野矢茂樹 「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」 哲学問題の全ては解決されたのか

ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』の序文に於いて、次のように記している。

問題はその本質において最終的に解決された。

ここで「問題」と言っているのは、哲学問題の全てのことを指しており、哲学問題の全てが解決されたとウィトゲンシュタインは主張しているのである。

では、どうすれば哲学問題の全てが解決されたと主張できるのであろうか。それは、次のような論理の流れになる。「われわれはどれだけのことを考えられるか」という問いに対して、答えることができ、更に、その答えの中で哲学の全問題は思考不可能であることが明らかになったら、哲学問題は解決(解消)されたことになるというのである。


思考不可能なことは考えることはできない。しかし、「これは思考不可能だ」と言うことはできる。だが、これはナンセンスな文章である。言語の上では、有意味と無意味(ナンセンス)という言語の境界を引く事ができるというのである。どれほどのことを考えることが出来るかという思考の限界と、どれほどのことを語りうるかという言語の限界とが一致するとウィトゲンシュタインは主張する。こうして、思考可能性の限界を画定しようとする試みがなされるのである。

ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』の序文で自ら次のように記している。

本書は思考に対して限界を引く。いや、むしろ、思考に対してではなく、思考されたことの表現に対してと言うべきだろう。というのも、思考に限界を引くにはわれわれはその限界の両側を思考できねばならない(それゆえ思考不可能なことを思考できるのでなければならない)からである。したがって限界は言語においてのみ引かれうる。そして限界の向こう側は、ただナンセンスなのである。

本当にそのようなことができるのであろうか。本書を読んで真偽を確かめてもらいたい。


思考が言語によって語られる(画定される)というのは、非常な驚きであった。しかし、カントのカテゴリー表を見たときに文法書のようであるという印象を受けたことを思い起こすと、思考と言語は密接な関係にあるのだと感じる。


認識論を軸として考察されてきた哲学が、言語論を軸とした考察へと転換する、そういう時代にウィトゲンシュタインは生きていた。フレーゲによって開かれた言語論による哲学の扉から一歩踏み出したのはウィトゲンシュタインであった。それまで数千年続く古典的論理学を、フレーゲは関数論的視点で構築しなおし、論理学が扱える範囲を飛躍的に広げたのであった。フレーゲの方法は命題を関数と読み替えたのであるが、まさにこの点において、ラッセルはパラドックスが生じることを指摘し、フレーゲの論理学は基盤において危機に陥っていた。ラッセルのパラドックスを明解に解いたのがウィトゲンシュタインであった。ウィトゲンシュタインは、命題関数の定義域を明確にし、その範囲外にある入力に対しては、命題関数は定義しなおされるべきことを指摘し、ラッセルのパラドックスが解消されたのであった。


「論理哲学論考」の終わり近くで、死、幸福、倫理が扱われる。それまで命題論理とか論理空間とか言語論理が議論されていたことからすると、主題から外れているような印象を受けるが、こうした人生にとって重要な事柄が扱えない哲学など意味が無いことを思い出すと、こうした内容が出てくることはうなずける。ウィトゲンシュタインは、真剣に生の問題を考え抜いていた。『草稿』の中で次のように書いている。

この世界の苦難を避けることができないというのに、そもそもいかにしてひとは幸福でありうるのか。(『草稿』一九一六年八月一三日)

これは、生きるということへの諦めではない。ウィトゲンシュタインは、世俗的な意味で苦難に満ちた生であったとしても、必ず幸福になることができるという、生へ肯定的な意見を持っていたそうである。同じ『草稿』の中に次のように書いているのである。

幸福に生きよ!(『草稿』一九一六年七月八日)


「論理哲学論考」を著者野矢茂樹が明解に読み解いてくれるので、初心者でもウィトゲンシュタインの論理哲学を読むことができる。そこには、ウィトゲンシュタインによって開かれた新しい哲学の地平が広がっている。ウィトゲンシュタインと野矢茂樹が新しい道を導いてくれるが、新しく道を開拓することの迫力や面白さを本書は伝えてくれる。本書を通じて、著者と供に新しい知の地平への一歩を。


「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」 ちくま学芸文庫 野矢茂樹著




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