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デカルト 「方法序説」 

デカルトは、彼の偉大な思想を次の事実から出発している。 「良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである 」 ここで良識とは、理性あるいは理性の働きのことであり、知識ではなく判断力のことを指している。人は誰しも自分は充分に良識を持っていてこれ以上望まない、つまり、自分の持っている判断力、真と偽を見分ける力、は正しいと考える。しかも、そのことは誤っていないように見えるのである。 人が遍く(あまねく)良識を持っていることはどうやって知ることができるであろうか。何も学問を修めたことの無いような市井の住民をみればよい。彼らにとって判断を誤ることは、その結果によっては自分自身への重大な罰が下ることを意味し、従って文字通り真剣な判断が要求されるし、実際に自分自身に害が及ばないような判断が正しく行われている事実からも知ることが出来るのである。 では、人が皆充分に良識を持っているのに、何故人の意見は様々に異なり、意見の違いが生じるのか。それは、良い精神を持っているだけでは充分でなく、それをよく用いることが大切であり、人は正しい思考の道筋を辿っていないから誤った答えに辿りついたり迷って答えが出せなかったりするのだという。精神を正しく用いなければ、「 大きな魂ほど、最大の美徳とともに、最大の悪徳をも産み出す力がある 」のであり、周囲に災厄さえもたらすのである。また、誤った思考の道を足早に進むことよりも、思考の正しい道をゆっくりと確実に進む方が、はるかに目標に向かって前進することが出来るのである。 わたしを考察と格率へ導いたある道に踏み入る多大な幸運に恵まれた デカルトは、彼自身が書いているように、若い頃から正しく思考する道へと踏み出し、一生をその道を歩き続け揺るぎなく前進した人であった。彼は、その思考方法によって様々な分野において多大な成果を上げていることは、彼の述べていることを裏づけしている。 デカルトはいかにしてこの道へと踏み入ることができたのだろうか。彼の人生(1596-1650年)の後半は、ちょうど三十年戦争(1618-1648年)に重なる。軍隊生活の中で、彼は人生の様々なことについて思索に耽った。人の教育過程を考えてみると、子ども自身から出る欲求や教師からの様々な教えによって精神が引き回されながら教育を受けており、それらの教えは