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マルクス、エンゲルス 「共産党宣言」

マルクスとエンゲルスによるプロレタリアートによる共産主義の宣言。 階級闘争という歴史観を通じて、当時の経済社会の分析がなされ、ブルジョア階級による社会支配の問題が明らかにされる。ブルジョアによる資本主義の分析は、簡単に述べられているだけで一端が垣間見られるばかりであるが、それでもその洞察力の鋭さには驚かされる。現代の経済状況を振り返るとき、マルクス、エンゲルスの言っていることがあちらこちらに現れているように思う。 近代工業による経済活動が活発になるにつれ封建社会の枠組みが崩されていき、封建的な支配者階級は没落し押しのけられる。代わってブルジョア階級が伸張していく。ブルジョア階級によって経済的な社会支配のみならず、政治的な社会支配までもが勝ち取られていく。結果として、社会は資本を持つブルジョア階級と労働者からなるプロレタリアート階級に分断される。 「ブルジョア階級は、すべての生産用具の急速な改良によって、無制限に容易になった交通によって、すべての民族を、どんなに未開な民族をも、文明のなかへ引きいれる。かれらの商品の安い価格は重砲隊であり、これを打ち出せば万里の長城も破壊され、未開人のどんなに頑固な異国人嫌いも降伏をよぎなくされる。」 ブルジョア階級による社会では、繰り返し起きる恐慌という疫病がはびこる。過剰生産が起こり、社会全体の生産手段が破壊されたようになる。社会が必要とする以上の発達を遂げた大資本による生産活動が、行き場を無くしてしまうためである。これを克服するには、新しい市場の開拓と古い市場の徹底的な搾取が必要とされる。しかし、根本的な原因が解決されたわけではなく、より強大な恐慌が準備されていくのである。 このブルジョア社会の進行、深化に伴い、封建社会で中産階級にあった小工業者、商人、農民等はプロレタリアート階級に次々と転落する。ある者は自身の持つ小資本が大資本に競争に勝てなかったからであり、ある者はそれまで強みとして有してきた技能・技術が技術革新により陳腐化されて競争に勝てなくなったからである。こうして、プロレタリアート階級は、ブルジョア階級によって打ち負かされた者を吸収して、その数が膨張していく。プロレタリアート階級は搾取され、飢えずに食べていける最低限の賃金以外は支払われず、ブルジョア階級の奴僕と

チェーホフ 「桜の園」 わたしの命、わたしの青春、わたしの幸せ

「チェーホフ最後の、そして最も愛されてきた劇曲」。郷愁を帯びた感傷的なテーマを持ち、そのテーマを明るく描く喜劇的な会話、劇中には知性的な雰囲気が醸し出され、味わい深い戯曲になっていると思う。大切な様々なものが詰まっていて、少しずつ色々な気持ちを味あわせてくれる、何回でも読み直してみたい作品。 主人公のラネーフスカヤ夫人はロシア貴族の出自であったが、平民の弁護士と結婚し、夫に死に別れると愛人とパリへ出奔してしまっていた。手元に最後に残った財産、「桜の園」、を処分するために故郷へと戻ってきたのだった。そこには、兄ガーエフ、娘アーニャ、養女ワーリャ、老従僕フィールス等が待っていた。 時は、ロシアで農奴解放令が発布され、時代が大きくうねり社会が激しく変貌している頃である。農奴からの年貢で生計をなしていたロシア貴族たちは、それまで拠り所としてきた基盤を失いあえいでいる。大土地を所有しているとはいえ、土地を経営する才覚無くしては土地の所有も意味が無く、次第に土地を切り売りして生活費を工面し、土地は人手へと移っていくばかりであった。ラネーフスカヤ夫人も兄のガーエフにも経営能力は無に等しく、彼らにあるのはただ血筋の良さ、人の良さだけであったから、最後に残った「桜の園」を保全することはできない。 劇中には、古き良き時代への郷愁と惜別の感情が漂う中で、新しい時代の足音が遠くの方から聞こえてくる。ラネーフスカヤ夫人の家に、代々農奴となってきたが、親の代に解放されて自由民となったロパーヒンは、学問は無いが実業家として財を成している。アーニャと恋仲にある大学生トロフィーモフの発言からは共産主義的なものが感じられ、新しい世の中を自ら作り出そうと考えているのがわかる。やがて来るロシア革命を彷彿とさせる。第二幕では、遠くの方から炭鉱の爆発音がかすかに聞こえてくる。ドンバス炭田であろうか、すでに近代重工業が始まっているのである。 「桜の園」と、それに隣接する幼年時代の子供部屋こそが、ラネーフスカヤ夫人と兄ガーエフにとって最も大切なものの象徴であり、しかも心の拠り所でもあった。第四幕で、故郷を離れるために旅立つラネーフスカヤと兄ガーエフは、最後に子供部屋に残り、抱き合いながら涙を流す。 ああ、わたしのいとしい、なつかしい、美しい桜の園!わたしの命、わたしの青

トマス・モア 「ユートピア」 自由な精神と自己規律

船乗りラファエル・ヒスロディによって語られたユートピアは、自由な精神と自己規律でもって正しく生きている人々の国であった。 ユートピアとは、ラテン語を使ったトマス・モアの造語で、どこにも無い国という意味だそうである。1500年前後のヨーロッパの実情を見て危機感を抱いていたトマス・モアが、理想の国として描いたものであった。少ない法律で国が円滑に運営される国、徳が非常に重んじられている国、物が共有されているためにあらゆる人が物を豊富に有している国、それがユートピアであった。現実を直視したときに、問題の根源を洞察し、財産の私有が認められ金銭が絶大な勢力・権力を振るうようなところには、正しい治世と社会的な繁栄はありえないという意見に傾いていたのであろう。 都市は国中に均等に散らばって存在し、都市間はわざと間隔が開けられている。それは、農村部を配置し、自給が可能なようにと配慮されているのであろう。 農村部の農場に、都市部から人が2年ごとに交代で集められ、農耕が営まれている。これは旧ソ連時代の集団農場を想起されるが、旧ソ連の指導者たちがユートピアをモデルにしていたとしても不思議なことではないだろう。 農業は効率的に営まれ、農産物は豊かに稔り、共有財産制ということもあり人々は豊かな生活を保障されている。農業は食料を得るためという意味よりも、人間の徳を高めたり健康を増進したりするために行われている。農業のほかにも手工業などの技能が尊ばれているが、本人の性向が向けば、学問を修養することも強く奨励されている。精神生活を充足することこそが人生を充実させて生きることだと考えられている。 政治は共和制である。つまり、選挙によって選ばれた首長によって治世が行われている。30の家族の長である家族長と300の家族の長である主族長が選出され、さらに市長が4人の候補者から選挙で選ばれる。市長は、弾劾を受けない限りは終身制である。市長の下で治世が行われる。ユートピアには54の都市があり、各市長がアモーロート市と呼ばれる都市に集まり、国全体の治世に関する議論を行う。 ユートピアは島国であるが、他国との貿易によって莫大な利益を上げている。しかし、ユートピア人は財産の私有制を取っていないため、特定の個人に財が集中することは無く、またそういう野心を抱く

カフカ 「変身」

主人公のグレゴール・ザムザは、ある朝目覚めると自分の体が毒虫(多分芋虫のようなもの)のようになっているのに気がついた。その朝以来ずっとグレゴールは毒虫のまま自分の家から一歩も出ることなく生きていくことになる。 グレゴール自身、自分の変身にひどく驚いたし、家族もそれは同じであったが、驚きの後は疎遠で淡々とした暮らしに落ち着いていく。グレゴールは、変身した日から、社会や外界との交流は一切なくなり、孤独の中を生きていく。それは淡々とした起伏の無い無味乾燥な生である。 窓から外を眺めもしたが、それは昔そうやって暮らしていたという記憶を懐かしんでのことで、毒虫になったグレゴールの目は次第に視力を失い、窓から見えたのは曇った灰色の世界であった。 グレゴールは、いつも妹のことを気遣い、家族への思いやりも忘れない。良心だけが人間らしさを示していた。 グレゴールが変身した朝、彼はその日に予定していたセールスの出張に遅れることばかり気にしていた。その後も、所長が怒るだろうということや、食事のことなど、普段の生活の瑣末なことばかりを気にしていた。その姿には、何故自分は変身したのかという問いや、人間であるということは何なのかという問いなど、あってしかるべき根源的な問いや苦悩が少しも見当たらないのである。それは、彼の家族も同様で、毒虫になった息子を哀れむより、働き手を失って困窮する自分たちの生活を嘆くばかりである。人間が毒虫になったことよりも、彼らの中に根源的な問いかけが少しも無いことこそ、非常に驚かされるところである。真剣な問いかけも無く、淡々と生活が継続されるのは、表面的には穏やかでユーモラスでコミカルな世界であるが、実は不気味で恐ろしささえ感じる。 グレゴールは、父親に投げつけられた林檎が背中に食い込み、その傷のためかあるいは食べ物を体が受け付けなかったためか、体力が衰えて自室の中で死んでいく。彼の死後、家族は晴れ晴れとピクニックに出かけ、暖かな陽光の中で健やかに成長した妹の姿を見て、両親は幸せを感じるのである。目の前の物質的な幸福こそが彼らの人生の全てなのであった。 日々の生活に追われて生きて、目の前の瑣末で物質的な世界だけが人生の全てある現代社会の人間は、実はグレゴール・ザムザのように成り果ててはいないか、もうすでにそういう状態に陥

ミルトン 「失楽園」

ミルトン著 「失楽園」 旧約聖書「創世記」 において語られているアダムとイブの楽園追放を一大叙事詩として描いた作品。テーマは人類の罪と贖いという壮大なもので、 文章は叙事詩というにふさわしい優雅なもの、 そして底流に流れるのは著者ミルトンの篤い信仰心である。聖書の教えを文学的に描くことを通して、 著者の信仰への純粋な気持ちが強く感動的に語られている。 大きく二つのことが描かれている。サタンが天から追放されるに至った経緯と、 人間が楽園から追放されるに至った経緯である。 アダムとイブがサタンの操る蛇にそそのかされ、 神の禁を犯して知識の実を口にした後、知識の実の力で様々なことがわかるようになる。 最初は知識の実の罰すなわち死が直ちに下らないのを見て、自らの力を誇り、神を侮るである。しかし、知識の実の力から、 犯した罪の重さを感じ取れるようになったアダムとイブは互いに相 手の愚かさと罪の深さを罵り合う。つまり、イブに対しては、 イブがサタンにそそのかされた、その心の脆さと愚かさを、アダムに対しては、 天使から忠告を受けていたにもかかわらず心の脆さを持ったイブを 一人で行かせたことを、それぞれが互いに罵り、罪を擦り付け合うのである。しかし、それは無意味なことであり、 自分の犯した罪と受けなくてはならぬ罰は消えはしない。次第に、自分自身の愚かさと罪の深さを知るに至り、 罰として受けねばならぬ死への恐怖を感じ深い絶望の淵へと落ちるのである。 神からの使命を受けた天使は、 二人を楽園から追放する任務を果たすために訪れるのであるが、任務の前に、この世の始まりとやがて訪れる未来とを語り聞かせる。二人の子孫の行く末、 御子による罪の贖いと罪への勝利のことを聞いたアダムは、天使の言葉の意味を深く理解し、 初めて絶望から解放され、希望を持って生きていく勇気が持て、罪を贖いながら生を神にささげる決意をするのである。 従順、傲慢、罪、罪の意識、死への恐怖、絶望、罪の贖い、 絶望からの解放、希望と、変化していく心の動きに、キリスト教の復活の思想を感じると共に、 著者の篤い信仰心と真摯な態度を目の当たりにする。読む者も、 アダムやイブと共に歩きながら信仰の道を経験することを要 求される。それは大変な精神力を必要とするが、 共に経験した後の充実感は素晴らしいものである。 失楽園が書かれた

ポオ 「ウィリアム・ウィルソン」 主観が語ること

ポオ(エドガー・アラン・ポー)の作品には、物語の主人公が自ら語る形式で描かれたものが幾つもある。これらの作品では、主人公の語りが表面的には客観的なものに見えるのだが、実はとても主観的なものになっている。 ポオの作品では、 感情や思考が主観的であるのは仕方ないとしても、 その場に生じた事実を受け取り記憶する感覚にも主観的なものが隠されており、 その感覚を通して事実の描写が行われるのである。事実が淡々と描写されているような場面でも、 実は主人公の主観的な感覚が密かに隠れていて客観的な描写を邪魔しているのだが、 読者はそうとは知らないうちに主人公の心理を通して見た世界に引き込まれているのである。主人公の主観、 つまりは作者の綿密に計算された意図に誘導されて、 読者は勘違いをさせられ、道を間違えたまま結末へと進んでしまう。 結末の意外性に驚いては、物語の初めに戻ってどこから道が逸れたのかを確かめるのである。しかし、 そもそも主人公の主観的な目を通して物語の世界を見ているのであ るから、一体どこが事実の描写であり、どこからが主人公の心理的な世界であるのか、 それは事実がわからない読者の立場では見極めるのは難しい。これらの作品群の特徴はこの点にあり、意外性に驚かされつつも、 作者の緻密な計算の見事さに感じ入るのである。 これらの作品群は、 文学作品の制作方法として際立った性質を持っているものであるこ とも確かだろうし、さらに、 ポオの人間心理に対する奥深い探求心を強く示しているように感じ られる。 ウィリアム・ウィルソンもそのような作品のひとつである。 主人公ウィリアム・ウィルソンは、イギリスの上流階級に属する品行の悪い男である。金や女性にだらしない性格で、 策略で人を欺いては自らの欲望を満足させる人生を送っている。その彼の前には、 少年時代の寄宿舎暮らしの頃から邪魔になる人間がいた。 何事につけ彼に逆らうように争うのだが、特に彼が悪いことをしようとするといつの間にか目の前に現れ悪事 の邪魔をするのである。そのライバルもウィリアム・ウィルソンという同姓同名で、 しかも生年月日まで同じらしいのであった。寄宿舎の同級生や先輩たちは、二人が良く似ているので、 親戚か兄弟のように感じていた。ライバルの邪魔は、学校を卒業した後も執拗に続いた。主人公はライバルを恐れつつも憎み

ポオ 「盗まれた手紙」

デュパンが活躍する推理もの。警視総監から一通の手紙の捜索を頼まれたデュパンが、常識の裏をかいて実に巧妙に隠された手紙を見事に見つけだす物語である。 ポオ(ポー)が作りだした事件の構成は、芸術的とでも言うような素晴らしい出来映えである。犯人がわかっていて、しかも隠されている部屋までわかっているのに、事件が解決されないのである。 事件のあらましは次のようである。犯人である大臣は、被害者である貴婦人の目の前で大胆にも犯行を行い大切な手紙を持ち去った。であるから、被害者は犯人が誰であるかを知っており、しかも犯人も自分が犯人であると判明していることを認識している。しかも、その手紙の持つ性質や重要性から、隠されている部屋さえ特定されているのだが、肝心の手紙を発見できないのである。 高貴な社会階層が絡んだ事件の性質上、話が外に漏れると大スキャンダルに発展する。貴婦人の立場も、またその手紙に関与する高貴な人間も危うくなる。それだから、警察による大々的な捜査が行われず、警視総監が個人的に依頼を受け、一人で秘密裡に捜査を繰り返していた。この事件がスキャンダルに発展する前に解決することは、警視総監にとっては大きな名誉でもあり、また莫大な報酬を貰えるという利益もあった。警視総監は、手紙が隠されている大臣官邸に連日連夜忍び込んでは、警察の持てる技術を全て使って様々な箇所を捜索したが、目的のものはとうとう見つけられなかった。大臣の側も手紙の隠匿方法には絶対的といえる自信を持っており、警視総監が忍び込みの捜査を繰り返しているのを知っているが、わざと素知らぬ振りをして捜査をさせているのである。 警視総監は、自力での手紙発見を断念し、デュパンに泣きついてきたのであった。警視総監にとって事件解決は大きな名誉であるが、解決できないと逆に大きな不名誉となって大失態へと変化してしまう。だから必死であった。デュパンはというと、大臣の大胆不敵な行動と手紙の巧妙な隠匿方法に大いなる好奇心をかき立てられたのか、事件に積極的に関与していく。 警視総監の話から、デュパンは、警察の通常の捜索範囲には手紙は置かれていないと判断し、手紙は初めから隠そうとしないという、実に意味深長な、実に利口な方法を取っているのではないかと推理した。その推理の上で、これまた大胆不敵にも大臣官邸へ面会に出かけ、からくりを見破

ポオ 「モルグ街の殺人事件」 2 あるものを否定し、ないものを説明する

デュパンは、「ギャゼット・デ・トリビュノー」誌の夕刊記事でモルグ街で起きた奇怪な殺人事件について知った。事件の概略は以下のようである。 午前3時頃、恐ろしい悲鳴がレスパネェ夫人母娘の住む家屋の4階から起こった。警官と近隣の者8、9名は玄関を鉄梃(かなてこ)でこじ開けて中に飛び込むと階段を駆け上がった。階段の途中で、階上で何か叫ぶ声が聞こえたが、一同が4階の部屋に着いたときには静かになっていた。中にはいるとそこは戦慄に満ちた光景があった。家具調度類はめちゃくちゃに壊され部屋中に四散し、床や家具の上には血痕や毛髪も見つかった。大きなお金の入った袋も発見された。 部屋を捜索した時、すぐには母娘は見つからなかった。娘の死体は、無惨にも、暖炉の煙突の中に逆さまの向きで無理に押し込まれていた。夫人の死体は、中庭に落ちていた。二人の死体には、掻き傷、擦り傷、打撲の跡が残っていた。特に夫人の体は無惨に切り刻まれ、人間の体とわからないほどであった。犯人の目星はつかず、全くの謎の怪事件として新聞には報じられた。 デュパンはこの怪事件に知的好奇心を持ち、警察から調査の許可をもらうと殺人現場に向かい、丹念に調査を行った。その後、数日部屋にこもって何か思索をしている様子であったが、遂に「僕」に対して、あの殺人現場で何か変わった事に気づかなかったかと問うのである。つまり、デュパンには事件の全貌がわかったということであった。 ここでは事件の真相は述べないが、デュパンの捜査方法について少し触れておきたい。 デュパンの捜査方法は観察と推理であった。何が本当に重要なことであるかを見抜き、事件の外面の悲惨さに惑わされず本質を追究するところに彼の神髄があった。証拠や証言で得られた事実をいかに結びつけて結論に到達するか、例えそれが常識に合わない事柄であろうと、論理的に可能な事であればありうるとする、そういう推理の方法であった。 彼は推理と共に方法論をも論じるのである。それは、捜査の方法論であるが、これが推理小説であることからして、その実は小説の組み立て方、読者への意図した効果の投影方法を論じているのに等しい。そこにこの物語の一番の面白さがあるように思える。 もし正しい演繹さえなされるならばだねえ、今後この事件の捜査の進行に、結構一つの方向を与える手掛かりになるだろう事は、請け合

ポオ 「モルグ街の殺人事件」 1 分析力

「モルグ街の殺人事件」はポオ(エドガー・アラン・ポー)の代表作の一つで、実に見事な構成で論理が流れていく推理小説となっている。推理小説といっても小説の目的はいくらかあるのだろうが、ポオの場合は殺人事件そのものや人間関係といったところに興味はなく、人の持つ知性的なものの中で分析力というものに焦点を当てて、一見複雑な事実を分解し再び結合していく過程、つまり分析の魅力を描いている。 主人公C・オーギュスト・デュパンはパリに住む青年紳士であるが、物語を語る「僕」とデュパンはパリで知り合い意気投合して共同生活を、二人は世から隔絶したような生活を、送っている。パリのアパートに引きこもり、昼間は鎧扉さえ閉めて光を遮断した上で蝋燭の微かな灯の下で読書や議論に耽り、世の人々が寝静まった真夜中になると夜を愛するデュパンは街へ出て歩き回りながら昼間の議論や思索の続きをするといった、実に精神的なものだけを追求するような生活をしていた。 デュパンは優秀な分析家であったが、そのことを示す好例がある。デュパンと「僕」は、ある晩のこと、パレェ・ロワイヤールに近い、長い通りを歩いていた。二人とも考え事をしながら歩いていて、15分位、互いに口を利かずにいたのであるが、突然デュパンが 「その通り、たしかに、あれじゃ寸が足りん。やっぱり寄席(テアトル・デ・ヴァリエテ)の方が向くだろうよ。」(p.86) と発言したのである。それは「僕」が頭の中で先程から考えていた事、役者のシャンティリは小男なので悲劇には向かない、というようなことを見事に言い当てたものであった。しかしである、「僕」は先程から何も口を利いていなかったので、それをデュパンが知っているとは思えなかった。度肝を抜かれた「僕」が尋ねるとデュパンが説明をしてくれた。 「僕」の考えがどのような思考の流れで、あるいは思考の跳躍とでも言った方が適当であろうか、役者のシャンティリに到達したかを、デュパンは「僕」以上に明瞭に把握していた。シャンティリ、オリオン、エピクロス、通りの鋪石、果物屋。それは、観察と分析による結果であった。 長い通りに入ったところで、「僕」は果物屋とすれ違いざまに舗装用の石材にぶつかって足をくじいた。「僕」が忌々しそうに舗装道路をうつむいて歩いているを見て、デュパンには舗装石のことを考えていることが知れたのである。

Paul Krugman, "The Great Unravelling"

アメリカ・プリンストン大学の著名な経済学者ポール・クルーグマンがThe New York Timesに掲載したコラムを集めて編集しなおした本である。時間の流れではなく、内容の関連性からコラムを並べなおして、大きな流れを追いかけることが出来るようにまとめ、アメリカ政治・経済の問題点を鋭い論調で明らかにしている。 ブッシュ政権は、選挙の時点では経済分野において穏健なスタンスで自由市場重視を取ると考えられていた。しかし、政権を取ると、国民への説明は自由市場主義を標榜しているものの、実際には経済政策には無関心で、報奨人事、身内優遇、保守党基盤優遇という政策を取っている。 国や国民のための政治ではなく、身内や保守党のための政治になっているのではないか。 大幅な減税を断行したが、事前の政策説明では、大幅減税は市場経済を活性化するというものであった。しかし、財源が足りないという理由で、減税の幅は縮小され結局一部の富裕層のみに税金が還付されるものとなっている。大部分を占める中流層以下は無視され、従って市場活性化には程遠い政策となっている。優遇された富裕層は、保守党の基盤である。 2001.9.11のテロの後に、国内の保安体制強化が為されなかった。本当に必要な政策は後回しにされ、富裕層への減税が優先された。 保守党を選挙中に支援し貢献した企業や、ブッシュ大統領やチェイニー副大統領が個人的につながりのある考えられる企業には、ブッシュ政権が誕生して以来様々な報奨が与えられている。イラク戦争の際に、チェイニー副大統領が関係しているハリバートン社がイラクでの政府関連事業を受注したのは、そのことを最も良く表した例である。 民主党が基盤とするのは東海岸、西海岸の大都市圏の州で、逆に共和党が基盤とするのは中西部、南部の人口の比較的少ない州である。ブッシュ政権が行う連邦政府からの補助金交付は、上院議員数を考慮した比率で行われるため、共和党が基盤とする中小規模の州への補助金交付が大都市圏の州よりも厚くなる傾向にある。大都市圏に厚くすべき交付金までがこういうやり方で行われるのは、保守党基盤優遇の一面ではないか。 アメリカのメディアは、ブッシュ政権に不利な情報を流さないようになっている。例えば、イラク戦争の際に、戦争の初期にアメリカ軍がイラクへ進軍する場面は華々しく報道されたが、バグダッ

シェイクスピア 「リチャード3世」 リチャードとマクベス

リチャード3世は、イギリスばら戦争の時代に実在した王であり、史実をもとにしたシェイクスピアの劇となっている。ばら戦争は、15世紀後半、ランカスター家とヨーク家によってイングランドの王位が争われた内乱である。ヨーク家のグロースター公リチャード(後に王位に就いてリチャード3世となる)は、王位のためには、権謀術数を用いることを厭わず、兄弟、血縁者であろうと家臣であろうと容赦なく抹殺していく。 ばら戦争ではランカスター家とヨーク家が争っているのだが、リチャードは宿敵ランカスター家の王を倒した後も手を緩めず、自らが王位に就くためにヨーク家の身内を手にかけていく。兄王の幼い王子たちを手にかけたことは、まさにその典型である。 リチャードの姿は、同じシェイクスピアによる悲劇マクベスを想起させる。自ら策をめぐらして王位を手中にした点では同じである。また、その王位は人心を得られず、戦場で倒れる形で王位から退けられた点でも類似している。 しかし、物語として、二つの劇は性格が大いに異なるように見える。リチャード3世は、情け容赦なく邪魔者を消して、王位を手に入れていく過程に描写の中心が置かれているのに対して、マクベスでは王位につく直前から破滅に向かうまでの苦悩が描写されている。リチャード3世では王位への上りつめる様子が描かれているのに対して、マクベスでは王位からの下り落ちる様が描かれているという違いである。 また、マクベスの精神的な苦悩が中心であるのと対照的に、リチャード3世では人間関係が中心に来ているように感じられる。 更に、リチャード3世では、非情な意思と行為が描かれているというのに、どこかユーモラスな印象を受けるのは私だけであろうか。この点でも、マクベスの徹底したシリアスさとは違うものがあるように感じる。このユーモラスな印象であるが、リチャード3世の話術によるところが大きい。巧みな話術をもって、リチャードに反感を持っている者たちをも丸め込んでいく。特に王位の周りに存在する女性たちは、リチャードの言葉に翻弄され続ける。前王妃、皇后など、女性たちの存在も物語にユーモラスな性格を与えているようである。 兄王の王子たちも機転が利いて話術にも優れており、温かみのある描写からは、抹殺される役回りながら、悲壮さをそれほど感じさせないものがある。とはいえ、幼い者の命を奪うのである。人の心を

シェイクスピア 「マクベス」 4 洗い落とせぬもの

マクベス夫人は、大事にあたって弱気を見せるマクベスに対して、怖じ気づいたことをそしり凶行へと背中を押すほどの気丈な女性であった。それほどの精神力をしても、正統な王を殺害した罪の重荷から逃れることは出来ることはなかった。 夫人は、夜な夜な夢遊病者そのままに、眠ったまま起き上がって書棚に向かって手紙を書いた。手をこすり合わせて呟く。 消えてしまえ、呪わしいしみ! 早く消えろというのに! 一つ、二つ、おや、もう時間だ。地獄って何て陰気なんだろう! (p102) まだ血の臭いがする、アラビアの香料をみんな振りかけても、この小さな手に甘い香りを添えることは出来はしない。ああ! ああ! ああ!(p103) 夫人の侍女に請われて夫人の様子を見た侍医は、マクベス夫妻が為した罪の全容を知り、夫人が背負っている罰の重さを感じて、堪えられなかった。 なんという溜息だ! 心の重荷がそのまま伝わるような!(p103) まさしく、心に負った重荷が伝わってくるようである。背負った重荷は永遠に消えることはなく、重荷を負って生きる運命を自ら選択してしまったのである。血は罪のしるし。消そうとしてもそれは出来ぬものである。それは罪を悔いて贖わない限り消えぬものである。マクベスにも夫人にも罪を悔いて贖うことが出来なかった。それも運命なのであろうか。 「マクベス」 新潮文庫 シェイクスピア著 福田恒存訳

シェイクスピア 「マクベス」 3 戸をたたく音

マクベスによる王ダンカン暗殺の場面、マクベスが殺害を果たした後に、戸をたたく音が響き渡る。 あの戸をたたく音は、どこだ? どうしたというのだ、音のするたびに、びくびくしている? 何ということだ、この手は?ああ! 今にも自分の目玉をくりぬきそうな! 大海の水を傾けても、この血をきれいに洗い流せはしまい? ええ、だめだ、のたうつ波も、この手をひたせば、紅一色、緑の大海原もたちまち朱と染まろう。(p39) 時は深夜、城にいる者は全て寝静まり、起きているのはマクベス夫婦のみ。暗殺のもたらす心理的な暗さが、漆黒の闇を更に暗くする。暗殺の場面、その音は、地響きのよう、辺り一面にうなるように響き渡るのである。その音は王を迎えにマクベスの城に来た貴族達が城門をたたく音で、後の場面に続いていくのである。音の効果は絶大で、罪を犯した者を断罪するような響きを持っている。それは、運命がマクベスを呼んでいるかのようでもある。マクベスは音に怯え、自分の罪を悔いるのである。読む者は、マクベスの不正義が問われているのだと予感する。 アメリカTVドラマ「刑事コロンボ」の「ロンドンの傘」で、コロンボが対決する犯人はロンドンの劇場で活躍する俳優と女優の夫婦である。ドラマの中で犯人夫婦が劇中劇を演じるが、それがマクベスである。犯人が殺人を犯したことと、マクベスの王暗殺が重なり合っている。戸をたたく音は、低く暗く大きな音で響くのであった。音が鳴り響く中を舞台の袖に逃げるように退くマクベス夫婦、何か魔物にでも追われるような心理状態である。見ている者も何か怖ろしい物に追われるような恐怖を感じる。ドラマを見てからもう数十年経っているが、未だに忘れ得ぬ場面である。 この音を境にマクベスは奈落の底に落ちていく。地獄の門が開かれた音のようでもあった。 「マクベス」 新潮文庫 シェイクスピア著 福田恒存訳

シェイクスピア 「マクベス」 2 嘘を言わない嘘の言葉

マクベスの心を惑わし破滅へと誘ったのは、魔女の言葉であったが、魔女は嘘の言葉は使っていない。しかし、逆に、嘘の言葉が無いにも関わらず破滅へと追い込まれるところに奥の深さがあるように感じる。 魔女の口から発せられ表面に現れている言葉は本当のことを語っていたが、言外の隠れている部分には人を惑わす何かが潜んでいた。また、惑わされて自ら道を外れたのは人の心であった。表に出ている部分から隠れている部分を想像し解釈するとき、我々人間は大概自分に都合の良い解釈しかできない。自らに都合の悪いことは見えてこない。魔女が導いたように見えて、実は自らの心の奥底にあるものが、自らを破滅へと誘ったのではないか。マクベスには、もともと隠れていた王になるという野心があったのだろう。それが、魔女によって言い当てられ、眼を覚ましてしまった。自らの心が破滅へと歩いたのだった。 魔女は王になることを予言したが、それ以上は何も言わなかった。マクベスは、王になったが安らぎは無く、人心は集められず、王位は長続きもしない。王になるだけでは、それは意味のないこと。真の王位は、正義を為してこそ。国を平和に治めて、人心をつかんでこそ。 魔女の予言は、他にもあった。 マクベスを倒す者はいないのだ、女の生み落とした者のなかには。(p79) マクベスは滅びはしない、あのバーナムの大森林がダンシネインの丘に攻め上って来ぬかぎりは(p80) これらも嘘の言葉ではなかったが、この言葉の外に真実が隠されていた。バーナムの森の枝を体に付けてカムフラージュした敵の軍隊が攻め上り、帝王切開で生まれた男、スコットランドの貴族マクダフ、によってマクベスは倒される。 「マクベス」 新潮文庫 シェイクスピア著 福田恒存訳

シェイクスピア 「マクベス」 1 安らぎの喪失

スコットランドの武将マクベスは、デンマークとの凄まじい闘いに勝利した後、帰途に通りかかった荒野で3人の魔女と出会う。魔女達はマクベスのことを「グラミスの領主」、「コーダの領主」、「王」と呼びかけた。それらの呼び名は、現在の地位(「グラミスの領主」)に加えて、近い将来(「コーダの領主」)と少し先の将来(「王」)が暗示されていた。 実際、その後すぐに、武勲の報奨としてコーダの領主をマクベスへと授ける知らせが、王の使者として遣わされた貴族達によってもたらされた。マクベスは驚きを持って魔女の第1の予言を心に留め、魔女の呼びかけが自分の将来を予言したものなのかを恐れおののきつつも確かめるのであった。 マクベスは自分の城に戻ると魔女の出来事を妻に話すのだが、二人は王になるという予言を信じようとし、王を暗殺する腹づもりを固める。その夜は、スコットランド王ダンカンが、マクベスの城で祝宴を持つために訪れていた。マクベスと妻は王を剣で殺害し、護衛の者に罪を背負わせる。こうして、暗殺が成功し、マクベスはスコットランド王位に就いていくのである。 暗殺の場面は描かれていない。マクベスの言葉によって王殺害の状況が語られる。殺害のすぐ後から、もう後悔の念が心に湧き上がってきている。 どこかで声がしたようであった、「もう眠りはないぞ!マクベスが眠りを殺してしまった」と、ーーーあの穢れない眠り、もつれた煩いの細糸をしっかり縒りなおしてくれる眠り、その日その日の生の寂滅、辛い仕事の後の浴み、傷ついた心の霊薬、自然が供する第二の生命、どんなこの世の酒盛りも、かほどの滋養を供しはしまいにーーー(p38) 天の声であろうか、王を殺害したマクベスは、自らの安息の眠り、それは第二の生命、を殺してしまっていた。この後一瞬たりとも安息はマクベスの許を訪れない。マクベスは自らが招いた運命に従い苦難の中をもがき続けて生きるのである。死に至るまで緊迫感に満ちた描写が続く。 マクベスは自らが罪を犯したことをはっきりと自覚していた。それまでの彼は勇猛で恐れる相手などいない無敵の存在であった。それが、正統で神聖な王位継承者であるダンカンを殺めた瞬間から、恐れおののく者と成り下がった。自分の生命の危険など省みもせず荒れ狂う戦場で武勇を轟かせた者が、自らが手中にした王位を守らんとして、近づいてくる他者を恐れ

Steinbeck, "East of Eden" (エデンの東) 22 トムのこと

サミュエルの三男トムは、想像力が豊かな発明家であった。サミュエルに一番似た子供であった。ジョン・スタインベックに強い印象を与えたようで、トムのことが物語の中で度々描かれている。著者の筆は控えめで、雄弁には物語らないのであるが、トム自身の心情や、トムのことを好きであったらしい著者の心情が、語間に浮かんでくるのである。 サミュエルの末っ子のモリーは、舌がもつれて上手く話すことが出来なかった。想像力豊かなトムは、何故舌がもつれるのか原因を理解し、それを解決しようとした。モリーの舌を短くしようとしたのである。結果がどうなったのか物語には書かれていない。ただ、物語の後の方で、可哀想なモリー、大きくなれなかったモリー、とデシーが回想する場面がある。少年が、愛する妹の体を治してやろうとするのであるが、悲しい結末が待っていたのでは無かろうか。その悲しみに、何か心が締め付けられるような感じがする。 サミュエルの子供たちが成人し、それぞれが独立した後も、トムは独身のままでサミュエルとリザと一緒に暮らしていた。ジョン・スタインベックの母オリーブは、女性教師として働いた後、結婚してサリナスに家を構えていた。オリーブの家にトムが訪れる場面も描かれている。トムはいつも決まって夜遅くにオリーブの家に到着した。子供であったジョンと姉(あるいいは妹)メアリーは、朝早く起きて枕の下にガムが置いてあるのに気づくと、トム伯父さんの来訪を知るのである。メアリーは活発な少女であった。野球が得意で、女性でいるのが堪らなく嫌で、少年になりたかった。トムに少年になる方法を教えてくれと言うのである。もちろんそれは無理な話であった。それまでのジョンとメアリーにはトム伯父さんならば何でも叶えてくれるという信仰にも似た信頼があった。その信頼が少しほころんでしまい、トムとしても子供たちの期待に応えられなくて残念な気持ちになるのである。 サミュエルの娘デシーは、服飾の勉強をして、サンフランシスコに店を構えるほどになった。女性だけが集うファッションブティックと言ったところであった。1900年初頭のアメリカでも、女性が外で自分を日常の生活から解放して個人として振る舞うことが出来る機会はそれほど無かったのであろう。デシーの店では、女性だけが集い、女性が自分を日常から解放することができた。そういうことができる空間であったか

Steinbeck, "East of Eden" (エデンの東) 21 ハミルトン一家

エデンの東の中で描かれているサミュエル・ハミルトン一家の人々 サミュエル Samuel: アイルランド移民1世。アイルランド人らしい機知に富んだ陽気な話をする人で、誰にでも好かれるタイプであった。 また、知的好奇心に溢れた、本の虫でもあった。高等教育は受けていないようではあるが、周囲の労働者階級の人々に嫌悪感を与えないように密かにではあった が知的な人間として生きていた。農場の経営の傍ら、器用さで持って鍛冶仕事をして周辺の者の役に立っていた。鍛冶の延長で、持ち前の才能を使って多くの発 明をしたが、商売には結びつかず貧乏のままであった。しかし、彼には経済的な成功は一番大切なことではなかった。 リザ Liza: サミュエルの妻。現実的な人で、 夢を追いかけているサミュエルとは対照的な人物だった。毎日の労働は、それを誰かがやらなければならないから、自分で引き受けていた。毎日の聖書と祈りも やるべき事であるから欠かさず実行していた。 ジョージ George: 背の高いハンサムな少年であった。紳士的。罪とは無縁の存在。実は悪性貧血であることが後に判明した。彼の罪無き存在はエネルギーの欠如の中にあった。 ウィル Will: サミュエルが発明好きで進歩的な考えを持っていたのと対照的に、保守的、現実的であった。運にも恵まれたこともあるが、財産を作ることもできた。物語の中で、カレブとパートナーを組み、豆の先物買いで成功する。 トム Tom: サミュエルに最も似ている息子。いつも頭の中を新しい発想や発明が疾走していて、夢の中で暮らしているような存在。物語の中で、サミュエルと共にアダムの土地に井戸を掘る。 ジョー Joe(Joseph): 家の仕事は何をやっても上手くできず、家族にいつも手伝ってもらっていた。リザはそういう頼りないジョーを可愛がっていた。大学へ行って勉強する。 ウナ Una: サミュエルの自慢の娘。父親と同様に本が好きであった。 リジー Lizzie:  デシー Dessie: 服飾を学び、服飾の店を開店。女性達が集まる人気の店となった。 オリーブ Olive: 学校の先生に。ジョン・スタインベックの母。物語の中で少年ジョン・スタインベックが、オリーブの許を訪ねてきたトムと会話する場面も描かれている。 モリー Mollie; 美

Steinbeck, "East of Eden"(エデンの東) 20 カレブへの祝福

アダムの許に戦場からアロンの訃報が届いた。それがきっかけとなりアダムは脳出血で倒れ寝たきりに近い状態になってしまう。アロンの命、アダムの健康、それらを損わせた原因が自分にあると考えているカレブには堪えられなかった。カレブは自分を責め続けた。 "I did it," Cal cried. "I'm responsible for Aron's death and for your sickness. I took him to Kate's. I showed hime his mother. That's why he went away. I don't want to do bad things -- but I do them." (p593) カレブは、何も言わないアダムの目が、アロンの死のことで自分を責めていると感じた。カレブは父に見放されては行く場所はなかった。生きていけなかった。リーは否定する。 リーは、カレブと共に、アダムのベッドに行くと語り始めた。カレブはアダムから拒絶されたと感じてアロンへの仕打ちを為した。それは彼が為した罪ではあるが、彼一人で堪えられるような罪ではない。拒絶によって彼を破滅させないで。アダム、どうか彼に祝福を与えて欲しい。祝福で彼を支えて欲しい。 ほとんど動けないアダムにとって至難の業であったが、アダムの右手が静かに持ち上がり、そして下に降ろされた。祝福の仕草である。リーがアダムの口元に耳を近づけるとアダムの口がかすかな言葉を出した。 "Timshel!" 道は開かれている。祝福が為されて、カレブは罪から解放されるのだった。 なんと力強く美しい物語であったことか。自分の背負う罪の重さ、真の自分に向き合うことの難しさ、罪を乗り越えて生きていくことが出来ることの素晴らしさ。生きると言うことは何なのかということを振りかえらさせてくれた物語であった。深く重い主題ではあるが、著者の暖かな視線と前向きな思想が物語を包み込み、読む者に勇気を与えてくれているように感じる。 "East of Eden", Penguin Books, John Steinbeck

Steinbeck, "East of Eden" (エデンの東) 19 キャシーの最期

キャシーは、売春宿のオーナーを巧妙な手段で殺害して、そのままオーナーの座を奪ってしまったのだった。それはカレブ達と再会するずっと以前の出来事であったし、そのやり口の巧妙さ故に、誰も前オーナーが殺害されたとは考えていなかった。 年齢と共に少しずつ増していく手の神経痛が心の平静さを失わせるようになっていく。あんなに強い気力を持って平然と悪事を為してきたキャシーであるが、オーナー殺害の発覚の不安に恐れを抱くようになる。身近にいた人々の中に怪しむ者が出てきたのである。といっても決定的な証拠があるはずもなく、平然としておれば善かったのであるが、気力が衰えてきた彼女には、不安が応えるようになっていた。 ついには、彼女は自らの手で命を絶つのである。静かにベッドに横たわると、肌身に付けていたペンダントに隠し持っていた薬を飲んだ。 彼女は小さい頃から悪を為していた。それ故に、敵の目や、あるいは警戒する目に囲まれて生きていた。周りを敵に囲まれているような気がして不安な時、彼女は "Drink me" (私を飲んで)と書かれた小さな小瓶を握りしめるのであった。キャシーのお気に入りの物語「アリスの不思議な国」で、アリスが出会う魔法の薬、それを飲むと目に見えない位に背が縮んでしまうもの、を模したものでお守りのように身につけていた。 成人した後では、それは本当の薬、しかし小さくなるのではなく自身をこの世から消すもの、になっていた。 悪も、有限である人間の上にある以上、限りがあるということであろうか。悪の限りを尽くしたような彼女の生涯ではあったが、その終わり方を見ると人間的な弱さを感じさせる。気力の衰えからくる精神的な不安から少しずつ衰弱していき、最後は静かに自らの命を絶つ。 "Eat me," she said and put the capsule in her mouth. She picked up the tea cup. "Drink me," she said and swallowed the bitter cold tea. She forced her mind to stay on Alice - so tiny and waiting. Other faces peered in f

Steinbeck, "East of Eden" (エデンの東) 18 アロン 母との再会

父親に拒絶されたカレブは、父親の愛を一身に受けるアロンに対して嫉妬し、父親の愛に対する復讐をするのである。カレブは、アロンを母キャシーの許へ連れて行き、二人を対面させた。アロンが突きつけられた現実を受け入れられずに、その場から逃げ出したとき、カレブは陰でにやにやしながら眺めていただけであった。カレブには、アロンが母親の事実を知ることからくる衝撃を乗り越えられないとわかっていたのだが、嫉妬による衝動がカレブを動かしていた。 アロンは逃げた、アロンは衝動的に軍隊へと入隊した。そして、ヨーロッパの戦線へと向かったのである。 アロンが軍隊へ入ったという知らせは、父アダムの心を激しく揺さぶった。このころからアダムは軽いめまいを感じるようになる。 アロンが大学へと旅立った後、カレブはアブラと親密になっていく。聡明なアブラには、アロンが現実を受け入れられなくて逃避したことがわかっていて、アロンへの愛情は薄らいでいた。そうした状態でカレブを見ると、ありのままの事実を苦しみと共に受け入れる逞しい生命力に気持ちが惹かれたのではなかろうか。だから、アロンが逃げ出したときにも、アブラは平気であった。 "East of Eden", Penguin Books, John Steinbeck

Steinbeck, "East of Eden" (エデンの東) 17 カレブのビジネス

父アダムのレタスにまつわる失敗に対して、カレブはアロンとは別の行動を取った。カレブは、父の損失を自分で稼いで取り戻そうとしたのである。サミュエルの息子の一人ウィリアムは既にサリナスでビジネスをやっていたが、カレブは、そのウィリアムと組んでビジネスをしようと考えた。ウィリアムは、高校生のカレブが大人の自分と組みたいというのを聞いて最初は笑ったが、カレブの利口さが気に入ってパートナーにする。 リーから借りた元手を使って豆の先物買いをした。時は第1次世界大戦である。アメリカが大戦に参戦しようとしている時期で、いろいろな物資の価格が高騰していった。カレブ達が農家から買い付けた豆も価格が高騰し、二人は大金を稼いだ。 カレブは稼いだ金を新品の紙幣にした上で紙に包んでアダムへプレゼントしたのだが、アダムはそれを拒絶した。アダムにとって金は必要ではあるが浄いものではなかったし、ましてやプレゼントとして受け取るべきものではなかったのである。それに、アダムにはカレブが農民から搾取したように映ったのであった。 自らのプレゼント(献げ物)を拒否されたカレブは怒り狂った。飲めない酒をあおり、自分自身の中にある醜いものの中でうずくまった。 父親に拒絶されたカレブは、父親の愛を一身に受けるアロンに対して嫉妬し、父親の愛に対する復讐をするのである。カレブは、アロンへと復讐をするのであるが、その報いを当然受けることになる。 "East of Eden", Penguin Books, John Steinbeck

Steinbeck, "East of Eden" (エデンの東) 16 アロン レタスと逃避

アロンは、ブロンドの髪と端正な顔立ちをし、また優しさと開放的な性格とも相俟って、大人にも同年代にも好かれる青年に育った。学校の成績も優秀であった。好青年のアロンには、やはり同じようなタイプのアブラAbraというガールフレンドができた。二人はお似合いであった。 アロンの父アダムは、キャシーが彼のもとを去ってから無為の人であったが、チャールズの死後に、何か自分が生きた証を残したいと思い始めた。アダムは何か大きなビジネスがやりたかった。アダムは氷による冷蔵保存に目をつけ、カリフォルニアのレタスを冬場に東海岸へと輸送することを考えついた。1900年代初め、冬場にニューヨークで新鮮なレタスは手に入らなかった。貨物列車にレタスと氷を積み込み、サリナスの人々に見送られながら列車は出発した。最初は順調に事は進んだが、途中の中西部でちょっとした連絡の不行き届きで列車が数日同じ場所に留められてしまった。ぎりぎりの日数で計算した輸送計画である、この数日が大きく響いた。レタスが東海岸に着いたときには食べられる状態ではなかった。アダムは、この失敗で大きな損を出すと共に、サリナスの人々からの嘲笑の対象となった。 アダムがレタスで大きな失敗をしたとき双子は高校生であったが、二人も笑いものにされ、レタスと呼ばれるようになった。アロンにはこの嘲笑が耐え難かった。アブラは父親がやったことはアロンには関係ないから気にすることはないと慰めるのであったが、アロンはサリナスを逃げ出してどこか遠くへ行きたかった。アロンは、高校を飛び級で卒業しサンフランシスコの大学へ行くことを決意した。 一方、カレブはこの事件にも平気であった。 この事件は、アロンの周辺に起きたことの一つであるが、彼の生き様を象徴していて、アロンは自分の望む事実のみを受け入れようとし、自分の望まない事実から逃れようとした。カレブは、ありのままを受け入れたのと対照的である。 "East of Eden", Penguin Books, John Steinbeck

Steinbeck, "East of Eden" (エデンの東) 15 カレブ ありのままの自分

カレブは孤独であった。心を開いて話すアロンの周りには人が集まったが、人に警戒心を与えるカレブの周りに人はいなかった。それに、思春期に入ったカレブは、人間のありのままの事実、どろどろとした醜さをも含めたもの、と一人で立ち向かわなくてはならなかった。だからカレブはいつも孤独であった。理由もなく一人で夜の盛り場を歩き回り、真夜中遅くまで家に戻らなかった。だからといって、彼は不良とは違っていた。 あるとき、夜中に賭博場で大人達が賭博に興ずるのを眺めていて、警察の取り締まりの巻き添えを食って、留置場に一晩やっかいになった。翌朝、父親のアダムが引き取りに行ったが、自宅に戻った後もアダムは当然不機嫌で無口であった。 しかし、その時、カレブは父親から意外な事実を聞かされた。真面目なアダムが留置場に入ったことがあるという話であった。アダムは軍隊生活になじめなくて、脱走し、留置場に捕まったことがあった。カレブには、父親と自分との共通点が初めて見つかったような気がしてうれしかった。いつも孤独でいたカレブにとって、初めて父親との間に心が通った瞬間であった。 "I am glad I was in jail," said Cal. "So am I. So am I." He laughed. "We've both been in jail --- we can talk together." A gaiety grew in him. "Maybe you can tell me what kind of a boy you are --- can you?" "Yes, sir." (p.451) (Calはカレブのこと。カレブとアダムの会話である。) カレブには、大人達が陰で密かに話す母親キャシーの噂が少しずつ聞こえてきた。おぼろげではあるが、キャシーの姿が見えてきた。カレブは、キャシーの店の周りに行ってはキャシーの行動を見張った。キャシーが毎週決まったパターンで行動するのに気がつくと、後をつけて回った。 キャシーは、後をつける若い男の存在に気がつき、カレブが自分の息子であることを知らずに彼を待ち伏せて、問いただした。自分の息子であることがわかったキ

Steinbeck, "East of Eden" (エデンの東) 14 アロンとカレブ

アダムの双子の息子アロンとカレブは、対照的な性質を現しながら成長した。アロンは優しい性格で誰からも好かれた。人々はアロンを見ると自然に好意を抱 き、アロンを受け入れるのであった。それに対して、カレブはどこか陰のある近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。カレブは隠そうとしても隠しきれない利口さ を備えていて、大人はカレブに対して警戒心を持ち、用心をしながら彼に接するのであった。 アロンが人に好かれるのを見て、カレブは嫉妬をいつも感じていた。自分も同じように好かれるようにと、アロンの行動を真似るのだが、いつも失敗に終わった。 次第に、カレブは、アロンと同じように愛されることを諦めていた。その代わりに、カレブはアロンをコントロールする術を知っていた。アロンの行動を予測す ることが出来たし、アロンの心を不安定な状態にし、怒らせることもできた。怒りがある限界を超えると、アロンは手がつけられなくなる事も知っていたし、そ うなったときにはカレブはアロンに体力で勝てないことも知っていた。だからカレブは、ある程度の限度を超えたときには逃げ出すべきことも知っていた。こう やって、アロンへの嫉妬に対する復讐をしたのだった。 読者は、アロンに対して羨望の念は抱くかもしれないが、カレブに対してより強く親近感を持つのではないかと思う。それは、著者自身も同じではなかろうか。カレブのことが書かれているのを読むとき、カレブへの愛情を感じるのである。 例えば、カレブへの気持ちを次のような場面で感じるのである。チャールズの死とその遺産の知らせがアダムに伝えられたとき、アダムとリーは居間でキャシー のことを話し合った。カレブはドアの陰に隠れて二人の話を聞いていた。自分の母親の存在とその性質についての話にショックを受けたカレブは、涙をこらえな がら自分の部屋へ戻った。泣いているのを悟られないように声を押し殺しながらアロンが寝ているベッドへと滑り込んだ。アロンは優しくどうしたのかと尋ねて くれる。アロンの暖かい言葉を聴きながら、カレブは涙をこらえ心の中で「嫌なやつにはなりたくない」とつぶやいた。 アロンのやさしい言葉が、カレブへの気持ちを示しているような気がする。カレブは、自分にとって不都合な事実も真に受け取ろうとして、苦しみながら涙を流すのである。カレブのその真摯な態度を暖かく見守っている。

Steinbeck, "East of Eden" (エデンの東) 13 アダムとキャシーの再会(2)

チャールズは生まれ育った農場で生涯を閉じた。チャールズは、父サイラスが残した遺産は、父が政府から盗んだものだと信じて、手をつけなかった。このため、チャールズの手元にあった遺産はそのまま残され、遺言によりアダムとキャシーへと相続されることになった。 弁護士からの手紙を受け取ったアダムは、キャシーに遺産を渡すべきかを悩んだ。キャシーにお金を渡せば、彼女はサリナスを出て東海岸へ向かい、キャシーに瀕死の重傷を負わせた男に復讐をすることだろう。それ以外にも、世に害を与えることであろう。アダムは迷った。 そして、ついにキャシーへ会いに行った。2度目の再会である。アダムは遺産のことを話し、キャシーの取り分を説明した。キャシーは、正直に遺産の話をするアダムに何か裏があるのではないかと疑った。というのもキャシーには正直に生きるアダムの行動の真意がわからなかった。真意がわからず、本当は存在しないトリックにうろたえるのであった。 アダムは、キャシーにはわからない大切なことが存在すること、自分にはキャシーにわからない大切なことがわかることを知った。それは、善き生き方を象徴するアダムの勝利でもあった。 "East of Eden", Penguin Books, John Steinbeck

Steinbeck, "East of Eden" (エデンの東) 12 自由な思考

時に栄光が人の思考を輝き照らすことがある。そのようなとき、肌は空気を味わい、呼吸は甘美に変わる。脳の中で煌めきが生じ、世界は炎のように燃えあがる。それは、思考の輝きであり、創造である。人の価値は、この栄光、思考の輝きの質や量によると、著者は語る。 外界は時にモンスターのように牙をむき人に襲いかかる。そのような外界へ対抗するために、人は協力する。一人よりも二人の方が石を運ぶことは容易である。たくさんの人でやる方が大きな事を為し遂げられる。そうして、我々は大量生産の時代に入る。大量生産は効率が良く、それ故に人の物質的な生活に浸食していく。物質的な生活に留まらず、大量生産の集団的な概念は、思想や宗教などの精神的な世界にさえも浸食していくのだ。 そのような時代であるからこそ、著者は問いを投げかける。「何を信ずるべきか」「何のために、何に対して闘うのか」と。 何を信ずるのか: 個人が持つ自由で探求する思考こそ最も価値あるものである。 何のために闘うのか: 思想の自由のために。 何に対して闘うのか: 思想の自由を阻み破壊する全てのもの、それが思想、宗教、政府であろうとも。 "East of Eden", Penguin Books, John Steinbeck

Steinbeck, "East of Eden" (エデンの東) 11 アダムとキャシーの再会

ーーー ウィキペディア「エデンの東」2008年5月10日 (土) 03:24 (UTC)Fuccieによる投稿は、このWebページの作成者によるものです。 ーーー 住み慣れた土地を離れ、オリーブのところに身を寄せるようになったサミュエルであったが、しばらくしてこの世を去った。葬儀が催され、親族や友人達が集まった。 サミュエルの葬儀に出席した帰りに、アダムはキャシーの営む売春宿を訪れた。キャシーと再会したアダムは初めてキャシーの真の姿を見ることが出来た。 その出来事は、再会と言うよりは対決と言うに相応しい雰囲気である。暗い面を代表するキャシーと、明るい面のアダムとの対決である。 キャシーは言う。この世に生きる人々は馬鹿と悪ばかりである。皆、自分は正しいという振りをしているが、すこしも正しくない。正しいという振りをしているだけである。キャシーにはその態度が許せなかった。キャシーは、世の人々を馬鹿にし、自分の都合の良いように使い、用が無くなれば破滅へと追いやった。 正しくあろうとする人間の姿勢を否定し、正しくないのであれば、そういう生き方をしろといっているように感じられる。 キャシーの存在は、読者に原罪の意味を考える機会を与える。正しくあろうとする人間の姿は偽りで意味のないことなのか、それとも、少しでも罪を償いながら努力することこそが一番美しいものではないか。 アダムはキャシーの意見を否定する。アダムにはキャシーの考え方にアダムの確固とした姿勢。 アダムは、真の自分自身を取り戻した。アダムの勝利は、読者にも勇気を与えてくれる。 "East of Eden", Penguin Books, John Steinbeck

Steinbeck, "East of Eden" (エデンの東) 10 サミュエルとの別れ 道は開かれている

サミュエルは、娘の一人ウナUnaが亡くなってから、急に老け込んでいった。 Una's death cut the earth from under Samuel's feet and opened his defended keep and let in old age. On the oher hand Liza, who surely loved her family as deeply as did her husband, was not destroyed or warped. Her life continued evenly. She felt sorrow but she survived it. (p.290) あんなに元気に生を享受していたサミュエルが老け込んだのを見て、子供たちは愕然とした。思案した子供たちは、サミュエルに農場から離れて子供たちの家を訪問するように招待し、遠まわしに引退への道を作った。サミュエルは、招待状をもらって、その企みに気づいたが、知らない振りをして引退を受けいれることにした。精力的に生きた人間であれば誰でもそうであろうが、彼にもつらい決断であった。 農場を離れる前に、親しかった友人たちに別れを告げるために訪ねて歩いた。誰にも最後の別れになるとは告げなかったが、サミュエルの心の中ではそれを告げていたのであった。 アダムのところには最後に訪れた。キャシーがいなくなってから何年も経っていたが、アダムは抜け殻の状態のままであった。サミュエルは、アダムにショックを与えて正気に返そうと考え、キャシーの居場所と その仕事(売春宿の経営)を伝えるが、アダムは激しく拒絶した。アダムが真実を悟り正気に戻るのは、キャシーと再会するときまで待たねばならない。 リーとの別れの場面で、カインとアベルの物語が再度持ち出される。リーは、中国人の哲人たちと共にヘブライ語にまで踏み込んでカインとアベルの物語に隠されている秘密を解こうとした。それには数年かかった という。 それは、旧約聖書の以下の箇所である。 「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(日本聖書協会 新共同訳聖書)

Steinbeck, "East of Eden" (エデンの東) 9 サミュエル

サミュエル・ハミルトンは、アイルランド移民1世で、遅れてアメリカへやって来た人々に属した。遅れてきたというのは、既に良い土地は先に来た移民達に配分されてしまい、残っていたのは水がない場所だった。農場を営むためには水が必須だったが、彼の場所には水は望めなかった。農場からの上がりで豊かになることは出来なかった。それでも精力的に仕事に励む人だった。 サミュエルは、アイルランド人らしい機知に富んだ陽気な話をする人で、誰にでも好かれるタイプであった。また、知的好奇心に溢れた、本の虫でもあった。高等教育は受けていないようではあるが、周囲の労働者階級の人々に嫌悪感を与えないように密かにではあったが知的な人間として生きていた。農場の経営の傍ら、器用さで持って鍛冶仕事をして周辺の者の役に立っていた。鍛冶の延長で、持ち前の才能を使って多くの発明をしたが、商売には結びつかず貧乏のままであった。しかし、彼には経済的な成功は一番大切なことではなかった。 妻リザは現実的な人で、夢を追いかけているサミュエルとは対照的な人物だった。毎日の労働は、それを誰かがやらなければならないから、自分で引き受けていた。毎日の聖書と祈りもやるべき事であるから欠かさず実行していた。物事の意味を追究するサミュエルとは、こういう面でも対照的であった。 二人の間には子供がたくさんあった。二人はたくさんの子供たちを実に立派に育て上げた。子供たちの一人、オリーブが著者の母親である。二人の過ごしてきた軌跡は、その時代の良心的な人々の代表例のように感じられる。 アダムがサリナスへ来て井戸を掘って欲しいと頼んだときから、サミュエルとアダムの交流が始まった。同時に、サミュエルとリーの友情も始まった。サミュエルは、片言の英語しか話さないリーの内側に知的なきらめきを感じ、リーの本当の姿を見抜いた。 キャシーが家出するまでのアダムは自分の園を作り上げることに情熱を燃やし、サミュエルも息子のトムと共に自分の発明を使って井戸の掘削に精力を注いだ。しかし、キャシーの家出と共にアダムの情熱は消え、サミュエルの努力も絶えることになった。 サミュエルがキャシーを見たときに、彼は悪寒が走るのを感じた。幼い頃に父親にロンドンへ連れられて行った時に見た死刑の様子を思い出した。それは怖い記憶だった。キャシーの目は、その日に幼いサミュエ

Steinbeck, "East of Eden" (エデンの東) 8 アダム

アダムは、温厚で善良な人であった。 生まれてすぐに母と死別して、継母となったアリスに育てられた。アリスに生まれた弟のチャールズとは、父親は同じであったが、性格も体力も違っていた。 父サイラスは、二人の息子に小さい頃から行進や木材運びなど訓練のようなことをやらせたが、チャールズは全てのことをうまくこなしたが、アダムは全てうまくやれなかった。訓練は、兄弟達にとって一種の競争であり、チャールズはいつもそれに勝った。アダムにとってそのような訓練も競争も無意味であった。やる意義を見いだせなかったアダムは、次第に自分の内側に閉じこもり、無気力な少年と周囲には映った。 しかし、アダムの父サイラスは、アダムの内側に隠された姿を知っていた。アダムを真の人間と認めた。そしてそう認識したからこそ、アダムを軍隊へと送った。逆に、父サイラスは、訓練を全てうまくこなしていたチャールズには真の人間性を見いだせなかった。チャールズは、そういう深い意味を理解しなかっただろうが、父親の態度に対して嫉妬を感じたのだろう。アダムとチャールズの関係は、カインとアベルの関係に等しくなった。 アダムは、父親の訓練についていけなかったように、軍隊にも合わなかった。人を殺さなければならないことを彼の心が受け入れられなかった。最後には軍隊を抜けだし放浪した。チャールズのことを思い、家に帰るのを躊躇したのだった。結局自分の家であるコネチカットの農場に戻ったが、父サイラスは莫大な財産を残して死んでいた。 アダムとチャールズは以前よりは仲が良くなった。アダムの軍隊での話を聞いて、チャールズが一目置くようになったからである。 そうやってコネチカットの農場で兄弟が暮らしているときに瀕死の重傷を負ったキャシーに出会うのである。瀕死のキャリーは庇護者を必要とし、アダムにすがった。アダムはキャシーに一目惚れし結婚した。そして二人は新天地カリフォルニアへと行く。アダムは意気揚々と、キャシーは嫌々ながら。 カリフォルニアに着いたアダムは、創世記のアダムのように園を作りたいと願い、良い土地を探し、また、井戸を掘るための手伝いをサミュエルに頼んだ。こうして、アダムとサミュエルに交点が作られた。 キャシーに出会ったアダムは、現実が見えなくなった。キャシーが見せたいと思うことしか目に見えず、キャシーの思う通りに動

Steinbeck, "East of Eden" (エデンの東) 7 中国人リー

中国人リーは、アダムがカリフォルニアに来たときに料理人として雇われたようだ。リーが物語に登場するのは、サミュエルがアダムから井戸掘りを頼まれてアダム邸を訪れたときである。 サミュエルを迎えたとき、リーはピジン語と呼ばれる片言の英語を話した。例えばこんな調子である。 "Chinee boy jus' workee -- not hear, not talkee"(p.172) しかし、サミュエルはリーの本当の姿を見抜き、二人きりになったとき、何故そのような話し方をするのかと訪ねた。リーは、ピジン語で話す方がアメリカ社会で生きていくのに便利だからと、その理由を流暢な英語で答える。リーはアメリカで生まれ、高等教育を受けた、哲学を好む知識人であったのだった。 リーは、サミュエルにだけは心を開き、哲学を語った。リーは、この物語の中でキリスト教文化の外にいる知識人として、聖書を語る役割を担っている。一度は双子の命名の時、もう一度はサミュエルとの別れの挨拶の時。カインとアベルの物語を読み解くための重要な役割を演じる。特に、サミュエルとの別れの夜、仲間の中国人哲人達と何年にも渡ってヘブライ語にまで踏み込んで研究をして得られた、聖書の一つの解釈をサミュエルへともたらす。それは人の可能性を示唆する言葉であり、前向きに生きるサミュエルにとって最高の別れの言葉となった。 また、リーは中国人という実際的な役割を持ち、キャシーがいなくなったアダム邸の全ての運営と、双子の養育とを実に立派に全うした。 "East of Eden", Penguin Books, John Steinbeck

Steinbeck, "East of Eden" (エデンの東) 6 双子の命名 カレブとアロン

妻に家を出て行かれたアダムは、もぬけの殻となって、ただ生きているだけの人間となった。生まれたばかりのわが子らへの関心もなく、名前すらつけられないまま、双子は中国人雇い人リーに世話をうけることになった。命名されずに数ヶ月も経つということを聞いたサミュエルはアダム邸に乗り込み、アダムとリーと共に双子の名前を考え始める。 三人が双子の名前を考え出す前に辿った道は実に面白い。 三人は、サミュエルの妻リザが渡してくれた聖書を開いて名前を考える。まず、出てきたのはカインとアベルの物語であったのだが、三人はカインとアベルの謎に夢中になる。 何故、神はカインを嫌ったのであろうか。いや、神はカインを嫌ったとは聖書には書かれていない。神はアベルの献げ物を喜ばれ、カインの物には眼をくれなかったとあるが、カインを嫌ったとは書かれていない。神からの愛を受け取れなかったと感じたカインは、激しく怒って顔を伏せた。カインは神の愛を渇望していたのである。 怒りを見せるカインに対して神は言われた。この箇所を日本語の聖書から引用する。 「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(日本聖書協会 新共同訳聖書) 最後の「お前はそれを支配せねばならない」の部分は原文で以下のようである。 thou shalt over him. (p.266) この文章は、物語の後の方で再度リーによって掘り下げられる重要なものである。リーは中国人として、キリスト教文化の外から聖書を読み解く役割を担っている。 アベルを殺したカインには、神から呪われ原罪(sin)が負わされた。こうして人には罪が入ったのである。カインは、神に対して、原罪を自分では負いきれないと許しを哀願するのだが、彼を害する者は7倍の仕打ちを受けるという”しるし”が与えられた上で追われてしまう。 カインとアベルの話がサミュエルによって朗読された時、アダムは、自分自身とチャールズとの関係を連想して叫んでいた。 読者には、キャシーの額には瀕死の重傷を負った際についた傷痕、つまり、”しるし”があったことも思い出されるだろう。 三人は議論に夢中になるが、双子の名前を決めることが出来ずに

Steinbeck, "East of Eden" (エデンの東) 5 キャシー

この物語の中で異彩を放ち他の誰よりも強く印象に残る人物像は、アダムの妻となり双子の母となる、キャシーのものである。 著者は、キャシーのことをモンスターと表現している。姿形は普通の少女であったが、精神や魂が歪んで生まれついたとしている。良心が欠落しているのである。そして、良心がないことを対人関係に使った。 彼女の周辺には幼い少女の時代から暗い影がまとわりついていた。その影が何なのか誰もわからないのであるが、しかし何となく感じる、そういう影であった。キャシーを教えていたラテン語の教師は教会で自殺するという奇妙な事件さえも起こった。 彼女は小さいころから聡明であった。嘘はつかないが、肝心なことを話さないことで、彼女は相手を巧妙に欺いた。彼女は、自分の奥深くに自分自身を潜ませて隠すとともに、相手の奥深くを読みとろうとした。相手の弱点を知ると、相手に悟られないように十分注意しながら、相手をコントロールして自分の思い通りに操縦した。ラテン語の教師も操られた一人であった。 キャシーの家が火事で燃えて一家全員が行方不明となるということも起きた。火事の後、キャシーは逃げ出し、売春宿に身を寄せる。ある売春宿の経営者の心をも操ったのであるが、最後に正気に戻った経営者が暴力による仕返しをし、キャシーは瀕死の重傷を負って投げ出されてしまう。 その窮地で出会ったのがアダムとチャールズの兄弟である。従順な性格のアダムは、キャシーが見せようとする幻影を見てキャシーを憐れみ恋した。しかし、チャールズにはキャシーの術が通用せず、チャールズはキャシーを忌み嫌った。逆に自分の心の中を読みとろうとするチャールズに対して、キャシーは警戒した。それは、似た者同士が相手の醜さを探り合うようなものであった。 自分の体が元のように健康な状態へ戻るまで庇護者を必要としたキャシーは、アダムを必要とした。だから、アダムの妻となって、行きたくもないカリフォルニアへもついていった。 キャシーが見せたいものをアダムが見ていたのだが、アダム自身が望むものをアダムは見ていたとも言える。キャシーが売春宿にいたことも知らなかったし、誰かが彼にそのことを伝えたとしても、信じようとしなかったに違いない。 キャシーは、双子を産むと間もなく、止めるアダムに銃で怪我をさせ一人家を出ていく。アダムと双子は残され、アダ

Steinbeck, "East of Eden" (エデンの東) 4 アダムとチャールズ

アダムとチャールズは、第1のカインとアベルの関係となった。 チャールズは、攻撃的な性格で、運動も出来た。父親のサイラスは、小さな子供たちに軍隊のように歩行訓練などをやらせたが、チャールズはそれをうまくこなした。一方アダムは、うまくやれないばかりか、訓練自体を嫌った。アダムから見ると、チャールズは訓練の優等生で父親のお気に入りだった。 しかし、実はそうではなかった。 アダムだけが軍隊へ入ることになった。入隊の前の晩にサイラスとアダムは散歩しながら語り合った。サイラスは、普段の態度からは想像できなかったが、アダムに目をかけていた。一方チャールズのことは、身体的な能力は評価しても、性格的には評価していなかった。ただ勇敢なだけでは、真の男になれないと考えていた。サイラスとアダムが親しげに散歩から帰ってくるのを目撃し、チャールズの気持ちに鬱積していた感情に引き金が引かれ、アダムへの暴力となって噴出した。鬱積していた感情とは、父親への誕生日プレゼントにまつわることだった。 父親の誕生日に、子供たちは銘々が自分で考えたプレゼントを贈った。チャールズは高価なナイフを、アダムは拾った子犬を贈った。サイラスはチャールズのナ イフを机の中にしまった後、一度もそれを出さなかった。これに対して子犬はいつもサイラスの近くにいて可愛がられていた。 自分のナイフの方が高価であり、軍人である父親にとって素晴らしい贈り物のはずである。しかし、父親がナイフを手に取っているところは一度たりと見受けれられなかった。それなのに、どこかで拾った普通の子犬を父親は可愛がっているのである。 それは、父親の心が、アダムだけを向いていることを暗示していた。チャールズにとって、これは許せないことであった。父親の訓練をよくこなし、何でもアダムより優れている自分こそが愛されるはずであるのに、現実は違った。自分は全く見向きもされないのである。 チャールズは激怒し、アダムを夜の散歩中に襲い、アダムを半死の状態にまで痛めつけた。アダムが上手く逃げなければ死んでいたかもしれなかった。 この事実は、アダムにとっても意外で、驚くべき事態であった。チャールズこそが、父親から愛されていると感じていたのに、自分が愛されており、しかも、その事実によってチャールズから命さえ狙われたのである。 アダムは、カインとアベ

Steinbeck, "East of Eden" (エデンの東) 3 サイラス

アダムの父サイラス・トラスクは、アダムの生まれる直前に軍隊に入ったが、入隊後すぐの戦いで片足を失い、義足の生活を余儀なくされる。除隊後故郷のコネチカットの農場に戻ったサイラスは、軍事関係の本を読みあさり、本だけの知識で軍事関係の専門家と名乗るようになった。自分の過去を知らない身内の人間に対しては、自分は軍隊時代に主要な戦に参加し、大統領や閣僚の右腕となったという作り話もした。一方で主要な論文誌に多数の寄稿をしたことから、実際にはほとんど軍事的な経験を持たないにも関わらず、軍事関係の世界では無視できない発言力を持つ専門家と見られるようになっていった。最終的にはワシントンに迎えられ、要人として生涯を閉じる。 サイラスが死んだとき、彼はたくさんの財産を息子達に残した。その財産を使ってアダムはカリフォルニアへと向かうことになる。 サイラスは非常に粗野で乱暴な人間だったのに対して、彼の妻は静かで内向的で宗教的でもあった。自分に対して厳しい性格であった。サイラスが軍隊から戻ると、彼女は自ら作りだした罪でもって自らを責め、そして乳児のアダムを残して、自殺してしまった。 サイラスは、後妻としてアリスという少女を娶った。アリスとの間に生まれたのがアダムの弟のチャールズである。穏やかな性格のアダムとは違い、チャールズは乱暴で攻撃的な性格を持っていた。二人の性格の違いに加えて、父サイラスの子供らに対する態度が、アダムとチャールズの関係に大きな影を落としていく。粗野な性格のサイラスに似ていたのはチャールズの方であったにも関わらず、サイラスの心はアダムの方を向いたが、チャールズの方には向かなかった。 サイラスと、アダムとチャールズとの関係が、第1のカインとアベルになった。 "East of Eden", Penguin Books, John Steinbeck

Steinbeck, "East of Eden" (エデンの東) 2 カインとアベル

この物語に大きな影を落としているのが、旧約聖書「創世記」にあるカインとアベルのテーマである。カインとアベルの話は次のようである。 アダムとイブがエデンの園を追われた後、彼らの間に二人の息子カインとアベルが生まれる。カインは土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となった。二人は自らの収穫を神に献げた。すなわち、カインは土からの実りを、アベルは羊の初子を神に捧げた。そのとき、神はカインの献げ物には目を向けず、アベルの献げ物だけに目を留めた。これに腹を立てたカインは、アベルを嫉妬して殺してしまった。その罪の故に神の前を去らねばならなかったカインは、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。 つまり、エデンの東とは、神に追われたカインが住んだ場所であって、この物語は、カインのことを下敷きにして神の愛をテーマにしている。神は本当にアベルのことを好まれ、カインのことを嫌われたのであろうか。神の愛を失った者はいかに生きればいいのだろうか。 スタインベックのエデンの東には、2重の形でカインとアベルの関係が現れているように思われる。第1は、アダムとその弟チャールズの関係である。第2は、アダムの双子の息子カレブ(キャル)とアロンの関係である。 "East of Eden", Penguin Books, John Steinbeck

Steinbeck, "East of Eden" (エデンの東) 1 サリナス

物語は、カリフォルニアのサリナスを舞台に二つの家族を描きながら、人生の深い意味を探ろうとしている。アイルランド移民であるサミュエル・ハミルトン一家と、東部から来たアダム・トラスク一家という二家族の群像が描かれている。 サリナスは、サンフランシスコの南にある谷間に存在する街である。穏やかな気候と土壌に恵まれ、灌漑できれば豊かな稔りが約束される場所であった。 The Salinas Valley is in Northern California. It is a long narrow swale between two ranges of mountains, and the Salinas River winds and twists up the center until it falls at last into Monterey Bay. サミュエルはアイルランド移民1世でサリナスに住み着いた。移民サミュエルが得た土地には水が出ず、生涯豊かな暮らしとは縁がない人であったが、好奇心と知的探求心に富み、ユーモアがあって快活でへこたれない性格をもった人でもあった。著者スタインベックの母方の祖父に当たる人で、祖父母やその子等が逞しく生きた様を描くことで、人生とは何かを探ろうとしているように感じられる。そこには、著者からの家族への愛情溢れる文章があるとともに、彼らを通じてその時代全体の描写が書かれている。 アダム一家についていうと、「エデンの東」や「アダム」という言葉が示すように、旧約聖書が提示する問題がモチーフとなって、複雑な人格とそこに生じる事件を通して人生の意味とは何なのかが読者に問われているように感じられる。深いテーマや重苦しい事件に、彼らの担っている重荷が意識される。それは、我々人間が担っている重荷(原罪)を象徴している。 サミュエルの明るく前向きな生き様は、アダムの重荷を目のあたりにして苦しむ登場人物達や、読者までにも、光を与えてくれる。 生きるとは何かという大きなテーマを扱った名作であると思う。 "East of Eden", Penguin Books, John Steinbeck