安部公房 「Sカルマ氏の犯罪 」社会の中の壁、疎外感

主人公は、朝起きると自分の名前が思い出せなかった。誰かに聞いても返事はもらえず、自分ではさっぱりわからなかった。名前が無いと、ツケで食事もできないし、病院にも行けなかった。誰も相手さえしてくれない。要するに、社会的な信用は消えてしまい、社会の一員であることを続けられなくなったわけである。社会からの疎外感が、寓話のように淡々と物語られる。

主人公にとって、名前を取り戻すしか生きていく道は無い。

主人公は自分の会社に行ってみると、そこには、彼の名刺が彼になりすましてY子と会話していた。Y子は気が付かないのだ。すべては、主人公を社会の外に押しやり、代わりに自分が社会の一員になろうという、名刺の企みであった。

それにしても、物によって取り替えられる人間存在。それほど希薄であったのだろうか。著者の眼差しは厳しい。


こんな具合に理性がやくだたなくなり、自由がなくなると、必然と偶然のけじめがまるでなくなって、時間はただ壁のようにぼくの行手をふさぐだけです。たとえY子の言うように、すべてが想像だとしてもそれがぼくだけの想像ではなくみんなに共通の想像であれば同じことです。現実からこのおかしな想像をマイナスすればいったい何が残るというのでしょう。(77p)


名前を失った主人公はカフカの「審判」のように不条理に裁判にかけられる。名刺の企みが発端ではあるとしても、その小さなきっかけで裁判が進んでいく社会とは何だろうか。社会を動かすのはもはや特定の人では無く、社会は誰も動かしていないのに自然に動いているのだとしたら、これほど怖ろしいことはあるだろうか。


「その論告によれば、歴史に記載されたすべての事件犯罪、ならびに現在行われているすべての裁判があなたに関係し、あなたの責任であるというのです。なぜなら、そのどれにもあなたの名前が記載されていない」
「あなたには名前がないのだから、そう言われても仕方ないでしょう。否認する証拠はないのです。」(95p)


あなたにとってこの裁判が不利なのは、その期間中、言いかえれば永久にあなたには法律の保護がないという点です。なにしろ人権というものも、つまりは名前に関するものですからね。(96p)



しかし、名前が無いというだけで、自分と社会の間には見えない壁ができてしまうとは、驚きである。

いや違うかもしれぬ、名前が重要だというのではなく、そこには元々壁があるというのが最も深刻で考えるべきことではないだろうか。社会から放り出されるまで気が付かないことではあるが、社会には見えない壁が元々あり、いつでも人を社会の外に放り出そうと待ち構えているのだとしたら怖ろしいことではないか。しかも、その社会が人によってでは無く、無機的な社会機構のようなものに動かされているとしたら、人間は終いには全員社会から放逐され、物だけが社会に残るのかもしれない。

社会から放り出された主人公は、新しい世界を探す旅に出るしかなくなる。この社会の外にある新しい世界とは何だろうか。


世界の果はそれを想う人たちにとって、もっとも身近なものに変化したわけなのです。言いかえると、みなさん方にとっては、みなさん自身の部屋が世界の果で、壁はそれを限定する地平線にほかならぬ。(107p)


真に今日的な旅行くものは、よろしく壁を凝視しながら、おのれの部屋に出発すべきなのであります。


昔、平板であった世界は球形に変わり、世界の果ては無くなってしまった。それは物理的な常識の世界観であり、社会から疎外された者にとって自分の周囲はすべて世界の果てである。自分の周囲には壁があり、その壁が新たな世界への出発点であるという。しかし、社会の外に皆で暮せる世界があるとも思えない。社会の外は一人ずつの小さな世界しか待っていないではと不安になる。


「Sカルマ氏の犯罪」 新潮文庫  安部公房著

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