コンラッド 「闇の奥」 6 クルツ 自己との対峙と荒廃

いったいクルツの身に何が起きたのか。アフリカの奥地、完全な静寂の中で一人自己と向き合しかなくなったとき、心の奥に潜む自己の欲望に気づき、それに身を任せてしまったのだ。制するもののない地では、彼の常軌を逸した行動は増幅されていった。

完全な孤独、お巡査さん一人いない孤独ーー完全な静寂、世間の与論とやらを囁いてくれる親切な隣人の声など、一つとして聞かれない静寂、ーーお巡査さんも隣人も、それはほんのなんでもないものかもしれぬ。だが、これが文明と原始との大きなちがいなのだ。それらがいなくなれば、あとはめいめい生まれながらの自分の力、自身ひとりの誠実さに頼るほかなんにもないのだ。(p103)


たった一人荒野に住んで、ただ自己の魂ばかり見つめているうちに、ああ、ついに常軌を逸してしまったのだった!(p138)

名声、栄誉、成功、権力。「一切の関心が恐ろしいほどの強烈さで、自我の上だけに集中されていた」。有能で偉大な人物であったが故に、その荒廃ぶりも凄まじかった。道徳や誠実さといった人間的なものは失われ、ひたすら自我を満足させることだけに集中される生。それはもう人間とは言えないのではないか。アフリカ奥地の原始的な環境("Heart of Darkness":原題)の中で心の中の原始的な感情("Heart of Darkness")に身を委ねてしまい、身を滅ぼしてしまったのだ。
最後の瞬間も壮絶だった。

あの時彼の顔に現れた恐ろしい変化、僕はそれに近いものをさえ、かつて一度も見たことがなかったし、願わくば今後も二度とふたたび見たくないと思っている。僕の心は、動かされたというよりは、魅惑されてしまったのだ。いわば帷が引き裂かれたのだ。僕はあの象牙のような顔に、陰鬱な自負、仮借ない力、おどおどした恐怖、ーー一口でいえば、厳しい完全な絶望の表情を見てとった。このいわば完全知を獲た至上の一瞬間に、彼は彼自身の一生を、その欲望、誘惑、惑溺と、それらのあらゆる細部にわたって、あらためて再経験しつつあったのではなかろうか?なにか眼のあたり幻でも見ているように、彼は低声に叫んだ、ーー二度叫んだ。といっても、それはもはや声のない気息にすぎなかったが。
「地獄だ!地獄だ!」(p144)

クルツの荒廃を眼のあたりにし、マーロウ自身もーーそれは作者自身でもあるーー自己と向き合って生きる責め苦を担うことになる。

そして僕もまたーー僕自身の罪の故にーーひたすらただ自分の魂だけを見つめるという同じ試練に堪えなければならなかった。彼のあの最後の胸奥からの叫びほど、人間への信頼を萎えさせる、恐ろしい雄弁がありえただろうか?(p138)


「闇の奥」 岩波書店 コンラッド著 中野好夫訳





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