魔の山 4 祖父 正しい姿

ハンス・カストルプは、幼いころに両親と死別し、祖父のハンス・ローレンス・カストルプに育てられた。祖父は、ハンブルグの市参事会員であったから、かなりの有力者であったのだろう。

両親に死に別れた7歳の少年に真実を見抜く力があったわけではないが、祖父の正装を描いた肖像の中に真実を感じ取っていた。

しかし、七歳の少年にとっても、また、のちに大きくなってからの思い出の中でも、老人の日常の姿は祖父のほんとうの正しい姿ではなかった。正しいほんとうの姿は、日常の姿とはまたちがっていて、もっとずっと美しくて正しい姿であった。ーーーつまり、等身大の油絵にかかれていた祖父の姿が祖父のほんとうの姿であった。(p50)

まえにもいったように、祖父のその絵画的な姿を祖父のほんとうの正しい姿と感じ、日常の祖父はいわばかりの姿の祖父、間に合わせに不完全にこの世へしばらく適合させられた祖父であるように感じられた。日常の祖父の姿で特異な奇妙なところは、これは明らかにそういう不完全な、たぶん、いくぶん不手際な適合の結果であって、純粋で真正な姿のかくしきれない名ごりであり、暗示であった。(p51)


何か「美しくて正しい」もの。そこに本当の祖父の姿があり、自分の眼前にあったのは仮の姿の祖父であった。年老いて生命力を少しずつ失っていく流転する生命ではなく、「美しくて正しい」変わらぬものに本当がある、何かギリシャ哲学的なものを7歳の少年が本能的に感じ取っていた。美しい話である。

こんなだったから、ついに祖父と永別する日が訪れて、祖父がかがやくばかりに正しい姿、完全な姿で横たわっているのを見て、少年はそれを心に不思議に感じなかった。(p52)
祖父の死に際して、彼は死の本質を本能的に感じていた。
それらの印象をときほぐして言葉にいいあらわすと、だいたいつぎのようになった。死は敬虔な、瞑想的な、悲しく美しい、つまり宗教的な性質を持っているが、しかしまた、それとは全然ちがう正反対の性質、ひどく肉体的で物質的な性質、美しいとも瞑想的とも敬虔とも、ほんとうは悲しいともいえない性質を持っていた。(p54)

「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳




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