに統合するものは、人種や言語や国籍といったものを超えた特徴によっていることがわかる。それは、他の地域の文明とは一線を画するものである。 その偉大なるヨーロッパ文明の一翼を担っていた者、偉大さを理解していた者、文明を築くのに気が遠くなるような年月と努力と偶然とが必要なことを理解している者、それら知識人にとって、ヨーロッパ自らが第1次世界大戦をもたらし、自らの社会を壊滅させるという野蛮な行為に至ったという事実は信じがたいことであった。これほどの文明にしても、過去の文明と同じく滅亡への道を歩かねばならないのか。これほどの文明と信じていたが、これほど未開の者のように振舞う野蛮な者であったのか。 我々文明なるものは、今や、すべて滅びる運命にあることを知っている。 ヨーロッパ文明が生み出した世界大戦は、機械的なものであった。それは、人といえども資源として扱われ、国家が持ちうる資源を総動員した国家間の総力戦となった。如何に相手よりも資源を有し、それらを有効活用できるかが問題であった。人は、軍人も哲学者も市井の人も学生も同じ人的資源として扱われ、戦線へと投入されていった。戦争を何故戦うのかという精神性を失い、戦争は持ちうる資源を使い尽くすまで機械的に戦われるものとなった。人間が生み出した文明という機械が人間を資源として消耗しながら互いに戦いあう世界、まさにそのような驚愕の現実が現れたのであった。文明の動きの中枢に精神性が失われたこと、これが一番の衝撃だったのではないだろうか。まさに精神の危機に陥ってしまったのである。文明の中で、精神とその他一切の活動は切り離され勝ちであった。 そこには問いかけしか与えられていない。文明の活動において唯物的な考え方が支配的であり、物質的なものだけが対象となり精神的なものは物質の影のように扱われる世界において、精神の危機は続いており、我々

岡倉覚三 「茶の本」 不完全なものを崇拝すること

岡倉覚三(岡倉天心)は、東京美術学校の設立に深く関わり、また、日本美術院を創設した、明治期日本における美術の開拓者である。岡倉天心は、英文によって美術評論を発表している。本書は、岡倉天心が英語で書いた"The book of tea"を村岡博が訳したものであり、茶会のことに触れながら人道を語り、老荘思想を説き、その筆は芸術鑑賞にまで広く及ぶのである。 茶には不思議な魅力があって、人はこの味を愛さずにはいられない。しかし、真に茶を愛でるには、深い精神性が必要なのである。古代中国において茶は薬用飲料として知られていたが、茶が粗野な状態から洗練された域へと達するには、唐の時代精神を必要とした。8世紀に出た陸羽という人が茶道を開いたという。この当時の唐朝では、仏教、道教、儒教の考えが社会に溢れていて、汎神論的な物の見方が支配的であった。「 詩人陸羽は、茶の湯に万有を支配していると同一の調和と秩序を認めた。 」このようにして、陸羽は著書「茶経」に於いて茶道を体系立てたのである。 宋代には抹茶が流行し、新しい茶の流派が生まれたが、茶道として確立するには、道教や禅宗の教えを必要とした。その思想の真に肝要なる事は、完成することであって、完成したものではないという思想である。宋代の流派は、モンゴル帝国による侵略で中国では失われてしまったが、日本に受け継がれていく。 茶は、南宋へ禅を学びに行った栄西禅師によって1191年日本へと伝えられた。禅とともに茶の儀式も日本中へと広がっていく。中国ではモンゴル襲来で、茶道を追究する文化運動は中断していたが、日本において継続発展された。茶は単なる飲む形式の理想化という枠を超え、生きる術に関する精神性を追究する道となった。 岡倉は茶道の奥義を「不完全なもの」を崇拝することだと言い切っている。 茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。 「不完全なもの」とは何であろうか。茶会に於いて、参加者たちによって何か完全に近いものを成就しようと試みられることのようである。道教に於いては、「完全そのもの」ではなく、完全を求める過程に重きをおいている。例えば次のようなことを考えてみる。茶道に於いて「完全そのもの」を目