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マイケル・サンデル 「これからの正義の話をしよう」 1 幸福、自由、美徳

正義とは何であろうか。誰もが何かしらのイメージを持っていると思うが、それを言葉で形にするのは難しいのではないか。また、思弁的に論理的思考によって、正義を考えることはできるであろう。しかし、その方法では、毎日個人が体験する自身の周囲で起きている複雑で泥臭くて奥深い人生そのものからは遠く離れてしまっている。自身は安全な場所に身を隠しながら、高尚かもしれぬが意味を失ってしまいがちな問いをしているに過ぎなくなる。正義とは何かという人生にとって非常に大切な問いが、輝きを失ってしまうのである。正義とは、根源的なものでもあり、我々の日常の行為にも深く関わっているものでもあるのだろう。 この著作では、正義とは何かという探求が、我々が身を委ね又構成もしている社会はどうあるべきかという形で深められていく。例えば、2004年アメリカでハリケーン・チャーリーによって甚大な被害がもたらされたとき、一部では便乗値上げが行われ、自由市場はどうあるべきかという議論が巻き起こった。被害にあって困窮する人々を狙って法外な価格を請求するなどの行為が見られ、そういう便乗値上げは法律で禁ずるべきだという意見と、あくまでも自由市場を守るべきで便乗値上げは自由市場の一つの形であるという意見に分かれ大きな議論になった。 法律はいかにあるべきか、社会はいかに組み立てられるべきかというテーマにもかかわっている。つまり、これは「正義」にかかわる問題なのだ。これに答えるためには正義の探求をしなければならない。 (中略) 便乗値上げをめぐる論争を詳しく見てみれば、便乗値上げ禁止法への賛成論と反対論が三つの理念を中心に展開されていることがわかる。つまり、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の促進である。これら三つの理念は、正義に対して異なる考え方を提示している。(第1章) 例えば便乗値上げの問題を考えるとき、我々は正義のことを直接意識しながら議論はしていないかもしれない。それよりは、被害者の幸福のことを第一に考えるべきだとか、自由市場原理はいかなるときでも守られるべきだ、というようなことを考えているだろう。 便乗値上げによって、社会全体の幸福が向上しているようには見えない。高い価格が設定されたことで、商売の機会を感じた業者による供給の増

大野晋 「日本語練習帳」 2 写生文職人の限界

国の力が衰えたり混乱したりした時期や、海外との交流が盛んになるような時期に、国語を海外の言語に変えるべきだという意見が出たのだという。世の中を動かす知識や技術、高度に洗練された文化など、それらの発信源が海外の言語にあるとしたら、その言語を使ったほうが知識や技術、文化を取り入れるのに効率が良いだろうと想像して、世の権力者たちがその海外の言語を日本の国語にしようとするのは、全くわからない話ではない。 しかし、本当にそうだろうかと、一つの例を取りながら、著者は問いかけるのである。戦後の混乱期に志賀直哉が、フランス語を日本の国語にしてはどうかと提案したのだという。志賀直哉は、大正期の優れた小説家として、著者自身も尊敬した存在であった。その日本語を巧みに使って優れた文章を書いているはずの志賀直哉が、日本語はいかにも不完全で不便であるとして、国語をフランス語に変えてはどうかという意見を雑誌「改造」誌上において提案したのだという。 日本語は、文章を書くのに不完全で不便であり、これが起因して文化の発展が阻害されている、したがってこのままでは本当の文化国になることはできないというのが志賀直哉の主張であった。逆にフランスは文化の進んだ国であるからという理由であった。しかし、志賀直哉自身はフランスにもフランス語にもそれほど知識を持っている様子でもない。何か世間で流布している文化論を受け売りしているような印象を受けるのである。 国語はそのように簡単にスイッチで切り替えるように変更できるものではない。生きた文化、歴史そのものであるから、国語を英語やフランス語に変えたからといって海外の文化を取り入れられるものでも、日本の文化が急に進むものでもない。 志賀直哉の意見では、言葉と文化は切り離されていて、言葉は単なる道具にしか見られていない。それは、志賀直哉という小説家の言葉に対する態度を表しているのかもしれない。 「文化が進む」という場合の「文化」とは、内実何なのか。おそらく彼は『源氏物語』など読んだことがないのでしょう。志賀直哉には「世界」もなく、「社会」もなく、「文明」もありはしなかった。それを「小説の神様」としたのは大正期・昭和初期の日本人の世界把握の底の浅さのあらわれであるでしょう。 このことは作家個人に何か問題があるというより