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メルヴィル 「書記バートルビー」 自らへの問い

物語を語る「私」は、安楽な生き方が一番であるという「崇高な信念」を抱いて生きてきた弁護士である。お金儲けが「崇高な信念」につながるのである。彼には、内省、精神的な生活はない。物質的な生活を追いかけている。 そんな彼の事務所に、大きな仕事が入り、筆耕人が必要で、人を雇うことになった。それで雇われたのが、バートルビーであった。最初のうち、バートルビーは、多くの書類を抱え込み、黙々と筆写した。他の事務員が癖のある者ばかりであったこともあり、寡黙によい仕事ぶりで示したバートルビーに「私」は好感を持った。 だが、「私」が、何か別の仕事、例えば読み合わせ、を頼むと、「そうしない方がいいと思います。」と断って、自分の机がある囲いの中に閉じ籠るのであった。最初は、忙しかったこともあり、受け流していたが、何度別の様々な仕事を頼んでも、いつも、「そうしない方がいいと思います。」と断って、自分の机がある囲いの中に閉じ籠るのである。 弁護士で雇い主である「私」は当然腹が立ったし、他の同僚の事務員たちもバートルビーに不平を言うようになった。 しかし、彼ら全員に、その答え「そうしない方がいいと思います。」の意味は謎であった。そして、読者にも謎のままである。 バートルビーは、事務所に住みついていることが「私」に知られた後に、筆耕をもはや行わないと宣言する。そして、事務所を首になった後も、事務所の場所に居続け、とうとう刑務所に入れられてしまうのであった。 しかし、そうした特異なストーリーは、彼の謎や、作者の意図とは無関係のように感じられる。 唐突に「そうしない方がいいと思います。」と言われた時に、「私」が、そして読者が感じる不安な気持ち。今まで平板であった空間に突如割れ目が出来てそこから何か得体の知れないものが眼前に現れてくる、そういう何か空想的であるけど、真に迫るものが現れる不気味さ、真剣さがそこにはある。本質的なことを考えようともしないで安楽に生きている当時の人間への、そして現在にも通ずる、深い問いが隠されていると思う。 彼の答えの裏返し、何故それをするのか、という問いが常に自分自身へと投げ掛けられている。しかし、「私」は、その事を気づくことができるだけの真正な生き方をしていない。 「あなたはその理由をご自分でおわか

オルテガ・イ・ガセット 「大衆の反逆」 歴史的自発性の抹殺

世の中に氾濫するほどの民衆あるいは平均人の数、それが現代社会の特徴となっている。オルテガが本書を著した20世紀初頭に、圧倒的な民衆による社会の支配こそが社会あるいは政治に大きな問題を生じさせている根源的なものである、 とオルテガは考えていた。そして、その問題は100年が経過した21世紀初頭でも根源的であり続けている。オルテガが指摘している問題とはどのようなことであろうか。 19世紀は、加速度的におびただしい数の民衆を生み出していった。民衆の生がいかなるものであったかというと、最大の 特徴は、 物質的、経済的な容易さ、つまり生きることが過去には考えられない位に容易になったということである。  民衆あるいは社会の中の 平均人が、自分の経済的問題をかくも楽々と解決できた時代はかつてなかった。遥か過去には、多くの人々は飢えに苦しみ、貧困に落ち込み、常に死への恐怖に怯えていた。産業革命が進行し、科学技術が進歩するにつれて、各社会階層の平均人は、自分たちの生活の展望(暮らしやすさ)が開けてゆくのを目のあたりにすることになる。彼らの生活の標準には、つぎつぎと新しい贅沢が加えられ、彼らの地位はより安定し、他人の意志に自分の生活や生命が煩わされなくなった。以前なら幸運のなせるわざとみなされ、運命に対する謙遜な感謝の念を抱いたであろうようなことが、感謝の必要のない、生まれながらに与えられた要求すべき権利に変わってしまったのである。   1900年以降は、ヨーロッパ社会の底辺に近いところにある、労働者階級の生も安定し始めている。   経済的な安楽さと安定性に、さらに、快適さと、社会秩序が付け加えられていった。民衆の生は快適なものとなり、暴力や危険が入り込むことは減っていった。民衆あるいは 平均人は、生に対して安楽で平和なものを見るようになった。生きることはそれほど困難とは感じられなくなり、少しばかりの楽しみさえ見出せるようになっていったのである。 それまでの民衆にとって、生は、経済的にも肉体的にも、重苦しい運命であった。生きるということは、生まれながらにして、耐え忍ぶ以外に方法のない障害の堆積であり、それら障害に我慢して適応していく以外に解決方法は見出だせなかった。自分たちに残された狭小な空間にひっそりと隠れる以外に仕方がないと感じていたので