小林秀雄 「セザンヌ」

画家セザンヌは、キュービズムなどの先駆者として現代美術の父という位置づけで語られることが多いが、小林秀雄はセザンヌをそういうようには見ていない。

セザンヌが掴みたかったのは、自然の瞬間の印象ではない、自然という持続する存在であった。(p.122)

セザンヌは、自然の中にある確としたものをカンバスに描こうとしたのだ。我々は、物を見ているようで全く見ていないことを、画家が描く絵画を見て痛感させられる。本当に有るがままの自然を、そのままに見ることがどんなに難しく、また、どんなに苦しいことであるか。何か目前にあるものを試しに見てみればわかる。見れば見るほど今まで気づかなかった仔細が見えてくるが、同時に非常な疲れと苦しみを感じてくる。そして、耐え切れずに目を逸らしてしまう。自然は圧倒的に強い存在で、目から侵入して、見る者を烈しく打ちのめしてしまうのだという。むき出しの画家の感官が、自然に捉われるのだという。

印象派の画家たちは、自然のありのままを描こうとしたが、実際には、光を描いていたに過ぎない。一瞬の光の煌きが捕らえられているが、果たしてそれはものそのものといえるのだろうか。時間を経ても変わりなくそこに存在するもの、それこそがものそのものではないのか。セザンヌ描く静物画には、そのような、対象となるものの実体が写し出されているように感じられる。

小林秀雄の作品は、上で紹介したような浅薄なものではない。筆致できない深い洞察による内容が書かれていて、汲めども汲めども尽きることの無い泉のようである。自分でゆっくりと読まれることをお勧めしたい。

「人生について」 中公文庫 小林秀雄著



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