トーマス・マン 「詐欺師フェーリクス・クルルの告白」(下) 

トーマス・マンは、自己の人間洞察の目を通して、表からは窺い知れない心の奥底に深く沈んでいる心情の機微を掬(すく)い上げて、主人公フェーリクス・クルルに人間とは何を考えているかを見事に語らせている。卓越した語りの力強さ、人間洞察の奥深さに圧倒されつつも語りの世界へと引き込まれていく作品である。


フェーリクス・クルルは、パリの高級ホテルのエレベータボーイとして働き始めたが、典雅な身のこなしと人を扱う才能、人に好感を与えずにはおかない輝くような容姿をマネージャに認められ、ホテルのレストランで給仕するボーイに昇格した。フェーリクスの持つ才能がこれまで以上に発揮された。


仕事の合間にサーカスを見に行ったことがあった。サーカスの中心は、空中ブランコを演じる若い女性アンドロマシュであり、フェーリクスは彼女に心を奪われ崇拝に近い感情さえ抱いた。彼女の超人的な業(わざ)、彼女は地面に安全ネットを張らないままに空中ブランコを演じ続けた。1つのブランコで飛び出していくと空中で別の方向から来るブランコに寸分違わず飛び移り戻ってくる、微小な狂いや気持ちの揺れさえ許されない業であり、もしブランコの代わりに空を掴んだら死が待っている。とても人間が成していることとは思われなかった。

果たしてアンドロマシュ(それはつまり人間の中で、超人的な技能をなしたり、死と隣り合わせに生きる者達)は、人間的なのだろうか、とフェーリクスは問うている。彼女が普通の母や娘として生活しているのを想像するのは愚かしいことだという。母や娘として生きる人は、空中ブランコはしないものだし、多分できないのだろう。普通の者が愛や生活に使うエネルギーを、こういう超人的な者達は、彼らの業(わざ)の中で使い果たしてしまうから、普通の生活はできないないのである。


レストランで紳士淑女あるいは貴族の家柄の人々と給仕として会話しサービスをするようになってから、一人のルクセンブルクから来た青年侯爵ルイ・ヴェノスタと知り合った。ヴェノスタ侯爵は、ソルボンヌでの法律の勉強を途中で投げ出し、パリに絵の勉強をしにきていた。ルイ・ヴェノスタは、パリでザザという女優と身分違いの恋愛関係に落ちていて、そのことをルクセンブルクの両親に咎められ、ザザをパリに残して(貴族の子弟が世間勉強のために行う)世界周遊旅行に出ることを強要されて困惑していた。勿論、こういう込み入った話を侯爵が給仕相手にすることはなく、この会話が成されたのは、フェーリクスが詐欺で稼いだお金で特別の部屋を借りておき、休日に気品のある衣装に着替えると街の高級レストランで時間を過ごしていたのだが、たまたまレストランでルイ・ヴェノスタと会った時であった。

ルイ・ヴェノスタは、給仕でありながら気品ある姿に変身していたフェーリクスに驚くとともに、自分の身代わりとなって世界周遊旅行に出るという提案をフェーリクスにしてきた。生まれは貴族の家柄ではなかったが、自分は貴顕なものを有する特別な存在であると自覚していたフェーリクスの目には、貴族として扱われ自らもそう振る舞うことができるというのは魅力的な提案であった。代父が敷いてくれた道を自分の意志でいつかは外れて行こうと心積もりを持っていたフェーリクスには、ここがその時であると感じられた。フェーリクスは、いつも自己の理性によって自分自身の心を見張っていた。何か魅惑的なことに出会うとき心が惹かれるのを感じるが、理性は真に自分の人生を賭すに値するものであるかを問いかけるのである。フェーリクスはいつも理性と冷静に対話しながら生きていく。冷静に考えた末に、青年貴族の代役を引き受けて生きるのである。


世界周遊の旅は、パリからポルトガルのリスボンへ行き、そこからヨーロッパを離れて南米へ渡りアルゼンチンにある父母の知己(ちき)の邸(やしき)に身を寄せる。その後、太平洋を越えて、アジア各国を見た上で再びルクセンブルクへ帰る計画であった。


フェーリクスは、パリから南北急行の一等コンパートメントに乗り込むとリスボンへ向かった。食堂車で向かいに座った「星のような目」をしたクックック教授という古生物学者と知己になった。クックックは、食事の傍(かたわ)らフェーリクスに生物学の講義を授けてくれる。

一体地球が生まれてから生物が現れ現在に至るまで如何に進化してきたのか、フェーリクスにとって驚異的な教えであった。最初期の形態から生物は進化し続けて最高度の生物に至る。しかもその間に全段階が存在し続け、これからも並存し続けるということ。何という驚異であろうか。宇宙という空間と、初めと終わりの時間。無限の広がりと同時に終焉が存在している。人間の根源的なものに関わって生きるフェーリクスにとって重要な意義を持つ話であった。

フェーリクスには、人間存在の意義が垣間見られたように感じられたのである。人間が動物から一つ抜け出して新しい存在になったとき付け加わったもの、それは初めと終わりに関する知識である。生物の「始まり」は、「終わり」を内包している。生命のはかなさは生きるものの価値を下げるという人もいるが、生命のはかなさこそが価値と尊厳と愛らしさを与えるのだとフェーリクスは力強く語る。全宇宙の存在は、はかなさによって魂を吹き込まれる。生命とは逆の位置にあるもの、どこまでも永遠でそれ故に魂を吹き込まれることがなく共感に値しないのは、「無」だけである。

存在は健やかな幸せではない。存在は喜びと重荷である。そして全ての時間空間の存在、全ての物質は、深い深いまどろみの中にあっても、この喜びを、この重荷を、あの感覚を、分かち持っている。それは最も覚醒した感覚の担い手であるヒトを万物の共感へと誘(いざな)う感覚である

楽しく安らかなだけの生は真の人生ではない。真の人生は喜びと重荷の両方を真正面から受け止めて生きることである。

フェーリクスは、鋭敏な感受性を持ち、普通の人が気づかないような細やかなしぐさや言葉、自然の動きの中に魅力や感動を見出した。鋭敏な感受性や神経を持つのは、ある面では多くの刺激を受けることで苦痛をもたらすが、それでもそういう負の影響があったとしても、優れた感受性を持って生まれたことをフェーリクスは喜び受け入れるのである。鈍感な感受性であれば引き受けなくてもよい苦痛を自ら肯定して、細やかな刺激を感受しながら生きる。


フェーリクスは、クックック教授が館長を務める自然博物館を訪れたが、それは人間の根源、そして自己の根源でもあるが、を考える機会となった。古代から現在へ向かって進化していく生物の標本を見て、フェーリクスは大きな感動に打たれた。甲殻類、頭足類、腕足類、ウミユリなどを含めて、全ての生物がさまざまな形態を試みながら、ヒトを目指して生きていた。人には奇異に映る様々な形態に表れている生存への試みは不合理に見えるが、ある種の尊厳と自己合理性を持っているのだと感じたとき、フェーリクスは生命のもつ意義や意味に心を揺さぶられたのである。

フェーリクスは、幼いころに自分の貴顕さの根源を求めて、自分の祖先の肖像を見たのであるが、そこには彼が持つ高貴な輝きの起源は見当たらなかった。自然博物館へ来て、古代から現代へ向かっていく生物たちの見ながら、フェーリクスは彼の高貴さの根源を探し求めていたのであった。彼は、その生物たち全体の中に何か尊厳を認め、自分の起源のようなものを感じ、一つ一つの展示から離れがたい気持ちを抱いた。人間の根源はどこにあるのだろうか。


クックック教授に娘がいることを列車の中で聞いていたフェーリクスは、リスボンでクックック家を訪れる誘惑に勝てず、リスボンの街を歩きながら道行く人に邸の住所を聞いては、一人心の中で夢想していた。ところが、あるカフェで隣り合わせた三人組、母、娘、男性が実は探していたクックック教授の夫人と娘ゾゾと教授の助手であった。この母と娘に、フェーリクスは、美の二重性を見出した。それはかつてフランクフルト「ツム・フランクフルター・ホーフ」ホテルのバルコニーで兄妹の中に見出したものと同じ二重性だった。

ゾゾは、歯に衣着せぬ言葉でフェーリクスに応対した。彼女を取り巻く社会や国家が受け入れ可能な範囲を超えた存在であった。フェーリクスは、娘ゾゾに心惹かれ、ゾゾと会う機会を作るためにリスボンを発つ南米行の船を一度見送るほどであった。(結局、物語の中でリスボンを離れることはなかった。)フェーリクスは、娘に心を奪われたが、二重像の片方、つまり母にも惹かれた。母が出てくると、ポルトガルの強い日差しが鮮やかな赤で母を染め、娘は日蔭へと追いやられた。




「詐欺師フェーリクス・クルルの告白」(上)(下) 光文社古典新訳文庫 トーマス・マン著 岸美光訳









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