マイケル・サンデル 「これからの正義の話をしよう」 2 幸福の最大化

正義を議論するのに幸福という視点があることを著者は説明した。幸福とは何か、幸福によって正義はいかに語られるのか。幸福と正義をつなぐ哲学、つまり功利主義という原理を確立したのはジェレミー・ベンサムである。

道徳の至高の原理は幸福、すなわち苦痛に対する快楽の割合を最大化することだというものだ。ベンサムによれば、正しい行ないとは「効用」を最大にするあらゆるものだという。

この考え方は直感的で非常に明解であるし、実際、現在に至るまで広範囲の人々に大きな影響を投げかけているはずである。政治家の発言を見ると、この考え方に沿った意見が見られるだろう。

この考えにベンサムが至ったところは、単なる思い付きではなく、実は人間観察に基づいた深い思索に裏打ちされている。

われわれは快や苦の感覚に支配されている。この二つの感覚はわれわれの「君主」なのだ。それはわれわれのあらゆる行為を支配し、されにわれわれが行なうべきことを決定する。善悪の基準は「この君主の玉座に結びつけられている」のである。

人間は、ただ快や苦の感覚によってのみ支配されている、これは実に人を動物的に捉えた人間観である。しかし、実社会を見ると、この人間観が実に否定しにくいことにも気づかされ愕然とするだろう。あるいは、この人間観を誇らしげに肯定する人さえいる。これでいいのか。

功利主義は正しいのか、例えばこういう問いかけがある。マンハッタンに時限式の核爆弾が仕掛けられており、テロ容疑者を逮捕した。容疑者から何も聞き出せないうちに、刻々と時間だけが過ぎていく。この場合にテロ容疑者への拷問は正当化されるのか。功利主義の立場から見ると、何十万、何百万という多くの人々の生命を守るためであれば、テロ容疑者に拷問するという非人道的な行為は許される。これとは意見を異とする、人権的、道徳的な見地から拷問に反対する人もいるだろうが、大多数は、容疑者への拷問を容認するだろう。

この例から言うと、人は数十万、数百万という数の人命が危険にさらされると、人は、道徳とか人権とかいう大切なものから眼を逸らしてしまいがちである。もし、この例が示すようことが正しいとすれば、道徳とか人権とかいう人間の尊厳に関わる問題は、コストと利益の計算の問題に帰されることになる。人権とはそのような浅薄なものであろうか。

功利主義を深く考えさせてくれる別の問いかけもある。ル=グィンの小説「オメラスから歩み去る人々」が持ち出される。オメラスは美しく幸福で祝された町である。しかし、人々が幸福に暮らしていけるのには理由がある、それは、ある一人の子供の犠牲である。その子供は、町のどこかの地下室に閉じ込められている。窓がなく、鍵がかかったドアが一つあるだけの部屋に一人座っているだけである。知能が低く、栄養失調で、世話をする人も無く、惨めな生活を送っている。町の人々は、この子供のことを知っているが、この子供を外に出して普通の生活を与えようとしない。それは、町の幸福がこの子供の犠牲によって成り立っていることを充分に知っているからである。子供が外に出て癒されるならば、町は今の繁栄や美しさを失う。それが子供を救う唯一の方法であるとしても、町の人々は自らの繁栄を失うことを恐れる。オメラスの人々は正しいのだろうか。勿論それは間違っていると思う。誰かの人権を犠牲にして、自らの幸福を追求することが許されるとは思えない。功利主義的な考え方の限界がこの辺りにあるのだと思う。

「これからの正義の話をしよう」 早川書房 マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳








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