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ポール・ケネディ 「大国の興亡」 3 スウェーデン ひと時の大国

1500年からのハプスブルグ家拡張時代、スウェーデンは脆弱な基盤に立つ北欧の1国家に過ぎなかった。経済的にも軍事的にも取るに足りない存在であった。しかし、グスタフ・アドルフが1611年に王位に就いてから急激な発展を遂げるのである。 スウェーデンは木材、鉄鉱、銅の天然資源に恵まれていたが、当時未開発であり、オランダ人やドイツ人など外国の企業家によって、世界的な経済システムに組み込まれたのであった。こうして、ヨーロッパ最大の鉄、銅の産出地となった。輸出で稼いだ外貨で軍隊を増強することが出来た上に、外国からの投資や技術流入で武器を自給できるまでになった。 また、グスタフ・アドルフとその側近によって、宮廷、財政、税制、中央司法制度、教育など様々な領域で改革が進められた。特にグスタフ・アドルフによる軍事改革は有名で、徴兵制を敷いて常備軍を創設し、兵を訓練し、軍備を整え、グスタフ・アドルフ自らがリーダーシップを発揮して軍隊の士気を高めた。こうして当時の最高水準の軍隊を作り上げていたのである。 ハプスブルグ家とドイツ諸邦との三十年戦争が起きたときに、グスタフ・アドルフはドイツの新教徒を援助するという名目でスウェーデン軍を率いてドイツに侵入したのだった。スウェーデン軍の活躍は目覚しかったが、最初4万人の軍隊が15万人にまで膨れ上がり、軍隊を維持する費用も莫大なものとなった。スウェーデン軍は、ドイツの各地へ転戦し、友好的な土地であれば寄付金を集め、敵対的であれば略奪をしないという約束の下に補償金を要求した。こうして、軍隊を自国ではなく、侵入した土地の費用でまかなったのである。スウェーデン軍は自国に費用を負担できる基盤がなく、言わば寄生しなければやっていけない存在であった。スウェーデンは、長期的に大国として影響力を振るうには経済基盤が弱すぎた。 スウェーデンは三〇年にわたって勝利に酔い、略奪品でうるおった。だが、カール十一世のもとでスウェーデンは日々の生存という薄明の領域に立ち戻り、その資源と実質的な利益を優先させ、これに見あった政策を実施して、将来の二流国家の地位を自ら用意したのである。(上巻p.114) 1648年のウエストファリア条約でスウェーデンはバルト海沿岸諸国を手に入れたが、その地域を戦時に敵から防衛する費用はスウェーデンにとっては莫大なもので、大きな

ポール・ケネディ 「大国の興亡」 2 スペイン・ハプスブルグ家 拡大策の失敗

オーストリアに起源を持つハプスブルグ家は、中世に神聖ローマ帝国皇帝の称号を世襲するようになっていた。1500年から1世紀半の間、ハプスブルグ家の支配する国や領域がヨーロッパ全土に広がり、一時はハプスブルグ家がヨーロッパ全土を支配しそうな勢いを見せた。全ヨーロッパに広がった争いは、他諸国の同盟により、最後にはハプスブルグ家の拡張政策は挫折に終わる。 1500年以降の戦いは、1500年以前の戦いとは激しさの点で大きく異なっていた。1500年以前の戦いは、地域紛争、例えばイタリアの都市国家同士の争いやイギリスとフランスの王家同士の争いなど、であったが、1500年以降の戦いはヨーロッパ全土を巻き込んだ覇権争いになったのである。 戦いが大規模になったことについては、二つの大きな理由が挙げられている。第一の理由は、宗教改革である。それまでの王家同士の争いとは違う理由、宗教的な教義に基づく理由によって、国の範囲を超えて戦いに参加する人々が現れたのである。第二の理由は、王家の連合が生まれたことである。 ハプスブルグ家の持っていた戦略的な長所を見ていくと次のようになる。領地に住む人々は、ヨーロッパの約4分の1を占めていた。財源となるような豊かな地域を支配していた。、スペインのカスティリァ、重要な貿易地域であるオランダとイタリア各地、アメリカから産出される銀と金、それに商業と金融の中心地南ドイツ、イタリア、アントワープなどである。これらに加えて、戦略的に一番重要であったのは、スペインには訓練の行き届いた歩兵部隊であった。 こうした長所があったにも関わらず、ハプスブルグ家はヨーロッパの覇権を確立することはできなかった。その要因は以下のように分析されている。 第一の要因は、「兵器革命」が起こり、戦闘の規模と費用と組織が大幅に増大したことである。1500年までの戦いでは主力だった騎兵は、歩兵へと主役の座を譲った。これに伴って大きな軍隊の設立と維持が必要になった。これは海軍でも同様で、陸軍と海軍の維持には、膨大な費用がかかった。各地で紛争を抱えているハプスブルグ家は、陸軍と海軍の維持費用が2倍、4倍と膨れ上がり、常に破産の瀬戸際に立たされていた。 第二の要因は、ハプスブルグ家には戦う敵が多すぎ、守る戦線も広すぎた。如何にスペインの歩兵部隊が勇敢に戦おうとも、戦線が広がり

ポール・ケネディ 「大国の興亡」

本書では、西暦1500年から1980年代に至るまでの歴史において、大国と呼ばれ影響力を振るった国々の興隆と衰退を、軍事力、地政学、経済力、成長力などの観点から丹念に分析を行っている。世界全体を扱っているのであるが、結果としてはヨーロッパ諸国が分析対象の中心となる。 1500年年頃の世界全体を見渡すと、そこには中国の明帝国やオスマントルコ帝国が確固とした基盤を築き周辺国へ多大な影響を与えている一方、ヨーロッパは諸国が並び立つ群雄割拠の状態にあった。明帝国やオスマントルコ帝国は、軍事力、経済力、国土、人口のいずれにおいてもヨーロッパ諸国を凌ぐ存在であった。明帝国は強大な軍事力を築きアフリカまで航海できる海軍力も有していたし、オスマントルコ帝国はバルカン半島を制圧しオーストリアへと迫っていた。しかし、結局ヨーロッパ諸国がオスマントルコ帝国やその他の支配下に陥ることはなかった。しかも、この時代以降ヨーロッパ諸国は隆盛を極め、世界の他勢力を圧倒していくのである。 ヨーロッパ諸国が、オスマントルコ帝国の支配を免れ、その後オスマントルコ帝国を凌ぐ発展ができたのは、地政学的に防衛に適した国土に恵まれていたことや、軍事技術に歴然とした優位を築けたことが挙げられる。 ヨーロッパは広い平野部が少なく深い森林に覆われた複雑な地形をしており、諸国は地理的に分断されている。このため、広い平原ならば有効である騎馬民族による軍事的な制圧が困難であった。このため、ヨーロッパ諸国がそれほど強国でなかった1500年以前の時代にも、オスマントルコやモンゴルなどに制圧されることを免れてきた。その当時の最新の軍事技術つまり騎馬による闘いを防御することが可能であったわけである。 ヨーロッパ諸国は地理的に分断され群雄割拠状態で互いに熾烈な戦いを繰り返したことにより軍事技術開発が大きく促進されたし、ルネサンス時代を経て発達した自然科学も軍事技術の進歩に大きく寄与している。こうして、ヨーロッパでは1500年前後に軍事技術(鉄砲や大砲はそれまでの戦い方を一変させたし、大砲に打ち勝つ築城技術も飛躍的に進歩している)が世界のどの地域よりも大きく進化した結果、ヨーロッパ諸国は世界的に見ると軍事力で抜きん出た存在となった。争う相手より格段に優れた軍事技術を有している場合、相手を圧倒できるわけである。それは、ヨー