オルテガ・イ・ガセット 「大衆の反逆」 歴史的自発性の抹殺

世の中に氾濫するほどの民衆あるいは平均人の数、それが現代社会の特徴となっている。オルテガが本書を著した20世紀初頭に、圧倒的な民衆による社会の支配こそが社会あるいは政治に大きな問題を生じさせている根源的なものである、とオルテガは考えていた。そして、その問題は100年が経過した21世紀初頭でも根源的であり続けている。オルテガが指摘している問題とはどのようなことであろうか。

19世紀は、加速度的におびただしい数の民衆を生み出していった。民衆の生がいかなるものであったかというと、最大の特徴は、物質的、経済的な容易さ、つまり生きることが過去には考えられない位に容易になったということである。 民衆あるいは社会の中の平均人が、自分の経済的問題をかくも楽々と解決できた時代はかつてなかった。遥か過去には、多くの人々は飢えに苦しみ、貧困に落ち込み、常に死への恐怖に怯えていた。産業革命が進行し、科学技術が進歩するにつれて、各社会階層の平均人は、自分たちの生活の展望(暮らしやすさ)が開けてゆくのを目のあたりにすることになる。彼らの生活の標準には、つぎつぎと新しい贅沢が加えられ、彼らの地位はより安定し、他人の意志に自分の生活や生命が煩わされなくなった。以前なら幸運のなせるわざとみなされ、運命に対する謙遜な感謝の念を抱いたであろうようなことが、感謝の必要のない、生まれながらに与えられた要求すべき権利に変わってしまったのである。 1900年以降は、ヨーロッパ社会の底辺に近いところにある、労働者階級の生も安定し始めている。 

経済的な安楽さと安定性に、さらに、快適さと、社会秩序が付け加えられていった。民衆の生は快適なものとなり、暴力や危険が入り込むことは減っていった。民衆あるいは平均人は、生に対して安楽で平和なものを見るようになった。生きることはそれほど困難とは感じられなくなり、少しばかりの楽しみさえ見出せるようになっていったのである。

それまでの民衆にとって、生は、経済的にも肉体的にも、重苦しい運命であった。生きるということは、生まれながらにして、耐え忍ぶ以外に方法のない障害の堆積であり、それら障害に我慢して適応していく以外に解決方法は見出だせなかった。自分たちに残された狭小な空間にひっそりと隠れる以外に仕方がないと感じていたのである。 

生活面だけでなく、市民的、精神的な領域に関しても、19世紀の後半以降、平均人は彼らの前になんらの社会的障壁を見なくなった。社会的な生において、生まれながらにして、なんらの障壁も制約も受けなくなったのである。彼らの生は、貴族のような特権階級による恣意的な生活への介入がなくなり、いかなるものによっても抑制されることはなくなった。「身分」もなければ「階級」もない。民法上特権を有するものは一人もいない。かくして平均人は、法の前では万人が平等であることを学んだのである。 


過去の歴史を通じて、人間が、このような環境や生の領域の状況におかれたことは一度もなかったのである。人間にとって、物的にも社会的にも新しい舞台が創造されたことになる。この新しい世界を可能にした三つの原理は、自由主義的デモクラシーと科学実験と産業主義であった。科学と産業は、技術と言ってよいかもしれない。 これらは、17,18世紀に生み出され発展してきたものである。

19世紀は、ヨーロッパ各国で革命が起こった世紀であったが、この革命とは別の次元で革命的であった。民衆、平均人をそれまでと根本的に異なる状況に置き、社会的生の秩序は根本的にひっくり返され、民衆、平均人が支配的な勢力として大きくなっていった、そういう意味での革命である。それまでのあらゆる時代の民衆にとっては生とは制約であり、義務であり、圧力であった。以前は、金持ちや権力者といえども、世界は貧困と困難と危険の領域であった しかし、これらの革命的な出来事の結果として、人々は、より豊かでより完全でより良い未来が約束されていると感じたのである。


このような状況に置かれて、19世紀以降の民衆は、「大衆」となっていった。大衆は、心理的にもそれ以前とは全く異なる存在である。大衆は、自分の社会的な上昇と、自分の安楽な生存を可能にしてくれた全てのものに対して感謝する気持ちを持っていないので、それは、徹底的な忘恩となって大衆の態度に現れている。大衆は、彼らを取り巻く環境に甘やかされてきた自分だけが存在すると思い込み、自分以外の存在を考慮しない習慣、いかなる人間をも自分に優る者と見なさない習慣がついてしまった他の時代の民衆にとっては、世界は余りにも悲惨な場所であり、大きな災難がしばしば起きるだけでなく、安全、豊かさ、安定さが全くない場所であったことを考えれば、大衆の心理的な変化は大きなものであることがわかる。


そのような大衆の最大の関心事は、自分自身の安楽な生活であり、それ以外にはない。しかし、その安楽な生活の根拠となる社会的な基盤には連帯責任を感じていない 非常な努力と細心の注意をもってして初めて維持できる社会基盤、つまり科学技術であり、国家であり、社会的な規範などであろうが、これらに何の責任を持とうと考えないし、そもそも興味すら抱いていない。ただ自分の権利を社会に対して要求するだけである 


一見不思議ではあるが、大衆人は自分を完璧な人間だと思っている生に大きな障害がない世界では、自分以外の卓越した知性や、自分を超越する存在を無視しても、世の中は変わらず安逸なままであり、小さな自分に気が付かなくとも安楽に生き続けられるのである。他者を無視して生きていけるのであり、そこから大衆は自分を完璧と感じ始める。

逆に、優れた者が、自分を完全者とみなすためには、特別の虚栄心を持つ必要がある。虚栄というのは、虚栄心を持った者にさえ仮のもので、空想的で、疑わしいものである。だから、虚栄心の強い人は、他人を必要とし、他人に同意を求めるのである。優れた者は虚栄の危うさを知りながら、虚栄心を持とうと努力しているのである。

そこから、大衆と優れた者の相違が現れてくる。つまり、愚者と賢者の間に永遠に存在している相違そのものにつきあたるのである。賢者は、自分がつねに愚者になり果てる寸前であることを肝に銘じている。だからこそ、すぐそこまでやって来ている愚劣さから逃れようと努力を続けるのである。そしてその努力にこそ英知がある。逆に、愚者は、自分を疑うということをしない。自分は極めて分別に富んだ人間だと考えている。そこでは、愚者が自らの愚かさの中に腰をすえ安住してしまい、うらやましいほど安閑としていられるのである。

ここで賢者と愚者という言葉を使ってはいるが、大衆人が知性に欠けていると言っているのではない。大衆は、多くの知的能力を持っているのである。しかし、その知性が自らの生や社会に何の役にも立っていないのである。

大衆人の姿は、凡庸人が凡庸たることの権利、もしくは、権利としての凡庸さを宣言し、強行しているものである自分は知らないと言って、人の発言の傾聴や議論を拒絶するのである。知的凡庸さに支配された大衆にとって、人の意見に耳を傾ける必要がどこにあるだろうか 人の意見を聞かずとも自分の生は安楽で安泰のままなのである。

大衆の知的態度に関してさらに言及している。それは、技術や国家などの社会基盤と同じように、大衆が規則に対しても冷淡で無関心で、それに従おうとしない態度の事である。

思想や意見を調整する審判や議論に際して、一連の規則を認めなければ、思想とか意見とか言ってみても無意味である。そうした規則こそ文化の原理である。隣人が訴えてゆける規則が無いところに文化はないわれわれが訴えるべき市民法の原則の無いところには文化はない 議論に際して考慮さるべきいくつかの究極的な知的態度に対する尊敬の念の無いところには文化はない

こうしたものが無いところには文化はないのであって、そこにあるのは最も厳密な意味での野蛮である。そしてこの野蛮こそが、大衆の漸進的蜂起によって、世界を支配し初めている状態なのである。野蛮国にやって来た旅人は、その国には、彼が頼りうる原則が支配していないことを知っている。野蛮とは、規則の不在であり、控訴の可能性の欠如である。 大衆が支配する場所は野蛮な国になってしまう。


選ばれた人とは、自らに多くを求める人、自らに多くの責任を負わせる人であり、凡俗なる人とは、自らに何も求めず、自分の現在に満足し、自分に何の不満ももっていない人である。 それが、優れた者と大衆との差異である。

本質的に奉仕に生きる人は、大衆ではなく、実は選ばれたる被造物(神のような超越者との対比でこの言葉を使っている)である。選ばれた者、優れた者にとっては、自分の生は、自分を超える何かに奉仕するのでない限り、生としての意味を持たない。奉仕の対象がなくなったりすると、彼は不安になり、自分を抑えつけるためのより困難でより苛酷な規範を発明するのである。これが規律ある生、高貴なる生である。高貴さは、自らに課す要求と義務の多寡によって計れるものであり、権利によって計られるものではない。まさに貴族には責任があるのであり、「恣意に生くるは平俗なり、高貴なる者は秩序と法をもとむ」(ゲーテ) 


大衆の政治についての態度を見てみる。上で述べたように、大衆は、文化の基盤となる規則を無視するから、理由を示して相手を説得することも、自分の意見を正当化することも望まず、ただ自分の意見を断乎として強制しようとする。正当な理由を持たぬ権利、道理無き道理この事実の中に、能力を持たずして社会を指導しようと決心してしまった大衆の新しいあり方の最も明瞭な現れと危険がある

大衆は意見を主張しようとするが、あらゆる意見の主張のための条件と前提を認めようとはしない。大衆の思想が、真の思想ではなく、恋愛詩曲のように言葉に身を包んだ欲望に他ならないからである。

最良の共存形式は対話であり、対話を通してわれわれの思想の正当性を吟味できる大衆人がもし討論を認めたとすると、彼には議論する思想がなく自分自身が空虚であるから、大衆人は必然的に自己喪失に陥り、議論をすることが出来ないのである。そこで、大衆人は、本能的に(多分自分では意識的には気づいていないが)、自己の外にある最高審判に敬意を払う義務から絶縁しようとする。討論の息の根を止めよ」というのが世界の新事態となっている 

相手との対話、議論が出来ないということは、政治に暴力が持ち込まれることになる。暴力というのは、大衆の時代以前の世界では、ありとあらゆる手段を使い果たした人が最後に訴える手段であった。そういう意味では、暴力は激昂した理性に他ならない直接行動とは、従来の秩序を逆転し、暴力を最初の手段、唯一の手段と宣言することであり、大衆が握った政治が行う手段である。そういう意味では、オルテガは、20世紀に行われた暴力的な政治のいくつかを予言しているように思われる。 

暴力とは逆の姿が自由主義である。自由主義は、政治権利の原則であり、社会権力は全能であるにも関わらずその原則に従って自分を制限し、自分を犠牲にしてまでも、自分が支配している国家の中に、その社会的権力、つまり、最も強い人々、大多数の人々と同じ考え方も感じ方もしない人々が生きていける場所を残すように努めるのである 自由主義は、敵との共存、そればかりか弱い敵との共存の決意を表明する 何と美しく、奇跡的なことであろうか 

大衆は、大衆ではないものとの共存を望まない。大衆ではないものに対して、死んでも死にきれないほどの憎しみを抱いているのである。それは、彼らの政治がそれを表しているのかもしれない。


文明は進めば進むほど、いっそう複雑で難しいものになっていく。今日の文明が直面する問題は極端に錯綜している それらの問題を理解しうる頭脳は日ごとに少なくなっていく。特に大衆が社会の中軸を掌握しているとすれば、知的な基盤、頭脳が枯渇していくのは大問題である。


ローマが滅んだのは、技術の進歩が社会の拡大に追い付かず、物質的な問題を技術的に解決できなかったからである。それとは対照的に今日の文明では、自らの文明の速度について行けずに失敗しているのは人間である。日ごとに科学技術は進歩し、科学技術の基盤を理解できる人間はどんどん減っていく。だれも文明を理解できなくなってしまい、やがて文明は滅びさり、野蛮な人間だけが残る未来の原始時代が現れるのかもしれない。

現代社会では科学技術ばかりが注目を集めるが、歴史的な知識は社会の知的基盤を築き、また、社会的な課題を解決するために重要である。

歴史的知識は、成熟した文明を維持し継続していくための第一級の技術である。19世紀の奇跡的な進歩を可能としたのは、少数支配者の歴史的知識であったのである。オルテガは、社会は進歩するもの、あるいは彼の言葉で言えば社会は高みへ上がるものであった。その視点からいうと、オルテガの時代に台頭してきた二つの政治的な試み、ボルシェヴィズムとファシズムは、社会的な後退の例であった。これらは、その時点よりも過去の時代の失敗した社会的な仕組みに戻ろうとしていて、反歴史的、時代錯誤的であると言える。それらは、時代の高さ、社会的な進歩性を認識していない過去に行われたことが、過去の失敗の反省なしに、繰り返されている。過去を超克するには、過去の一切を縮図的に自己の中に持っていなくてはならないというファシズムは反自由主義を掲げているが、反自由主義は自由主義以前の世界に戻ることを意味する。自由主義を超克するには、自由主義を含み、止揚することが求められるのである。


大衆の時代を表現するとしたら、それは「慢心しきったお坊ちゃん」の時代と言ってもよいだろう。大衆人は、生は容易であり、有り余るほど豊かであり、悲劇的な限界を持っていないと感じている。大衆人は、自分自身の中に支配と勝利の実感があることを見いだし、こうした支配と勝利の実感が、大衆人にあるがままの自分を肯定させ、自分の道徳的、知的資産は立派で完璧であると考えさせる。そういう認識は根本的に誤りであることに、大衆人は気づかないのである。その姿は、「慢心しきったお坊ちゃん」そのものである。

この自己満足の結果、大衆人は、外部からの一切の示唆に対して自己を閉ざしてしまい、他人の言葉に耳を貸さず、自分の見解になんら疑問を抱こうとせず、自分以外の人の存在を考慮に入れようとしなくなる。大衆人はあらゆることに介入し、自分の凡俗な意見を、なんの配慮も内省も手続きも遠慮も無しに、「直接行動」の方法に従って強行しようとする 

こうした行動や態度は、「甘やかされた子供」と反逆的未開人、つまり、野蛮人に似たある種の不完全な人間のあり方を想起させる 正常な野蛮人は、彼らより上位にある審判、つまり宗教、タブー、社会的伝統、習慣など、に従順な者である 


大衆人は、生まれながらにして、効果的な道具、薬、国家や快適な権利に取り囲まれた自分を見る。自分の生まれる前にすでにこうしたものは生まれていたのであるが、こうしたものを発明することの難しさやそれらの生産を将来も保証することの困難さを知らない。

国家という組織は、知性があり正しく意思した者が与して初めて維持できるものであるが、それがいかに不安定であるかに気付かないし、自己のうちに責任を感じることもない。

生きる者としての根源から真正さを奪い取り、自分自身をも腐敗させてしまう慢心しきったお坊ちゃん つまり、自分が好き勝手をするために生まれてきたという錯覚に囚われている自己の運命から逃れ、運命の明白さと深い呼びかけに対して目と耳をふさぎ、自分がこうあらねばならない姿との対決を回避する自分の運命という確固不動の大地に足を踏まえようとせず、宙に浮いた虚構の生を営んでいる。重さもなければ根もない生、それは、漂泊者の時代である。


科学の偉大な成果を考えると驚くべきことと言うべきか、それとも細分化され専門化して専門バカという言葉まであることを考えれば当然というべきか、科学者こそ大衆の典型例なのである。それは、知性が欠落しているのではなく、知性や社会や規則に対する態度にその特徴が典型的に表れているのである。

科学は、科学者を大衆に、現代の野蛮人に変えてしまっている科学が発展するためには、科学者は専門化する必要がある。科学は総合的なものであるにも関わらずである。そして、科学は、哲学、数学、論理学といった基礎的な学問と分離しては、もはや科学ではあり得ないしかし、科学に関する労働、つまり研究の一つ一つの細かな作業は、不可避的に専門化せざるを得ない一つの特定科学だけしか知らず、その科学のうちでも、自分が積極的に研究しているごく小さな部分しか知らないような科学者ばかりが作り出されていく。それ以外のことを知らないことを美徳と公言し、総合的知識をげん学的と呼ぶような細分化された専門家の成果が、自分自身でも知らない科学を発展させてきた科学の発展は、凡庸な人間の働きによるものであった。つまり、そこに働いているのは機械化の原理である 科学の基盤を知らないとすれば、科学が成立し存続するための歴史的条件など知る由もない 


自惚れた大衆が自ら行動しようとすることは、自らの運命に反している。自分の運命を否定すること、自己自身に反逆すること。これがオルテガが言う「大衆の反逆」の意味であろう。大衆は、社会基盤にも知的な基盤にも興味がなく、意見を異とする他人との議論にも興味がないにも関わらず、社会を掌握しており、社会へ自らの安楽な生活のための要求だけを投げつけて行動する。これこそが「大衆の反逆」であろう。

最も大きな問題はどこにあるのだろうか。それは、社会が自らを作り変えて、新しい社会を繰り返し生み出していくような活力が失われていくことである。

今日の国家こそ、人間が産み出しえた最も顕著な産物であるが、大衆は、国家を自分のために存在し、自分の要求を満たすためのものと信じ込んでいる。社会的生に何らかの困難、軋轢、問題が生じたとき、大衆は、国家がそれに対して責任を取り、解決を図るように要求する。国家が大衆人の生活の全ての面倒を見てくれるような社会、つまり生の国有化が起こっている。そこで起きているのは、あらゆるものに対する国家の介入、国家による社会的自発性の吸収である本来であれば、人間が自ら工夫し、他人と協力し、共同のものを築き上げて新しい社会を生み出していくような活力、それが失われようとしている。人間の生を担い、養い、推し進めていくあの歴史的自発性の抹殺である


国家はつまるところ一つの機械に過ぎないのであって、その生存は、機械を維持している生命、つまり人間、に依存しているのだから、国家が社会の生命を吸い付くした後は、死に絶えるしかない。 ローマ帝国の時代、帝国国家はローマ共和制国家よりもはるかに優れた仕掛けを持った機械であった。しかし、帝国的国家が発展段階に達するやいなや、社会は衰退し始めた。2世紀に、国家は生を窒息させ始め、国家に奉仕する以外に生きる方法がなくなった。生が官僚化された。生の官僚化は、生の絶対的な衰退をもたらした。富は減じ、出産率は低下した

ローマ帝国で次に起こったのは、社会の軍隊化であった。安全の保護者。貧困はますます増大した国家主義の行き着く先は社会の衰退と国家の滅亡につながった秩序を守るために作られた権力は、自分たちが希望する秩序を樹立するだけでは満足せず、権力自身に都合のよいものを作り出していく。

社会の活力が奪われると、社会は衰退し、国家も錆びついて動かなくなる。国家が強大になっても、社会の活力が奪われれば、その社会は衰退し、滅ぶしか道は無いのである。それをローマは教えてくれる。オルテガは、同じことが起きようとしていると、警告を出してくれている。彼の警告は、論理的で、歴史的な教訓に基づいていて、現在の問題を自らの頭脳によって考えようとする者に道標を与えてくれている。

(2017年7月9日 加筆、修正)

「大衆の反逆」 ちくま学芸文庫 オルテガ・イ・ガセット著 神吉敬三訳

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