投稿

2010の投稿を表示しています

小林秀雄 「考えるヒント」 ヒットラー

小林秀雄の評論が集めてある「考えるヒント」という本は、彼独特の思考が述べられていて、読んでいて知的な刺激を受ける。今まで自分は物を考えていなかったのではないかと、何度も思い返すほどである。 この本の中にヒットラーに関するものがある。ここに抜粋させてもらう。ヒットラーの人生観や思想の根本が鋭く見抜かれていて、改めて考え直すことが多かった。それは、自分のヒットラーに対する考えが表面的なもので、世間の普通に流布している意見をそのまま受け売りしていただけで、ヒットラーに対して少しも思索をしていなかったことを小林秀雄の文章は思い知らせてくれた。 特にヒットラーが、人生は闘争である、というときに、それは議論や思想でなく事実であるといういうことには驚きを感じた。しかも、簡単だからといって軽視できないということにも眠りから目を覚まさせられたような感じを受けた。その実に単純で軽蔑すべき思想であるが、しかし軽視できない現実世界からの体験に裏付けられていること、それらを深く考えていないということは非情な現実から安全な書斎へと逃避してぬくぬくとしている自分がいること、それらに気がつき恥じ入った。 あのようなヒットラーが犯した残虐な行為も、それは彼固有のことで、我々一般の者には関係ないと思いがちで有るが、人間の深い意識の世界にはその残虐性も全て含まれていることにも、目を逸らしていた自分に恥じ入った。彼は特異ではあったかもしれないが、彼の行為の源泉にある獣的な深層心理は、我々も持っているのだという現実、それは驚愕である。それから目を逸らしてはいけないのかも知れぬが、それに耐えられる精神力を持った者にしか許されぬことである。 彼の人生観を要約することは要らない。要約不可能なほど簡単なのが、その特色だからだ。人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である。それだけだ。簡単だからといって軽視できない。 人性は獣的であり、人生は争いである。そう、彼は確信した。従って、ヒットラーの構造は勝ったものと負けたものとの関係にしかありえない。そして彼の言によれば「およそ人間が到達したいかなる決勝点も、その人間の獣性プラス独自性の御蔭だ」と。 人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅薄

キルケゴール 「死にいたる病」 2

人間は精神的な存在である。そうであるから、その人間が死にいたる病とは、肉体的な病にはあらず、精神的なもの、それは「絶望」であるとキルケゴールは言う。キルケゴールが言う「絶望」とは、深い意味を持つもののであり、一般的に使われている絶望とは違うということを注意する必要があると思う。 人間は本質的に「絶望」する存在である。自分が知らないうちに「絶望」している。「絶望」していないと思っているとき、あるいは「絶望」が意識にすら上らないとき、それは自分が人生の深い不安から目を逸らしているに過ぎない。真剣に人生の抱える不安に向かうとき、それは「絶望」するしかないのだとキルケゴールが言う。 この説明が難しい「絶望」の意味を探りながら読み進めていく。我々は死への恐怖を隠しつつ、日々を平穏を装って生きている。「絶望」からは、死への恐怖に近いものを感じるのだった。思弁のための思想になっていないか、絶えず気にしながら、「絶望」を探るのだが、それは素人には掴みようのないもので、するりとすり抜けてしまう。 「絶望」している状態からいかにして救われるのであろうか。それは、信仰によるしかないとキルケゴールは言う。キリスト者としてのキルケゴールが、人生の意味について出した答えである。 「死にいたる病・現代の批判」  中公クラシックス キルケゴール著 桝田啓三郎訳

キルケゴール 「死にいたる病」 1

キルケゴールの思想を紹介するのに、この本の一部を抜粋することにする。この本の序章として、柏原啓一氏によって書かれた解説が、キルケゴールの紹介に都合が良いであろうと思う。 キルケゴールにとって、人間の生きている世界は、変化してやまないそのつどの状況ごとに、神の前で誠実にこれを乗り切っていくことが課題となるような、そんな舞台である。状況の変化とともに、瞬間ごとに神関係が反復されていくような世界、すなわち、聖書のキリストの言葉が今の私に語りかけて、今際会しているこの時代が繰り返しキリストとの同時代性を帯びることのできるような世界、である。このような世界をキルケゴールは「歴史」と呼ぶ。(中略)歴史とは、(中略)何が生じるか予測がきかないような、いわば自由な世界である(p.21) 世界がこのような「歴史という自由の領域」であるのは、実は、人間が自由であるからにほかならない。キルケゴールにとって、人間とは、[神の前にただひとりで立つ]単独者であり、神に対して責任を取るという仕方で、自由に自らの主体性の形成に踏み出すときに、真の人間らしさを発揮することのできる存在である。(p.22) 人間の外に自由な世界があり、その自由を根拠として人間が存在意義を有しているということ。真に人間らしいものになるためには、自由である必要があるが、自分のうちには自由は存在していない。 自由を引き受けて生きる人間の在り方を、キルケゴールは「実存」と呼んだ。人間が本当に生きているといえるのは、本質に依存する安易な生き方ではなく、自由という厳しい生き方においてのことなのである。(p.22) 自由とは、常にその瞬間ごとに本当の生き方を探して戦い続けるようなものである。厳しい生き方。 生きる上での既成の根拠を自分のうちに持っていない自由が、人間を不安に陥れる。よるべき本質を持たないがゆえに不安を生む。「不安は自由のめまいである。」この不安から逃れるために、人は日常的な惰性で日を過ごしたり、刹那的な享楽に没入したり、あるいは大方の趨勢に身をゆだねたり、客観的公共性に責任を押し付けたりするが、それは自由の道を塞ぎ、主体性を放棄することにほかならない。(p.22) 人間はこの弱点をしっかりと

柳田国男 「遠野物語」

遠野地方に住む佐々木鏡石がその地方に口承にて伝わる話として語ったものを、柳田国男が書に記したものである。素朴で簡潔な文体で、脚色などなく、なるべく語られたままを伝えようと努力したことがすぐに知れる。 山男や山女の話や、マヨイガと言って山中に現れる富の館の話など、様々なものが収められている。一つ一つの話を丹念に見ていくと、物語としても面白いものが並んでいる。 柳田国男によれば、伝説や俗信には必ずや深い人間的意味があるはずである。柳田国男はそれらを根気良く収集し、掘り起こして行ったのである。これらの話を単なる田舎者に伝わる他愛もない話と片付けるのではなく、話が長い年月に渡って伝わっているからには何らかの意味がそこに隠されている、それは何だろうか。「山の人生」において、その一端が考察されていて一読に値するものだと思う。 平地に住んでいる者から、平地での経済的で科学的な基準で、切り捨てられてしまった世界が、当時の遠野にはまだ残っていた。科学的な視点で見たときに、合理性がないと切り捨てられた世界の中に、実は人間の根源に関わる事柄が潜んでいるのではないか。科学的合理性からいうと、幽霊などは全く見向きもされない存在となっているが、しかし、深夜の山奥に一人取り置かれたとしたら何か得体の知れない恐怖を感じるであろう、それは幽霊という説明とは違うかも知れぬが、何か世界の中に感じる恐怖を現していると思う。そのような科学的には分析できぬが、確かに人間が経験している世界が存在しているのだろう。それは、遠野物語のような本を読むときに改めて考えさせられる。 「遠野物語・山の人生」 岩波文庫 柳田国男著

ブレヒト 「三文オペラ」 乞食のオペラ

自分の娘を取られた乞食の親分ピーチャムが、相手の盗賊の首領マクフィスを罠に落としいれる。幾度かの脱獄の後、マクフィスは死刑に処せられることになるが、間際に特赦が出て爵位と褒章までが贈られる。 盗賊も、乞食の親分も、周囲にいる者から見るとかなりに裕福な暮らしをしていることからもわかるのだが、最下層の人たちを登場させてはいても、どうもブルジョア階級を皮肉った物語のようである。盗賊たちの婚礼の宴の下品な様子などは、成り上がりの階層の教養の無さや素性の悪さを皮肉っているのだろう。 乞食たちも、フランチャイズ的な商売で乞食をやっており、上納金を支払うことを約束した親分との契約が結ばれると、組織的に商売する場所があてがわれ乞食の変装(足が悪くないのに悪いように見えるものなど)が支給される。ブルジョアたちのビジネスも全体こんな詐欺まがいのものではないかと言わんばかりである。 盗賊マクフィスは、警視総監と裏で結びついていて、法の網から逃れられるように情報をもらい、代償として稼いだものから一部を渡している。自らの婚礼にも警視総監を招待しているほどである。そんなマクフィスであったが、ピーチャム一党による乞食パレードの圧力に警視総監が屈して、絞首刑に処せられることになる。刑の執行の間際まで、マクフィスは金の力で官吏を買収して逃れようとあがくが、乞食たちの力でそれもできず、とうとう絞首台にあがることになる。しかし、刑の執行の直前に国王の特赦が出て、爵位と褒章までが約束される。この最後のどんでん返しは、唐突な感じで、筋の強引さに違和感を覚える。何故、特赦が出たのかわからないのである。しかし、逆に、そこにこの世の矛盾を表そうとしているのかとも思える。 「三文オペラ」 岩波文庫 ベルトルト・ブレヒト著 千田是也訳

「ニーベルンゲンの歌」 運命との闘い

歴史を紐解けば、紀元437年にゲルマン人のブルグンド族がフン族に滅亡されたことが記されているが、これを下敷きにして中世末期の13世紀頃に書かれた一大叙事詩である。全編が4行詩の形で歌われており、美しい形式を持っている。日本語訳にしても、その一部を確実に味わえるのであるから、もし原語がわかるならば、きっと素晴らしい感銘を味わえるのではないかと思う。 ライン河畔ウォルムスに都するブルグント国は、繁栄を誇っていたが、勇者ジーフリトと王女クリエムヒルトの恋とそれに続くジーフリトの死を端緒として、破滅へと向かっていくのである。 ニーデルラント国の王子ジーフリト(ジークフリート)は、竜退治までやり遂げた不滅の勇士で、しかもニーベルンゲン国を倒してその国の至宝も手に入れた王者でもある。ジーフリトは、ブルグント(ブルグンド)国のまたとなき美しき王女クリエムヒルトに求婚し、王女の兄グンテル王を助けたことで結婚を許される。その後、ニーデルラント国王ともなり、力、愛、富の全てを手にした二人は幸福の絶頂を迎えた。 しかし、兄王グンテルの妃にそれを妬む心があった。それを知ったグンテルの忠臣ハゲネは、ジーフリトを暗殺するのである。ハゲネの提案に、王室の者は反対もしたが、結局グンテルは暗殺を決意する。竜退治の際に全身に竜の血を浴びたジーフリトの肌は、どのような剣も跳ね返す鋼のように硬かった。しかし、竜の血に触れなかった弱点があって、それを知られたジーフリトは、ブルグント王室の狩の最中にハゲネに暗殺される。最愛の王を失ったクリエムヒルトは悲嘆にくれ、そして兄王やハゲネが暗殺したことを知り復讐を誓うのであった。 クリエムヒルトは、フン族の国王エッツェル(アッチラ)から求婚され、フン国の王妃となる。王妃という権力を使い、ブルグント国王をフン国宮廷へと招待し、ジーフリトが亡くなって10余年経って、その復讐を果たす機会が訪れた。 ハゲネは、クリエムヒルトの招きを罠であると見抜き、フン国行きに反対したが、ブルグント国王グンテルは、武力を誇るフン国王エッツェルの招きを断れなかった。グンテルは、王族とその家来数千人でフン国を訪れる。ブルグント勢は、クリエムヒルトに唆されたフン国の家来と壮絶な闘いを繰り広げたが、いかに勇猛果敢な勇者揃いといえども多勢の前に力尽きてしまう。

小林秀雄 「セザンヌ」

画家セザンヌは、キュービズムなどの先駆者として現代美術の父という位置づけで語られることが多いが、小林秀雄はセザンヌをそういうようには見ていない。 セザンヌが掴みたかったのは、自然の瞬間の印象ではない、自然という持続する存在であった。(p.122) セザンヌは、自然の中にある確としたものをカンバスに描こうとしたのだ。我々は、物を見ているようで全く見ていないことを、画家が描く絵画を見て痛感させられる。本当に有るがままの自然を、そのままに見ることがどんなに難しく、また、どんなに苦しいことであるか。何か目前にあるものを試しに見てみればわかる。見れば見るほど今まで気づかなかった仔細が見えてくるが、同時に非常な疲れと苦しみを感じてくる。そして、耐え切れずに目を逸らしてしまう。自然は圧倒的に強い存在で、目から侵入して、見る者を烈しく打ちのめしてしまうのだという。むき出しの画家の感官が、自然に捉われるのだという。 印象派の画家たちは、自然のありのままを描こうとしたが、実際には、光を描いていたに過ぎない。一瞬の光の煌きが捕らえられているが、果たしてそれはものそのものといえるのだろうか。時間を経ても変わりなくそこに存在するもの、それこそがものそのものではないのか。セザンヌ描く静物画には、そのような、対象となるものの実体が写し出されているように感じられる。 小林秀雄の作品は、上で紹介したような浅薄なものではない。筆致できない深い洞察による内容が書かれていて、汲めども汲めども尽きることの無い泉のようである。自分でゆっくりと読まれることをお勧めしたい。 「人生について」 中公文庫 小林秀雄著

小林秀雄 「信ずることと知ること」

「信ずることと知ること」は小林秀雄の講演の内容を文章にしたもので、中公文庫から出版されている「人生について」という本に収められている。現代人、とりわけ理性的な人は、科学的なもののみを思考の対象としているが、世の中で経験される合理的・科学的でないものをどう考えるのかということが取り上げられている非常に刺激的で示唆に富んだ読み物である。 我々現代人は、合理的精神で説明がつかないものをナンセンスだと言って嘲笑し、思考から捨て去っている。合理的であることは、近代社会の中で効率的に生活していくうえでは重要なことであるが、果たして捨て去ったところにあるものをどうすればいいのだろうか。確かに、科学で説明できないことが、我々の周りでは経験されているのではないか。 小林秀雄が強い影響を受けた哲学者ベルグソンのことが引用されている。ある講演会にてベルグソンが聴講していたときに、超自然現象に関する話題で質疑が行われた。ある婦人は、夫が戦死した時刻に、夫の死ぬ様子を夢に見たのだという。これに対してある医者が、その婦人の事例に直接触れず、世の中には他に幻を見たけどそれが誤りだった事例がたくさんあると答えた。それを聞いた別の若い女性が「先生のおっしゃることは論理的には正しいかもしれませんが、何か先生は間違っていると思います。」といったそうである。ベルグソンもその若い女性が言っていることが正しいと思ったという。 その医者は、婦人の話を直接扱わないで、別の問題にすり替えてしまったわけである。しかしその婦人は、自分が実際に経験したことを話したわけである。科学者は経験を尊重しているが、それは我々が普通に経験しているものとは違う科学的な経験に置き換わっている。科学は、我々が生活の上で行っている広大な経験を合理的な経験に置き換え、計量化できるものだけを扱っている。科学はその計量化された経験だけに集中したが故に、大きな成功を収めているのだが、反面、切り捨てられている経験がそこにはあるはずである。 こうしてベルグソンや著者が話していることは、普通の意味で理性的に話している。しかし、それは科学的な理性ではないのである。我々が持って生まれた理性を、科学的な方法に置き換えている。科学のその狭い方法では扱えないものがたくさんあるのではないか。 自分は、合理的であることという現

ニーチェ 「ツァラトゥストラはこう言った」 

ツァラトゥストラにおいてニーチェは、「超人」と「永遠回帰」という彼の大きなテーマが述べられている。 カントが、神の存在は理性の対象の外にあると言った時に、ニーチェにとって「神は死んだ」。 一切を見た神、人間そのものをも見た神。このような神は死なねばならなかった!人間は、そのような目撃者が生きていることに耐えることができない。 至高の存在が無くて、人はこの世を肯定的に生きていくことは難しい。人生の苦悩の意味は神が与えてくれていたからだ。神がいなくなった社会の市民が平等の海の中で溺れているのを見ればそれが確認できる。市民は「おしまいの人間」へと成り下がった。心の拠り所となるべき核心が無い世界。苦悩に満ちている人生から目を逸らし、束の間の快楽に耽るしかない、そんな惨めな生き様である。 神が占めていた空間を補うためには、超人がなくてはならない存在であったのではないか。だが、その超人が何者であるのか。それは定かでない。 この世を超越した神が天に存在したのと違い、超人は大地の中にいる。 この世は悲痛で陰鬱なことに溢れており、人生に目的などなくただ空しいものであるという厭世的な考えに対して、ニーチェは「永遠回帰」でもって肯定的な答えを与えようとしているのではないか。 人生が一つ違わず完全に幾度も繰り返されるとしたら。 あなたがたは一切をもう一度くりかえすことを欲するか。 苦悩に満ちた人生に、至福のときが一瞬といえども無ければ、この問いに肯定的に答えることはできない。ニーチェは、神がいなくなった人生をも全く肯定しているのである。なんという偉大な精神であろうか。 「ツァラトゥストラはこう言った」 岩波文庫 ニーチェ著 氷上英広訳

大島末男 「人間とは何か」

「人間とは何か」という問いは、人生の困難に直面して悩むときに、誰もが自らへ問いかけるものではないだろうか。しかし、その問いへの答えは得られず、問いは永遠に続くものであろう。 本書では、哲学者やキリスト教神学者のいくつもの思想を辿ることで、この問いを改めて考えていくものである。その問いは、自己超越として扱われる。 ギリシャ哲学の黎明期には、万物の根源は何であろうかということがいわゆる自然哲学者たちによって問われていた。しかし、ソクラテスによって人間の内面へと根源的な問いが向けられることになる。ソクラテスは、問いかけを通じて、議論相手に「無知の知」を気づかせるが、これは古い自我に死んで新しい自我に生まれ変わるのに対応すると言う。実は、この古い自我に死んで新しい自我に生まれ変わるということ、つまり「自己超越」を辿ることこそ、本書の主眼であり、「人間とは何か」という問いへの答えへ導いてくれるであろうというのである。 自己超越を如何に扱うのか。エリアーデは「聖と俗」の中で、古代世界では、原初の混沌から世界の秩序を形成した神の行為を正確に繰り返すとき、人間は世俗的な自己を超越し宗教的な存在になれるのだと説いている。古代世界の人間にとっては、古典つまり神話こそは生きる規範であった。神話で語られる神は行為の模範を示してくれ、人間はそれに習うことで自己超越的に生きることが出来たのである。聖と俗の区別。俗である古い自我に死んで、聖である新しい自我に生まれ変わること。 近代のカントによれば、動物と違って、人間は精神と実践理性を持ち、人間の良心は神や掟などの外部からの強制によって律せられるのではなく、自律的で無条件の遂行を求める。欲望や打算的なものが命ずることを排し、良心という内部的な道徳律に基づいて、純粋に行為することができるのである。これがカントにとっての自己超越であった。人間の自然な行為から離れ、自らの良心に基づいて生きることである。 キルケゴールは、旧約聖書に出てくるアブラハムがイサクを神に献げる物語から、アブラハムの内面を分析している。神はアブラハムに対して、息子イサクを犠牲として献げよと命じ、アブラハムはそれに応じる。息子を犠牲として献げることは倫理的、道徳的には許されることではないが、宗教的には了承できるものである。キルケゴールにとっ

大島末男 人と思想「カール・バルト」

20世紀最大の神学者カール・バルトの生涯とその思想について丁寧に解説した良書である。バルト神学の神髄について解説された部分は、神学の基礎が無い自分に、果たしてどこまで何を理解できたのか怪しいが、そういう初心の者でもバルト神学の魅力に触れることができた。第2次世界大戦の時期、ナチスの脅威が迫ったヨーロッパと言う困難な状況においても、自らの神学に基づいた信念を貫いてナチスに抵抗した活動を実践し、神学者というよりも思想家というのがふさわしいが、理論と実践を実現したその姿には感動を覚える。現代の困難な時代を考えるとき、バルトの思想は我々に勇気と希望を与えてくれるのではないだろうか。 古典的な神学では、プラトン哲学のイデアによって神を理解しようとしてきた。その様な時代には神の存在を疑うことは無かったのである。ところが近世にかけて、デカルトに代表されるように、人間が自己の理性を中心に据えて思考し始めると、確実に存在するものは自己の理性であり、神は実体を伴わない存在へと転落してしまう。神は名称だけのもので、空虚な存在となってしまう。古典的な時代から見ると神と人間の関係が逆転している。それが現代社会に生きる人々の精神世界ではなかろうか。 バルトは、そのような状況で神が確固として存在する神学を築いたのである。それはキリストの出来事を中心に据えて、その視座から神学を確立していく。人間は理性によっては神を知ることはできない。人間は、神の啓示によってのみ、神を知ることができるのである。神の啓示、つまり聖書におけるキリストの出来事である。信仰によってキリストの出来事に触れるとき、隠れていた神と出会う。それは神の呼びかけと、人間の応答である。神からの呼びかけに応答した人間は、自らの殻から抜け出し、神と隣人への愛に生きることができるようになる。 イエス・キリストに出会うこと。そして、イエス・キリストの呼びかけに応えて生きること。 人と思想「カール・バルト」 清水書院 大島末男著