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魔の山 11 死についてのセテムブリーニの発言

セテムブリーニから故郷のことを問われて、ハンス・カストルプは、そこに暮らす人々を回顧しながら次第にその金銭的な態度に批判しながら話し始めた。 「冷静で、そして?そして、精力的!そうです、しかし、それは何を意味するでしょうか?それは冷酷で非情であるということです。そして、冷酷で非情とはなにを意味するでしょうか?それは残忍を意味します。あの下には残忍な風が吹いています、きびしい風が。ここにこうして寝て、遠くからそれをながめていると、こわくなるほどです」(p343) セテムブリーニは、対象から離れて単なる批評家になることをたしなめながら次のように語る。 「あなたはつまり」と彼は注釈を加えた。「幼少からいくたびか死と接触すると、考えなしな世俗の冷酷さと残忍さ、いいかえると、世俗の粗野にたいして、神経質に、敏感にならずにおられないような基本的気質をもたらさずにはいない、とおっしゃりたいんでしょう』」 ・・・ 「あなたがいま残忍を非難なさるのは、ある離脱を物語っているのですが、私はそういう離脱がはなはだしくなるのを見たくないのです。人生の残忍性をとがめることになれてしまうと、人生から、生まれついた生活様式から、離脱しがちだからです。ごぞんじですが、エンジニア、『人生から離脱する』とはどういうことかを?私はそれを知っているのです、ここで毎日それを見ているんですから。ここへのぼってくる若い人は(それに、ここへのぼってくる人はほとんど若い人ばかりです)、おそくも半年後には、いちゃつくことと体温のことのほかには頭になくなるのです。そして、さらにおそくも一年後には、そのほかのことは考えることができなくなり、ほかのことはすべて『残忍』、もっと正しくいうと、まちがい、浅薄と考えるようになるのです。」(p344) サナトリウムにいる人々の態度は、本当の生から逃げて、遠く離れたところに安穏としながら、考えもなしにただ批判を口にするだけのもの。セテムブリーニは更に進めて、話を死のことへと続ける。 「死を見るただ一つの健康で高貴で、そしてまた、ーーこれはとくいにつけたしますがーーただ一つの宗教的な考え方は、死を生の一部分、付属物、神聖な条件と考えもし感じもすることであってーー、健康、高貴、理性的、宗教的とはおよそ反対な考え方、つまり、死を精神的にどういう形かで生から切りはなし、生

魔の山 10 二人の祖父

セテムブリーニは、彼の祖父のことをハンス・カストルプとヨーアヒムに語った。祖父も反抗家で、国家的なスケールで活動していたことが窺えた。 ミラノで弁護士をしていたが、なによりも熱烈な愛国者であって、政治的扇動家、雄弁家、雑誌寄稿家ともいうべき人物であった祖父のことを語った。祖父も孫のロドヴィコと同じ反抗家であったが、しかし、孫よりも大きい大胆なスケールで反抗したのであった。・・・ 祖父は諸国の政府をてこずらせ、そのころ分割された祖国イタリアを無気力な奴隷状態におさえつけていたオーストリアと神聖同盟にたいして陰謀をはかり、イタリア全土にひろがっていた秘密結社の熱烈な党員であった。(p264) ハンス・カストルプは、二人の祖父の対比を感じた。 そして、、 二人は、北方の祖父と南方の祖父とは、いつも黒服を着ていたのであるが、どちらの祖父も彼と堕落した同時代との間にはっきりと距離をおくための黒服であった。 しかし、一人の祖父は彼の本性の故郷である過去と死のために敬虔な気持から黒服をつけていたのであったし、それに反して、他の祖父は反抗から、およそ敬虔とは正反対の進歩のために黒服をつけていたのであった。(p267) ハンス・カストルプの祖父とセテムブリーニの祖父とは対極にある存在であったが、同じような点もあった。二人の祖父は同時代の堕落した社会を嘆き、黒服を着てきっぱりと意思表示をしていた。 祖父たちからの遺伝的な影響も教育という影響も受けた、二人の孫は、祖父のスケールを小さくしたような存在であって、祖父の性質から、物語の中での孫たち二人の役割もうかがい知れた。 「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳

魔の山 9 時間感覚について

著者はたびたび時間のことにふれている。 習慣とは、時間感覚が眠りこむことであり、すくなくとも鈍くなることであって、青春の日々が春日遅々として感じられるのに反して、それからの日々が日ごとにあわただしくはかなく過ぎてしまうのも、やはり習慣によるものにちがいない。私たちは生活へ新しいちがった習慣をはさむことが、生命をつづかせ時間感覚を新鮮にし、時間感得を若がえらせ、強め、ゆっくりとさせ、それによって生活感情そのものを若がえらせるただ一つの手段であることを知っている。(p184) ハンス・カストルプは従兄のヨーアヒムを見舞うために来たのであって、療養までは予定していなかった。しかし、訪問予定の3週間がそろそろ終わろうとする時に風邪をひいてしまい、診察を受けたところ、3週間床に伏せることを命ぜられる。 彼がこの上で過ごしたつづく三週間について語るのには、初めの三週間の報告に必要とした紙数、ページ数、時間数、日数の数にもたりない行数、言葉数、秒数を必要とするのみであろう。(p315) 毎日が同じような日のくりかえしであるが、毎日が同じような日だとしたら、「くりかえし」というのはほんとうは正しいとはいえないだろう。単調とか、永遠に続く現在とか、悠久とか呼ぶべきだろう。君の枕もとへ正午のスープが運ばれてくる、ーー昨日も運ばれてきたように、そして、明日も運ばれてくるように。そして、それを見た瞬間に君は悠久の気にあてられるのである、ーーどんなふうにあてられるのか、どこからそれが吹いてくるのか君にもわからない。とにかくスープが運ばれてくるのを見たとたんに頭がくらくらとして、時間の区分がわからなくなり、区分が溶けあってしまい、君の目に万象の真実の姿として映じるのは、枕もとへ永遠にスープが運ばれてくる、前後のひろがりのない現在である。しかし、 永遠をまえにして退屈であるとかないとかいうのは、矛盾もはなはだしい。 (p317) 「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳

魔の山 8 セテムブリーニ

サナトリウムで療養している中の一人、イタリア人セテムブリーニは、「栗色の髪をしたほっそりとした紳士で、黒い口ひげを美しくひねりあげており、明るいべんけい縞のズボンを」はいていた。ハンス・カストルプは彼と対面して、「眼のまえの人物が紳士であることをはっきりと感じた。その外国人の教養のありそうな顔つきと言い、自由で美しいともいえる態度といい、それを少しもうたがわせなかった。」彼は文学者であった。 サナトリウムを批評的に冥府と表現した。顧問官ベーレンスと代診クロコフスキーの二人の医者をミノスとラダマントュスになぞらえ(冥府の最高裁判官)、サナトリウムを冥府と呼んだ。 「冥府を訪れたオデッセーのように。なんという大胆さでしょう、亡者どもが酔生夢死をしている深淵へおりてこられるとはーー」(p104) ハンス・カストルプの口から偶さか出た悪魔という言葉を掴まえて、悪魔を引き合いに出しながら話を続けていく。話は婦長フォン・ミュレンドンクのことになり、今度は中世が出てくる。 「敬愛するあなた、ここにはあなたが『中世の感じ』と呼ばれるものが、他にもいろいろとありますよ。」(p110) セテムブリーニは、著者から「悪魔」というあだ名をもらっているが、中世的なものに批判的であり、中世的なものに理性で対抗していこうとする立場にあることを窺わせる。イタリア人、ルネサンスの合理性の象徴である。 「私にいわせると、辛辣は闇黒と醜悪の力に対する理性の武器、もっともかがやかしい武器です。辛辣は、あなた、批判の精神であり、批判は進歩と啓蒙の根源です」。そして、たちまち、ペトラルカのことをしゃべりはじめ、ペトラルカを「近代の父親」と呼んだ。(p111) セテムブリーニにとってサナトリウムは理性的でない社会で、それだから中世的で、冥府でもあるのだろう。彼はしっかりと生きることを要求する。理性的に生きること、彼にとってはそれは批評をしながら生きることであった。サナトリウムに生活する人々が、それをやめていることを彼は感じ取っていたのだった。 「それは鈍感というものです!」とイタリア人はいった。「 批評しなさい!自然はそのためにあなたに眼と悟性をあたえたんですから。 」(p115) 「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳

魔の山 7 死と隣り合わせ、しかも隔絶されている

生と死が隣り合っているサナトリウムではあるが、しかし、隣人に訪れた下知らないという、何か隔てられている関係である。 「君に聞こうと思っていたがーー」と彼はいった。・・・・「僕の部屋の病人は、僕が着いたときちょうど死んだというんだね。ほかにもまだ、君がこの上に来てから、死んだ人がたくさんいるかい?」 「いくにんかはいるね」とヨーアヒムは答えた。「しかし、どれもこっそり片づけられてしまうんでね、だれもそれを少しも知らずにしまうか、あとでなにかの折りに知るだけで、だれかが死んでも、患者たちに知らせないように、ことに、発作を起こしかねない婦人たちのことを考えて、極秘のうちに片づけられてしまうんだよ。君の隣の部屋でだれかが死んでも、君はそれを少しも知らないでしまうだろうよ。・・・」(p96) 舞台裏で大切な事が起こり、そして片付けられてしまう。何か現代社会にも似たところがある。もしかすると、この人間社会はずっとそういう仕組みなのであろうか。 サナトリウムという非常に狭い人間関係の社会にも、その外側にある同時代の大きな世界からの影響からは逃れられず、その影響の現れがこういうところに出ているのだろうか。 「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳

魔の山 6 時代の影響

個人が知らないうちにも背負っている時代の影響、それが以下のように書かれている。 私たち人間は、だれも個人としての個人生活をいとなむ だけでなく、意識するとしないとにかかわらず、その時代とその時代に生きる人々の生活をも生きるのである。私たちが私たちの基礎をなしている超個人的な普 遍的な基礎を、絶対的なもの、自明なものと考えて、それにたいして批評を加えようなどとは、善良なハンス・カストルプがそうだったように、考えてもみない としても、そういう基礎に欠陥がある場合に、私たちの倫理的健康がなんとなくそのためにそこなわれるように感じることは、大いにありうることであろう。こ この人間にとっては、さまざまな個人的な目標、目的、希望、将来が眼前にあって、そこから飛躍や活動の原動力を汲みとることもできよう。(p61) ハンス・カストルプのサナトリウムでの滞在という、事件性のない出来事を描きながら、その時代を描くということ、それは、時代の流れといった時代そのものや、同時代に生きる人々の意識に、一個人が大きく影響を受けているという考えが根底にある。 「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳

魔の山 5 ハンブルグ

祖父と死別したハンス・カストルプは、母親の叔父にあたるティーナッペル領事のところに引き取られた。石炭やタール、それに積み上げられた植民地貨物でごった返す、国際貿易で栄えた港町ハンブルグ、彼はこの町の上流階級に属して成長していった。 商業をなりわいとする自由都市の支配的上流階級が、その子弟たちにつたえる高度の文明を、ハンス・カストルプはのんびりと、なかなかぴったりと身につけていた。(p59) ハンス・カストルプは、「 人生のなまの享楽に、赤んぼうが母親の乳房にしがみつくようにしがみついて 」いた。食後のシガーにも強い執着を持っていた。彼は仕立屋に服を作らせ、外へ出ていた期間にも下着類はわざわざハンブルグへ送って洗濯をさせたりもした。アイロンのかけ方はハンブルグが一番であるという理由でである。そういう上流社会の生活を送っていた。 彼は、「天才でもなかったし、愚物でもなかった」。著者が彼を平凡と呼ぶことを避けているのは、平凡という言葉がハンス・カストルプの知性についていっていると誤解を与えるのをさけるためである。ハンス・カストルプは自分で認識していなかったかも知れないが、人生の奥深い真理を感じ取ることができた。 それに、彼はどのような事柄と対象のためであっても努力などはまっぴらであったろう。苦しみをするのがこわかったというよりも、そんな必要を絶対にみとめなかったからであった。もっと正しくいうと、そんなことをしなくてはならない絶対的な必要をみとめなかったからであった。そういう必要のないことを何かの形で感じていたからこそ、私たちは彼を平凡よばわりしたくないのでだろう。(p61) 「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳

魔の山 4 祖父 正しい姿

ハンス・カストルプは、幼いころに両親と死別し、祖父のハンス・ローレンス・カストルプに育てられた。祖父は、ハンブルグの市参事会員であったから、かなりの有力者であったのだろう。 両親に死に別れた7歳の少年に真実を見抜く力があったわけではないが、祖父の正装を描いた肖像の中に真実を感じ取っていた。 しかし、七歳の少年にとっても、また、のちに大きくなってからの思い出の中でも、老人の日常の姿は祖父のほんとうの正しい姿ではなかった。正しいほんとうの姿は、日常の姿とはまたちがっていて、もっとずっと美しくて正しい姿であった。ーーーつまり、等身大の油絵にかかれていた祖父の姿が祖父のほんとうの姿であった。(p50) まえにもいったように、祖父のその絵画的な姿を祖父のほんとうの正しい姿と感じ、日常の祖父はいわばかりの姿の祖父、間に合わせに不完全にこの世へしばらく適合させられた祖父であるように感じられた。日常の祖父の姿で特異な奇妙なところは、これは明らかにそういう不完全な、たぶん、いくぶん不手際な適合の結果であって、純粋で真正な姿のかくしきれない名ごりであり、暗示であった。(p51) 何か「美しくて正しい」もの。そこに本当の祖父の姿があり、自分の眼前にあったのは仮の姿の祖父であった。年老いて生命力を少しずつ失っていく流転する生命ではなく、「美しくて正しい」変わらぬものに本当がある、何かギリシャ哲学的なものを7歳の少年が本能的に感じ取っていた。美しい話である。 こんなだったから、ついに祖父と永別する日が訪れて、祖父がかがやくばかりに正しい姿、完全な姿で横たわっているのを見て、少年はそれを心に不思議に感じなかった。(p52) 祖父の死に際して、彼は死の本質を本能的に感じていた。 それらの印象をときほぐして言葉にいいあらわすと、だいたいつぎのようになった。死は敬虔な、瞑想的な、悲しく美しい、つまり宗教的な性質を持っているが、しかしまた、それとは全然ちがう正反対の性質、ひどく肉体的で物質的な性質、美しいとも瞑想的とも敬虔とも、ほんとうは悲しいともいえない性質を持っていた。 (p54) 「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳