グレアム・グリーン 「キホーテ神父」 

ドン・キホーテの子孫であるキホーテ神父は、ローマの枢機卿が自動車の故障で道端で困っているのを偶然助けたことから、枢機卿の特別の推薦によってモンシニョールの尊称を受け取ることになった。

モンシニョールの尊称は、カトリック教会に対して多大な貢献をした高位聖職者でもなければ授与されるものではなかった。キホーテ神父のようにスペインの田舎町でずっと神父をやってきた者に相応しいものではないと、周囲の者は感じた。特に彼の上司でもある司祭には強く感じられた。もともと、素朴なキホーテ神父と反りが合わなかった司祭は、モンシニョールの尊称を持つ者がこんな田舎の教会にいるのは相応しくないという理由で(勿論強く嫉妬を感じつつ)神父を追い出してしまった。

キホーテ神父は、丁度その頃に落選して暇になった前町長のサンチョとスペイン国内の旅行に出かける。ドン・キホーテのお供をしたあのサンチョ・パンサの子孫であるサンチョ(本名はエンリケ・サンカスといった)は、共産党に属していたから、神父と共産党員という面白い組み合わせの旅路となった。

現実的なものしか認めない共産党員と、現実の厳しさに打ちひしがれても信仰に生きる無垢な心の持ち主の神父との対話は、無神論で唯物的な生き方をする現代人と作者との対話でもある。

二人には、共通点が無いようで、実は自分が信頼している思想や信仰に、疑惑や躓(つまずき)を持っているという共通点があった。真に理想を信じているからこその心の揺れである。その疑惑をぶつけ合うことで、同じ信仰を持つ者同士よりも二人は親密になっていった。

共産党員はスターリンのやったことに疑念を持ちつつ無視していたし、信仰者はこの世の矛盾に神の御心を測りかねて心を乱されていた。

「地獄の観念に心を乱されて、眠れないことがしばしばあります。あなたもまた、スターリンと政治犯強制収容所のことを考えて、同じような夜を過ごしたことがおありだと思います。

わたしもまた、同じ夜間に、自分自身に問いかけていました。このようなことがあり得るのだろうか…憐れみぶかく、恵み多き神が…?」


サンチョは、共産党員になる前は神学校で学ぶ信仰者であった。一度は信仰の道を歩みながら、自分の罪深さから目をそらすように共産主義へと身を翻した。

「わしはあんたの不合理な盲信を笑うが、あのころのわし自身も、ある程度は似たようなものだった。それを想い出したので、この旅行に同行を申し出た。わし自身の青春を見出したかったのだ。あんたのカトリック教会を半分ほど信じていた若い日。当時のわしの人生は、あらゆる問題が複雑にからみ合い、矛盾に満ちーーそれだけにまた、面白くもある毎日だった」

真剣で真面目であったからこそ、信仰と現実の間の矛盾に強く苛(さいな)まれ、信仰を捨てて共産党に入ったのであった。しかし、サンチョが共産党でも同じように理想と現実の間の矛盾に苦しんでいたことは、想像に難くない。それをキホーテ神父は見抜いていて、次のように語るのである。

「そのようなあなたが、いまは全面的な信仰者にーー預言者マルクスの忠実な使徒に変貌したのですね。もはや自分自身の生き方を考えなくていいようになられた。預言者イザヤの教えに循(したが)って、未來さえ夢見ていたら、あなたの心が満ち足りている。だけど、わたしに言わせれば、欠けているものが一つありますーー絶望感の尊さです」

矛盾に満ちた世界を呪うのは簡単であるが、矛盾のない世界は果たして生きるに値するものであろうか。真の人生は、困難と矛盾に絶望するからこそ見出されるのではないだろうか。もし合理的に説明できる神があったとしたら、それはもう神ではなく人造物である。そんなものを必要とするのだろうか。


キホーテ神父の最期は、山奥の教会で迎える。体力を消耗し尽くし疲れ切った体で、朦朧とした意識の下でのミサであった。最早他の者の存在もわからない状態で、鬼気迫るものがあり、神と対話しているのではないかと感じられるほどである。

「友よ、わが友よ、膝まずきなさい」といいながら、二本の指を伸ばして、三歩進み出た。町長は両ひざをついた。言うがままに何でもしてやろう。神父の心に平安をもたらすことならば、と町長が考えた。指が近づいて来た。町長は口を開けた。舌の上に、聖餅のように指が触れた。「この跳躍によって」とキホーテ神父がいった。「この跳躍によってーー」そしてその両脚が崩れた。町長はかろうじて神父の身を抱きとめ、床に横たえた。「友よ」こんどは町長がその言葉を繰り返し、「わしはサンチョだ」と言いながら、キホーテ神父の心臓の鼓動をさぐったが、無駄だった。



人間への憎悪は、たとえその相手がフランコ総統のような男であっても、その男の死亡とともに消滅するのに、愛はーー彼がいま、キホーテ神父に感じはじめている愛はーーいつまでも存続して、死による別れを告げ、最終的な沈黙に隔てられたのちまでも、消え失せることがないのはなぜなのか。愛はいつまで存続するのか、そしてその行き着く先は、と彼は、恐怖のおもいで考えていた。


キホーテ神父が生を全うした時、サンチョはキホーテ神父への真の愛を感じていた。それはサンチョが若き日に忘れてしまった神への信仰であったのかもしれない。最も大切な友を失い、現実の世界に絶望しながらも、神を信じること。矛盾に満ちた現実を受け止めながら。




「キホーテ神父」 早川書房 グレアム・グリーン著 宇野利泰訳

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