チェスタトン 「ブラウン神父の無心」 読む者の心を啓く
推理小説として名高いブラウン神父シリーズであるが、奇抜で劇的で鮮やかな推理に目が行きがちであるが、その作品の大きな魅力はむしろブラウン神父が犯罪者たちに向ける言葉にあるのではないかと思う。そもそも謎を推理することが物語の目的ではなく、人間の悪を暴いて、悔悛の気づきへと導くことこそが目的ではなかろうかと思う。
後に無二の友人となるフランボーは盗賊であった。フランボーが見事な策略で、それは演劇の世界と現実の世界が交じり合って誰もが自分が劇中にいるのか現実に生きているのかわからなくなるような状況の中、宝石を盗み出した後で、トリックを見破ったブラウン神父がフランボーに語り掛けるのである。
フランボーは、自らは善のために悪を働く義賊であると自認していた。しかし、ブラウン神父の言葉は厳しい。義賊と言うが悪を働いていることには変わりはない。初めのうちは善のために少しだけ悪を働いているというが、そのうちにはもっと大きな悪を為すようになる。次はもっと大きな悪という形で、悪の道はひたすら下るだけであるのだという。ただ、善を目指して日々精進をする者だけが悪から遠のいていられる。しかし、一旦怠れば、悪の道はただ下るだけである。
深い思索と多くの経験に裏打ちされた言葉ではないかと思う。ブラウン神父にはモデルとなった人物がいて、やはりカトリックの神父なのだという。
ブラウン神父は、何故犯罪者の心理を推し量り、巧妙な計略を見破って、犯罪者を出し抜くことが出来るのであろうか。彼はこう言う。
「私は人間です」ブラウン神父は真面目にこたえた。「それ故に、心の中にあらゆる悪魔を持っています。
ブラウン神父は、彼自身も同じ人間であり、正直に潔く自分の心の中に悪がいることを認める。自分の中には悪人と同じ心があり、それゆえに悪人が何を考えるかも見当がつくし、どうすれば犯罪を成しえるのかも見えてしまうのである。
悪の心を持っていては犯罪者と変わりがないと思われるかもしれないが、自分の悪を潔く認め、自分の心の怖さや自らの弱さを理解しているというのは、大きな違いであると思う。
ブラウン神父は、こんなことも言っている。
自らの心の悪を懺悔できる人は強い。こうしたことを理解して常に努力して初めて、「ある水準の善を保つ」ことが出来るのだと思う。
ブラウン神父の発言には、カトリック至上主義、西洋文明至上主義が垣間見えるように感じられる。例えば次のような件(くだり)がある。
「理性はつねに合理的ですーたとえ最奥の辺獄、この世の果ての迷いの国へ行ってもね。世間は理性を貶めたといって教会を非難しますが、本当はその逆ですよ。この世でただ教会のみが、理性を真に至高なものにするのです。この世でただ教会のみが、神御自身も理性に縛られていると主張するのです」
あるいは、キリスト教徒以外に良い言い方をしていないときもある。
自分を高い位置においてモノを見る人は、周囲が小さく無意味なものに見えて、尊大な態度に陥りがちである。しかし、自分を低い位置においてモノを見る人は、自分よりも大きな偉大なものが見えるので、謙虚になる。我々もこうした謙虚な気持ちで日々を過ごすべきではないかと思えてくるのである。
ところで、本作品の原題は、
"The Innocence of Father Brown"
である。Innocenceを訳者は「無心」と訳している。無垢とか罪から無縁であるとか、そういう意味の言葉である。著者チェスタトンは、どういう意図をもってこの題をつけたのだろうかと、興味がそそられる。
人間は誰一人として悪や罪から無縁ではいられないということを逆説的に言いたかったのだろうか。
「ブラウン神父の無心」 ちくま文庫 チェスタトン著 南條竹則、坂本あおい訳
後に無二の友人となるフランボーは盗賊であった。フランボーが見事な策略で、それは演劇の世界と現実の世界が交じり合って誰もが自分が劇中にいるのか現実に生きているのかわからなくなるような状況の中、宝石を盗み出した後で、トリックを見破ったブラウン神父がフランボーに語り掛けるのである。
「人間というものは、ある水準の善を保つことはできるかもしれないが、ある水準の悪を保つことは、誰にもできなかった。道はひたすら下り坂だ。」
Men may keep a sort of
level of good, but no man has ever been able to keep on one level of evil. That
road goes down and down.
フランボーは、自らは善のために悪を働く義賊であると自認していた。しかし、ブラウン神父の言葉は厳しい。義賊と言うが悪を働いていることには変わりはない。初めのうちは善のために少しだけ悪を働いているというが、そのうちにはもっと大きな悪を為すようになる。次はもっと大きな悪という形で、悪の道はひたすら下るだけであるのだという。ただ、善を目指して日々精進をする者だけが悪から遠のいていられる。しかし、一旦怠れば、悪の道はただ下るだけである。
深い思索と多くの経験に裏打ちされた言葉ではないかと思う。ブラウン神父にはモデルとなった人物がいて、やはりカトリックの神父なのだという。
ブラウン神父は、何故犯罪者の心理を推し量り、巧妙な計略を見破って、犯罪者を出し抜くことが出来るのであろうか。彼はこう言う。
「私は人間です」ブラウン神父は真面目にこたえた。「それ故に、心の中にあらゆる悪魔を持っています。
ブラウン神父は、彼自身も同じ人間であり、正直に潔く自分の心の中に悪がいることを認める。自分の中には悪人と同じ心があり、それゆえに悪人が何を考えるかも見当がつくし、どうすれば犯罪を成しえるのかも見えてしまうのである。
悪の心を持っていては犯罪者と変わりがないと思われるかもしれないが、自分の悪を潔く認め、自分の心の怖さや自らの弱さを理解しているというのは、大きな違いであると思う。
「落ちるかも知れないとおっしゃるんですか?」とウィルフレッドが訊いた。「肉体は落ちなくても、魂が堕ちるかもしれないという意味ですよ」ともう一人の聖職者はこたえた。
ブラウン神父は、こんなことも言っている。
「魂のただ一つの病を治せるかね?」ブラウン神父は、本気で好奇心をそそられたように続けた。
「魂のただ一つの病って、何です?」フランボーはにやにやして聞き返した。
「自分がまったく健康だと考えることさ」
自らの心の悪を懺悔できる人は強い。こうしたことを理解して常に努力して初めて、「ある水準の善を保つ」ことが出来るのだと思う。
ブラウン神父の発言には、カトリック至上主義、西洋文明至上主義が垣間見えるように感じられる。例えば次のような件(くだり)がある。
「理性はつねに合理的ですーたとえ最奥の辺獄、この世の果ての迷いの国へ行ってもね。世間は理性を貶めたといって教会を非難しますが、本当はその逆ですよ。この世でただ教会のみが、理性を真に至高なものにするのです。この世でただ教会のみが、神御自身も理性に縛られていると主張するのです」
あるいは、キリスト教徒以外に良い言い方をしていないときもある。
「善良な男ですが、キリスト教徒ではありません 頑なで傲慢で赦しを知らない。」
そうした著者チェスタトンの姿勢を嫌う人も確実にいると思う。そうした信条の違いがあったにせよ、それでもそこには真理を含んだ言葉が収められているはずだし、その真理の部分を尊重するべきだと思う。
「謙譲は巨人の母です。谷間からは偉大なものが見える。山の頂からはちっぽけなものしか見えません」
自分を高い位置においてモノを見る人は、周囲が小さく無意味なものに見えて、尊大な態度に陥りがちである。しかし、自分を低い位置においてモノを見る人は、自分よりも大きな偉大なものが見えるので、謙虚になる。我々もこうした謙虚な気持ちで日々を過ごすべきではないかと思えてくるのである。
ところで、本作品の原題は、
"The Innocence of Father Brown"
である。Innocenceを訳者は「無心」と訳している。無垢とか罪から無縁であるとか、そういう意味の言葉である。著者チェスタトンは、どういう意図をもってこの題をつけたのだろうかと、興味がそそられる。
「あなた、こんな風に考えたことはないんですか 日頃、人間の現実の罪を聞かされてばかりいる男が、人間悪にまるきり無頓着でいることはあり得ないと?」
人間は誰一人として悪や罪から無縁ではいられないということを逆説的に言いたかったのだろうか。
「ブラウン神父の無心」 ちくま文庫 チェスタトン著 南條竹則、坂本あおい訳
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